kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

『週刊朝日』5月末で休刊へ。1974年の「インチキスプーン曲げ」暴露記事が思い出される

 『週刊朝日』が101年の歴史に幕を下ろす。

 以下NHKニュースより。

 

www3.nhk.or.jp

 

週刊朝日」5月末で休刊へ 創刊から100年余 週刊誌市場縮小で

2023年1月19日 12時18分

 

週刊誌市場が縮小する中、100年余り前に創刊され、日本最古の総合週刊誌とされる「週刊朝日」がことし5月末で休刊することになりました。

 

週刊朝日」は大正11年の1922年創刊で日本最古の総合週刊誌とされ、政治や社会問題だけでなく司馬遼太郎の歴史紀行、「街道をゆく」を連載するなど幅広いテーマを取り上げてきました。

週刊朝日」の発行元の朝日新聞出版によりますと1950年代には発行部数が100万部以上に上りましたが、去年12月の平均発行部数はおよそ7万4000部だということで、週刊誌市場の販売部数や広告費が縮小する中、ことし5月末をもって休刊を決めたということです。

朝日新聞出版は「100年余りにわたって読者の皆さまから多大なるご愛顧をいただき心より御礼申し上げます。今後はウェブのニュースサイトや書籍部門により一層注力していく判断をしました」などとコメントしています。

また朝日新聞社が発行するジャーナリズム専門誌「Journalism」も、ことしの3月号をもって休刊するということです。

 

NHKニュースより)

 

出典:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230119/k10013953961000.html

 

 『週刊朝日』は亡父がよく買っていた。購読紙が朝日だった頃は『サンデー毎日』を買っていたが、毎日に変えたあとは『週刊朝日』だった。さらに読売に変えたら『週刊朝日』と『サンデー毎日』の療法を買うようになった。晩年には右翼化が顕著になって産経をとるようになり、その頃には両誌とも買わなかった。

 1970年代半ば頃から『週刊朝日』の巻末には「山藤章二のブラック・アングル」が載るようになり、それが新潮文庫に入ったので何冊か買った。1976年から79年頃までの分。それ以降も文庫化されていたのかもしれないが、最初の方しか買わなかった。

 あと70年代の同紙は篠山紀信撮影の表紙がウリで、熊本大学の学生だった宮崎美子が芸能界入りするきっかけになったはずだ。宮崎は勘の良い人で、昨年も山本太郎の「目が怖い」という的確な批評をした(笑)。下記は昨年7月の池戸万作のツイート。

 

 

 この件では山本のいかがわしさを見抜いた宮崎を評価すべきだろう。

 検索語「週刊朝日」でググっただけで下記のしょうもない記事がヒットした。記事の引用はしない。

 

news.yahoo.co.jp

 

 あと『週刊朝日』でなにがあったかなあと思い出そうとしてもなかなか出てこなかったが、そうだ、スプーン曲げの少年のトリックを暴いたよな、と思い出した。1974年のことだ。この件を取り上げたブログ記事があった。

 

ameblo.jp

 

 上記ブログ記事によると、『週刊読売』は少年の超能力は本物だとの論陣を張って『週刊朝日』と激論を交わしたらしい。私は最初から、どうせ投げる直前に曲げてるんだろとしか思っていなかったから、『週刊朝日』の暴露にもさもありなんと思っただけだった。

 しかし読売がどうしようもないのは政治やプロ野球だけに限らないことがよくわかる一件だ。この件及びその背景となった1973〜74年の超能力ブームは、1973年に突如として高度成長経済が終わるのと相前後して、完全なフィクションである小松左京の『日本沈没』とともにペテン師だった故五島勉が書いた『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになったこととも共通する時代の流れに乗ったものだったと思われる。

 当時の超能力ブームには、テレビ番組の影響が非常に大きかった。以下、高橋直子*1が2021年に『文春オンライン』に書いた記事から一部を引用する。長いのと、記述の順序に問題があって混乱しやすい箇所があるので、いくつかに分けて引用する。

 

bunshun.jp

 

 まず記事の前半部分を引用する。

 

「1、2、3…曲がれ!」社会現象になった超能力ブーム…異常な熱気を生み出したTV各局の“オカルト倫理観”を振り返る

『オカルト番組はなぜ消えたのか 超能力からスピリチュアルまでのメディア分析』より #1

 

高橋直子 2021/07/17

 

空前の超能力ブーム

 

 超能力ブームといわれた社会現象をテレビ番組の展開から描出してみると、次のようになる。まず、ブームの火付け役になったユリ・ゲラーが日本のテレビ取材に初めて応じたのは、1973年12月214日(原文ママ)放送の『11PM』である。ディレクター(矢追純一)の面前で金属製品(パイプ用コンパニオン)を曲げ、切断してみせた。翌74年2月、初来日。この間、1月24日放送の『13時ショー』「スクープ!超能力少年日本で発見」に関口淳(当時11歳)が出演し、スプーン曲げを披露していた。2月25日、『11PM』にユリ・ゲラー生出演。司会の大橋巨泉やアシスタントの松岡きっこの前でスプーン曲げを実演し、関口少年と対面する。翌日、ユリ・ゲラーは日本を去る。

 

 続いて、1974年3月7日午後7時30分、日本テレビで『木曜スペシャル』「驚異の超能力!!世紀の念力男ユリ・ゲラーが奇蹟を起す!」が放送される。番組前半は離日前の公開録画で、ユリ・ゲラーがフォークを曲げてみせた。彼は念力を発揮するのに、観客や視聴者に助力を求める。「さあ、みなさん。僕に力を貸してください」「テレビを見ているみなさんも、僕と一緒に念じてください…曲がれ…と!」「1、2、3…曲がれ!」――こうしたパフォーマンスに、テレビの前の視聴者は引き込まれた。後半はカナダのトロントからの生中継で、彼は日本に念力を送るという。視聴者はスプーンや動かなくなった時計を手にするよう促される。スタジオにはスプーンを手に念じる司会者とゲスト、視聴者からの電話を受ける一群の女性スタッフ――すると、司会の三木鮎郎の止まっていた古時計が動きだし、視聴者から「うちのスプーンが曲がった」「止まっていた時計が再び時を刻み始めた」などの電話が相次いだ。「当夜だけで1万件の電話があり、局の電話交換機が焼けただれたという」

 

(中略)

 

 超能力ブームをテレビ番組で追ってみると、4月から5月初旬(ゴールデンウィーク)がブームの最盛期だったと看取できる。超能力への関心が社会的話題となった4月から5月上旬、ワイドショーは3日にあげず超能力を出し物としていた。

 

ブームの過熱と収束

 

 超能力番組への批判は、4月初旬から新聞紙面に見いだされる。4月6日付「読売新聞」に掲載された囲み記事は、石川雅章からの手紙を紹介しながら、子どもたちが超能力者に祭り上げられる状況に対する懸念を示す。

 

「私にもできます」「うちの子だって…」といった種類の電話は、新聞社にも数多い。念力少年・関口淳くんも出演した4日夜の日本テレビ特集番組を見ていたら、この番組についての電話お断りというテロップが流れたから、テレビ局にはもっと激しいのだろう。そして目下、超能力のスターには、なぜかチビッ子が多い。(略)少年や少女はこれらの不思議をメルヘン的興味で受け取り、自らも試みるわけだが、たまたまその“冒険”に成功したように見えると、金のタマゴのように目をつけた大人たちが、少年少女の一生を狂わせることにならないか……。戦前、山田喬樹という男は娘をテレパシー(暗号によるアテモノ奇術、と石川氏は言う)の霊能少女に仕立て、9歳から15歳までの大切な少女期の彼女を、生き神さまとして御簾(みす)の中に閉じ込めた。そしてぜいたくな暮らしをしていた山田が昭和12年7月に福岡県で愛妾(あいしょう)と共にサギ罪で捕えられた時、娘の方は「これでようやく人間に戻れました」と喜んだ。これは当時、大きく報道された事件だったらしい。これは極端な例にしても、やはりテレビに登場した某少年のところには、身の上相談的な客が日に何十人か押しかけているという。石川氏の指摘する危険性なしとしない

 

「読売新聞」1974年4月6日付夕刊

 

朝日新聞は「イワシの頭も信心だから…」

 

 また、4月20日付「朝日新聞」「天声人語」は、「イワシの頭も信心だから、大騒ぎしている人に水をさすのもどうかと思うが、ばかばかしい話としか言いようがない」と、次のように論じた。

 

「科学で解けぬ奇跡」と麗々しい触れ込みで、テレビは視聴率を上げる。本気でそう信じているのなら困ったことだし、そうでないなら無責任な話である。手品師が「タネも仕掛けもありません」と口上よろしく、シルクハットからハトや金魚ばちを出すのも不思議なことだが、だれもこれを「超能力」とは思わない。タネがあるのを知っているからだ。ただそれを見破れないから手品師は商売になる。「超能力」のタネが見破れないのは手品と同じだろうが、それに「奇跡」やら「神秘」やらともっともらしい言葉をつける。トリックさえトリックして、集団催眠術にかけようとするところがなんともいただけぬ。

 

天声人語」「朝日新聞」1974年4月20日付朝刊

 

(文春オンラインより)

 

出典:https://bunshun.jp/articles/-/47070

 

 元記事ではこのあとに、約1か月後の「天声人語」及び『週刊文春』の記事を引用しているが、これらはいずれも弊ブログの本記事にとっての焦点である『週刊朝日』が少年のインチキスプーン曲げを暴露した記事のあとに生じた「世間」の「空気」が変化したことを受けて書かれたものだ。肝心の『週刊朝日』の記事はそれらのあとに言及されるが、元記事のままだと時系列がわかりにくいので、上記の部分の引用は後回しにして『週刊朝日』の記事に言及した部分を先に引用する。

 

 超能力ブームは、「超能力を信ぜざる者は人にあらず」という空気が醸成されるほど過熱したが、週刊朝日」1974年5月24日号(朝日新聞社)が関口少年のスプーン曲げのトリックを捉えた写真を掲載、「衝撃スクープ」「科学的テストで遂にボロが出た!」「“超能力ブーム”に終止符」と報じると、ブームは一転する。「週刊朝日」のスクープ以降、超能力ブームは急速に下火になって収束する。

 

出典:https://bunshun.jp/articles/-/47070

 

 このあと、先に「後回しにする」と書いた部分を引用する。

 

 およそ1カ月後、5月16日付「朝日新聞」「天声人語」は再び超能力ブームに言及するが、そのなかで「先日、このコラムで『手品を超能力だと称するところがいただけぬ』と書いたら、たくさんの投書をいただいた。ほとんど全部が『科学盲信の独断だ』という反論だった」と明かしている。超能力を率直に否定する言説に対して、受け手(読者)が反発を示すマスコミュニケーション状況があったことがうかがえる。

 

 以下は、「週刊文春」1974年6月10日号にある記事の冒頭である。

 

 超能力を信ぜざる者は人にあらず、から一転して、スプーンを曲げるなどといおうものなら、白い目で見られかねまじき雰囲気だが、この一大キャンペーンの先頭に立つのが大朝日。その威力のほどをまざまざとみたり、といいたいところ

 

文藝春秋編「週刊文春」1974年6月10日号、文藝春秋、148ページ

 

出典:https://bunshun.jp/articles/-/47070

 

 さらに前記二度目の「天声人語」(1975年に夭折した深代惇郎氏の筆になる文章だと思う)の1週間後に朝日新聞に掲載された記事が引用される。

 

自粛した局と続けた局

 

 以下は、東京・大阪の二局が超能力番組の自粛を決めたことを報じる1974年5月23日付「朝日新聞」の記事(リードを除く本文)である。超能力番組に対して当時なされた批判の要点を把握できる内容なので、長くなるが、全文を引用する。

 

 自粛を決めたのは大阪の毎日放送で、このほどNETなどネット局にも配慮を求める申し入れをした。大阪府教委から「スプーン曲げには、トリックを使っている子どもがおり、テレビで取り上げるのには教育上問題がある」との申し入れがあったからだという。

 

 TBSも「局員を拘束してはいないが、新しい事実が出ない限り放送しない」という。同局の宇田テレビ本部長は「もともと民間放送連盟がつくった“放送基準”103条で心霊など、科学を否定するものは扱わないことになっている。手元が映ると念力が出ないなど、超能力者を自称する人たちの撮影条件を受け入れた形で番組を構成すると、どう解説してみても、テレビ局が超能力演出の片棒をかついだとみられるからだ」という。

 

 しかし、これまでたびたび超能力番組をやってきた日本テレビは、さる20日の記者会見で「番組としてはとにかくおもしろいんだから、これからも続ける。科学でも証明できないことはいくらでもある」と動じない。

 

 超能力番組が多くなったのは昨年秋ごろからで、はじめは外国の超能力実演をフィルムで紹介する形で始まった。その後、外国の超能力者の一人といわれるユリ・ゲラーのスプーン曲げを放送したところ「私もスプーンが曲がる」という人が大量に現れ、ブームが頂点になった。

 

 各局は、こうしたスプーンを曲げられる少年少女たちを番組に出演させた。しかし、もともとスプーンは手で曲げることができることや、この“超能力者”たちは「視線が直接当たると力が出ない」などと、さまざまな条件を付けるため、本当に念力で曲がったかどうかはとても証明できない。このため超能力か、そうでないかは曖昧なままで、子ども番組やワイドショーが競って超能力番組をつくり、20数回出演したという超能力タレントまで現れた。

 

 あるテレビ局のプロデューサーは「インチキ超能力者が多かった。科学では理解できない現象も目撃したが、なにしろ“自分だけの空間をつくってほしい”という彼らの要求を入れると、直接目で見ることができないため、どうしてそのような現象が起きるかは解明できるはずがない。出演した子どもたちがみんなウソつきとは思えないし、むしろ自己催眠にかかって、力で曲げていたように思う」という。

 

 23日、渋谷などの街頭で1500枚のビラ配りをする「超能力番組を告発する会」(仮称)は、「あいまいなものが、テレビを通じると、いかにも真実になってしまう魔性」を問題にしている。このグループは若手のアングラ映画制作者らが発起人となったもので、26日午後8時から、東京渋谷区桜ケ丘三丁目の「ポーリエ・フォルト」で超能力番組を考える討論会を開く。

 

 会の発起人の一人、伊東哲男さん(25)は「超能力を信じる人がけしからんなどとはいえない。しかし、一連の超能力番組は、実体が不明確なものを、視聴率がいいからと、いかにも本当らしく見せ、テレビの性格を巧みに使った手品の疑いが濃い。たかがスプーンなどといっていると、もっとこわい視聴者操作が起きたときに防げなくなる。視聴者への影響を安易に考えてほしくない」という。

 

朝日新聞」1974年5月23日付朝刊

(後略)

 

出典:https://bunshun.jp/articles/-/47070

 

 そうなんだよな。「もともとスプーンは手で曲げることができる」とは、当時ローティーンだった私もずっと持っていた疑問だったが、周囲は同級生どころか晩年に極右化する前の亡父まで「超能力信者」と化した者ばかりだった。この当然の疑問を口にすることさえ憚られる空気があの当時には確かにあったのだ。現在のヤマシンだの「泉信者」だの「共産党信者」だのも同じなのではなかろうか。だからこそ「王様は裸だ」と言ってくれたも同然の『週刊朝日』のインチキ暴露記事には大いに溜飲を下げたものだった。こんなことを書くのは今回が初めてかもしれない。

 『週刊朝日』の記事によって一変した空気に敏感に反応したのが、大阪のMBSと東京のTBSだった。最初、両方とも同系列じゃないかと一瞬思ってしまったがそれは間違いで、1974年当時のMBS毎日放送)はANN系列で、TBSをキー局とするJNNには属しておらず、「物言う準キー局」として独自色を出したものだった。だから記事にも「NETなどネット局にも配慮を求める申し入れをした」と書かれている。NETは現在のテレビ朝日である。

 問題はやはり読売であって、読売新聞本体ではまともなことを書いていたのに、系列会社である日本テレビはもちろん、自社で出していた『週刊読売』では「超能力ブーム」を煽りに煽っていたのだった。そして春から秋までは同じ日本テレビが読売戦中継を全国に垂れ流していた。プロ野球の読売軍はその天罰でも受けたのか、1974年にリーグ10連覇を逃すと翌1975年には球団創設初の最下位に落ちたが、以後の47年間で読売の最下位は一度もないのである。なんたることか!

 読売と系列メディアの罪深さは昔も今も変わらない。大阪の読売テレビには辛坊治郎が同社退社後も出突っ張りだし、同じ局が日曜日昼に首都圏等を除いて全国に流す、かつてやしきたかじんの名を冠した極右番組は、冠こそ外れたものの今も続いている。

 読売はともかく、1974年の『週刊朝日』は良い仕事をしたといえる。しかし1970年代から80年代にかけてのこの雑誌は朝日新聞社の右派記者の溜まり場だった。少年のインチキを暴いた記事を企画した『週刊朝日』副編集長の稲垣武(1934-2010)も例外ではなく、稲垣は1989年に朝日を辞めたあとは右翼言論人として古巣批判に精を出した。1994年には第3回山本七平賞を受賞しているが、これは右翼が受ける賞である。稲垣の前年に第2回山本七平賞を受けたのは、あの悪名高いオザシン系陰謀論者・孫崎享(1943-)だった。

 そういえば今世紀に入ってからの『週刊朝日』もオザシン御用達の週刊誌と化した時期があった。その頃から同誌を立ち読みする気が失せたが、その数年後からは本屋で見かけることもなくなった。同様の末路をたどりつつあるのが『サンデー毎日』であって、この雑誌など『週刊朝日』が続いているから部数的には『週刊朝日』よりももっと少ないのに意地で続けていただけではなかろうか。こちらも鈴木哲夫のトンデモ記事が多数載るようになって以来立ち読みする気が失せて現在は本屋でもまず見かけない。『週刊朝日』のあとを追って休刊する可能性がきわめて高いのではないかと推測している。

*1:https://book.asahi.com/article/12212339によると氏は1972年生まれとのことで、同じ読みの元マラソン選手(高橋尚子)と同年齢。