昨日のエントリ*1の続き。まるで劣化版池田信夫でもあるかのように、地球温暖化懐疑論を振り回す植草一秀への批判。
ゴミ分別細分化とレジ袋撤廃運動の非合理性: 植草一秀の『知られざる真実』 は、下記のように書いている。
地球環境に対する関心が高まり、温暖化ガスの排出量削減に各国が取り組んでいる。生命が存在できる地球環境を維持することは重要である。
- 地球温暖化の傾向が確かである、
- その原因が明確である、
- 原因を除去することが技術的に可能である、
- 原因を除去することによる効用が原因を除去することに伴う弊害を上回る、
のすべての条件が正しければ、温暖化対策を進めることは是認される。
これを私は、飯田哲也氏の論考を借用して、植草が「予防原則を理解していない」と批判したが、植草が挙げた要件の後半を批判したのが、経済学者の痴れ言を、不法行為判例から見返し、disる。 - buhikunの日記 である。
普通にこれはひどいんだが。
経済学者のポジショントークとして、環境対策とそのリターンにつき、「メリットはありますか?」にならざるを得ない。
かかる思考を、「新自由主義的」とdisるのは容易だが。
この辺は、新自由主義の当否云々を争うなんて夢幻の大正期から表れている。
以下、大正時代の大阪アルカリ事件裁判の紹介などが続く。私は法学部出身ではなく、この件は知らなかった。
エントリは、
環境問題につき、「環境権」を定立した大阪弁護士会有志の企図は結実していないと解されるが、環境問題の今日性、政策的重要性は確かにあると解する。
その際経済学者の論において、社会的費用や外部不経済を閑却していたら、眉につばつけてかかる視点が求められよう。
と結ばれるが、そもそも植草一秀は「経済学者」と言えるのだろうかと私は疑問に思っている。バブル崩壊前後から2002年くらいまでは、民間のエコノミストとしてそれなりの働きをしたのかもしれないが、植草はなぜここまで徹底的に堕落し切ってしまったのだろうか。
また、批判の対象になったエントリに端的に示されているように、環境問題を経済効率の観点からしか捉えることのできない劣化版新自由主義者としての主張を明確にしている植草を、なぜ小泉・竹中の新自由主義路線を批判しているはずの人たちが熱狂的に支持しているのか、それも私には全く理解できない。