kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

鳥山明死去

 鳥山明死去の知らせで最初に思ったのは、そういえば『ドラゴンボール』第1回が載った『少年ジャンプ』って、山梨に工場見学に行く電車の中で読むために買ったんじゃなかったっけ、確か1984年11月中旬だった記憶があるけど、ということだった。

 ネットで調べてみると第1回が載ったのは同年11月20日発売の51号だった。少年漫画雑誌の号数には規則があって、今も同じかどうかは知らないが、11月最後の週に52号が出て、12月最初の週に「新年特大号」が出る。だから51号なら11月20日発売だ。でも私が工場見学に行ったのはその前の週だった記憶があるから、どうやら『ドラゴンボール』第1回ではなく、次号から始まるよという予告が載った11月13日発売の50号だったに違いない。

 『ジャンプ』というと、1973年の夏休みに若狭湾に家族旅行した時、帰りの何線だったか忘れたが国鉄のローカル線の車内で読むために買ったのがこの雑誌を初めて買った時だった。この号に載ってのが『はだしのゲン』の原爆投下の回であって、あれには忘れられない衝撃を受けた。しかし、この漫画雑誌は毎週買うどころかごくたまにしか買わなかったのだった。特に高校に上がって以降は数年に1回しか買わなかった。80年代半ばには『少年サンデー』をよく買っていた。この雑誌は、亡父が30代の頃に毎週買って読んでいたのだった。まったくとんでもない親父だった。手塚治虫の『火の鳥』はジャンプでもサンデーでもない青年誌に載っていたと思うが、親父は雑誌の別冊で買い揃えていた。中学2年生の1970年代半ばに読んだこの漫画に圧倒されたので、手塚漫画の系譜をジャンプよりは強く受け継いでいるように思われた小学館の雑誌(青年誌では『ビッグコミック』系)の方になじみがあったのだった。

 『ジャンプ』は大学近くの定食店で「新着文献」と称してよく読んではいたが、『ドラゴンボール』は連載初期には面白いと思ったものの、その後じきについていけなくなった。特に私が敵視していたのはゆでたまごの『キン肉マン』という漫画で、その理由は主人公の「キン肉スグル」とかいう奴の名前が、あのにっくき読売なんとか軍のインチキ入団野郎・江川卓からとられていた頃だった。あの茶番劇が演じられたのは、スワローズ初優勝の興奮さめやらぬ1978年秋であって、あれで私の「アンチ読売道」が本格化したのだった。私のトンデモ親父は大の読売ファンで政治思想的には晩年極右化したくらいの保守派だったから、それらへのことごとくのアンチには、私の「父殺し」の意図があったに違いないと今も思っている*1。だからあの江川の名前をとった主人公の漫画が載っている『ジャンプ』も敵視していた。しかし鳥山明ゆでたまごと張り合っていたので、「敵の敵は味方」思考によって悪い感情は全く持っていなかった。それどころか『Dr. スランプ』は面白がって読んでいたほどだ。しかし『ドラゴンボール』には乗っていけなかったし、ドラゴンクエストをプレイしたことは一度もないので(PCの『ウィザードリィ』には人生の貴重な時間をずいぶん無駄遣いしてしまったと後悔しているが)、鳥山明については何を語る資格もない。だからその方面は他の方々にお任せする。

 しかし68歳という死は現代ではかなり早い。でも1989年の手塚治虫60歳、2018年のさくらももこ53歳など、漫画家には比較的早く亡くなる人が多いようにも思う。私は「創造系は短命、再現系は長命」という仮説を持っていて、それは作曲家は早く死ぬのに自らは何の音も出さないくせに演奏家たちを「指揮する」だけの指揮者はやたらと長生きするんだなあという偏見からきている(そういえば小澤征爾も88歳まで生きた。でもあの人は最後の20年くらいは思うように音楽活動ができなかった)。

 鳥山明の死因は急性硬膜下血腫だったというから、初めは氏が転倒でもしたものかと思ったが、2月に脳腫瘍の手術を予定していたとも聞くから、悪性の脳腫瘍が原因となった血腫なのだろうか。ともかく脳腫瘍手術の予定があった、その前から具合が悪いとの訴えがあったとの情報からは、外傷性の原因である可能性は低いのではないかとの心証を持った。しかしネット検索をかけると、高齢者が転倒した時にはどうこうとか、鳥山氏の死因が外傷性であるかのようにきめつけているかのような情報が流布しているのが非常に気になった。

 本当のところはどうだったのだろうか。

 鳥山明氏の逝去にお悔やみ申し上げます。

*1:だから私が死んだらドン・ジョヴァンニみたいに地獄に落とされるかも知れない。