享年78歳だったが、とっくに80歳を超えているとばかり思っていた。というのは、私が大沢氏の名前を知ったのは、少年時代にプロ野球に初めて興味を持った頃だったからだ。1971年のことである。
関西育ちだった私には、プロ野球のチームといえば阪神と巨人、それに両球団を追う大洋くらいしか頭になく*1、巨人の試合は全国中継で、阪神の試合は神戸のUHF・サンテレビで見ていたが、後者でテレビの画面に映る甲子園球場は観客がまばらだった。当時は関西でも、巨人>阪神>>大洋>他のセ3球団>>パシフィックリーグという不等式が成り立つ時代だった*2。
ところが、当時家で購読していた毎日新聞は、阪神や巨人ばかりではなく、パシフィックリーグの試合を大きく伝えていた*3ので、記事ばかりで実際の選手を目にすることがなかったパシフィックリーグにも関心を持つようになったのだった。
もっとも、阪神や巨人の試合ばかり見ていた私が狂喜したのは、1971年のオールスター戦における江夏の9者連続三振だった。それまで新聞の紙面でしか知らなかったパシフィックリーグの強打者たちをバッタバッタと三振に切って取る江夏に、少年時代の私は熱狂した。
とはいえ、パシフィックリーグの優勝争いも記憶に残っている。そして鮮烈な印象を残したのは、阪急ブレーブスが独走していたパシフィックリーグで、2位・ロッテの監督に大沢啓二が就任して以来、ロッテが奇跡的な追い上げを見せて、8ゲーム差つけられていたのをあっという間に追いついたことだった。
ネット検索をかけたら、それは1971年8月1日の出来事だったことがわかった。
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10august/KFullNormal20100801207.html
ロッテは結局阪急を追い越せず、阪急がリーグ優勝を遂げ、阪急有利との下馬評だった日本シリーズ第3戦で、阪急のエース・山田久志が巨人の王貞治に逆転サヨナラ3ランを浴びた試合もあった。
それはともかくとして、この年のロッテといえば、阪急相手に放棄試合を記録したことがあった。どういうわけか、私はこの放棄試合を、大沢啓二が監督になってからやったことだと思い込んでいた。しかし、これは大沢啓二の前任・濃人渉が監督を務めていた同年7月13日の試合であって、この試合が濃人の解任と大沢の監督就任につながったことを知った。
大沢啓二というと、張本勲と組んだテレビ番組での「喝」、「あっぱれ」が有名だが、濃人渉と張本にも共通点がある。というのは、二人とも広島で被爆しているのだ。張本勲が「原爆手帳」を持っていることは今では広く知られているが、かつては球界で「被爆手帳」を持っている人として語られていたのは濃人渉だった。濃人は、1990年に75歳で亡くなっている。
濃人渉の死去から20年、私が大沢啓二を知ってから39年。そんな昔から知っている人物だから、とっくに80歳を超えていると思っていたわけだ。78歳の「若さ」とは思いも寄らなかったと同時に、大沢の「早過ぎる」死が残念でならない。
大沢親分のご冥福を、心からお祈りしたい。