『中流崩壊』に続いて橋本健二の本を読んでいる。河出新書から今年初めに出た『〈格差〉と〈階級〉の戦後史』であって、これは2009年に河出ブックスから出版された『「格差」の戦後史』の増補改訂版とのことだ。
この本の第3章から第10章までのタイトルを並べると、貧しさからの出発 - 敗戦から1950年まで、「もはや戦後ではない」 - 1950年代、青春時代の格差社会 - 1960年代、「一億総中流」のなかの格差 - 1970年代、格差拡大の始まり - 1980年代、日本社会の再編成 - 1990年代、新しい階級社会の形成 - 2000年代、アンダークラスの時代 − 2010年代、となる。
昨日(10/29)はたまたま第3章の「貧しさからの出発 - 敗戦から1950年まで」を読んでいた。先頃亡くなった坂野潤治が『日本近代史』(ちくま新書,2012)で幕末から戦前にかけての1857年から1937年までの日本を、「改革」(1857-1863, 公武合体)、「革命」(1863-1871, 尊王倒幕)、「建設」(1871-1880, 殖産興業)、「運用」(1880-1893, 明治立憲制)、「再編」(1894-1924, 大正デモクラシー)、「危機」(1925-1937, 昭和ファシズム)と区分していたが(その後の1937-1945年が「崩壊の時代」だが、この時代については論じられていない)、戦後の1945年から50年代初頭にかけては、上記に当てはめれば「改革」と「革命」とを短期間で経験した時代だったといえるのではないか。
その時代を扱った第3章の中に印象的な一節があった。前掲書120-123頁の「工職間身分撤廃」だ。
戦前の企業では、工員と職員、今の言葉でいえばブルーカラーとホワイトカラーの賃金格差が大きく、両者の賃金には3〜5倍もの開きがあった。これに対する労組の運動が記述されている。以下、前掲書から引用する。
これに対して多くの組合は、工員と職員の平等な処遇を要求した。このときの労働組合が、工員と職員が同一組織に同じ資格で加入するものだったということは重要である。戦前の労働組合は、基本的に工員だけの組織だったし、また世界的にみてもホワイトカラーとブルーカラーが同じ労働組合に組織される例は多くない。ところが戦後日本では両者が同じ労働組合を組織し、しかも職員が組合員のかなりの割合を占め、指導的立場を担うことも多かったのである*1。工員と職員の平等な処遇を要求することは、これまで優遇されていた職員にとっては不利のようにも思える。ところが身分制度撤廃を求める声は強く、「優遇されている社員層においてもこの点を強く支持しており、逆に工員層より強い、という感すらあった」という*2。こうして工員と職員は、いずれも「社員」という、少なくとも建前上は対等な身分にあるものとされるようになった。
この結果、工員と職員の賃金格差は縮小した。(後略)
1930年代に3〜5倍もの開きがあった工員と職員の賃金格差は、1947年には1.3倍ほどにまで劇的に縮小したのだった。ただ、この改革にも限界はあった。以下再び前掲書から引用する。
(前略)もっとも、このように格差が小さい待遇のもとにおかれるのは、主に一定規模以上の企業の男性正社員に限られ、ほとんどの女性と非正規労働者は除外されていた。この、ある程度まで平等な男性正社員たちと、それ以外の人々という構造は、その後の日本の経済格差に大きな影を落とすことになる。
上記のような限界はあったとはいえ、日立製作所などの大企業のホワイトカラーたちがブルーカラーとの格差解消に積極的に取り組んだ歴史が、戦後日本の労働運動史上には確かにあった。
この本を読んだあと、下記記事にいただいたsuterakusoさんのコメントに接して、大いなる落差を感じたのだった。
思ったのは、suterakusoさんが言われる「自分たちの『良識』は保ちつつも、階級を固定し、自分たちの転落を防いでくれる実行犯として、『新自由主義右翼』を積極的に利用している」人たちが仮にいるとしても(というか、多分少なからずいると私も思います)、その同じ人たちが敗戦直後の日立製作所で「職員」として働いていたならば、「工員」との格差解消に真剣に取り組んだのではなかろうかということだった。
だから私は、前記のコメントに対して下記のように返答した。
私の意見はid:suterakusoさんとは明確に違います。
「穏健保守」や「リベラル」は「世間」とか「同調圧力」と呼ばれるものによって、有形無形のプレッシャーをかけられて萎縮している、あるいは窒息しかかっているのだろうと思っています。
「新自由主義右翼」を積極的に利用しようとは考えなくとも、損得勘定によって彼らと自分たちをともに利する行動をとってしまうことは、まああるでしょう。
但し、社会が本当の復興期に入れば、人々の思考や行動のスタイルは、そのようなものではなくなるはずです。
現在の日本社会が収縮期にあるからこそ「穏健保守」や「リベラル」の人びとも保身に走り、それが新自由主義者どもを利しているのではないでしょうか。
社会の収縮期とは、新自由主義者にとっては最高の世の中なんですよ。デフレが金持ちにとっての天国であるのと同じ話です。
課題は、いかにして収縮期から復興期へと社会の流れを転じるかでしょう。そのためには何をすれば良いのか。今こそ知恵を絞るべき時だと思います。
菊池誠の名前が出てきたので彼の意見にも触れておくと、経済の縮小局面から拡大局面へと転じる必要があると考える点では、私の意見は彼と共通している。違うのは、菊池誠はリフレや金融緩和、積極財政だけでなんとかなると考えていて、安倍前政権の経済政策にほぼ手放しの賛辞を送っていた(る)のに対し、私は前政権の経済政策は多分に新自由主義の尻尾を残していて、格差縮小や貧困の解消には全く不熱心であり、そのために前政権の経済政策は不成功に終わったと考えていることだ。
前のエントリで書いた通り、橋本健二氏は格差が経済成長を押し下げていると指摘しているが、私もその指摘は正しいと考えている。
ましてや、極右色は安倍晋三ほどではないかもしれないが、新自由主義の経済政策においては安倍をはるかに上回る凶悪さを誇る菅義偉が総理大臣になってしまったため、戦後日本の「崩壊の時代」は終わるどころかますます悲惨さを増す恐れさえある。来年までには必ず行われる衆院選で与党が勝つか、議席減を僅少にとどめて来年の自民党総裁選に菅が再選されるようなことがあれば、その懸念はますます強まる。
世を拗ねたような暗い意見ばかり言っていても仕方がない正念場を迎えていると強く思う次第。
これまでのコメントからも分かると思いますが、私は悲観的に見ているというか、現在の階級社会に対するルサンチマンのような感情が強く、「リベラル」や「穏健保守」は、「新自由主義右翼」と対抗するどころか、むしろ、自分たちの「良識」は保ちつつも、階級を固定し、自分たちの転落を防いでくれる実行犯として、「新自由主義右翼」を積極的に利用しているのではないか、それこそが、このうんざりする現状なのではないか、と感じています。
キクマコの話に振れば、それこそ、だからしかたないよね、と自民や維新に投票する「リベラル」や「穏健保守」の行動に対する、ふわっとした赦しの一部になっているのではないかと思います。