kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

毎日新聞が正力松太郎・中曽根康弘・田中角栄が行った原発推進の策動を批判

全国紙で真っ先に「脱原発」へと舵を切った毎日新聞は、腰のふらつく朝日とは違って徹底的にやるつもりらしい。


http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110420dde012040004000c.html

特集ワイド:「国策民営」 日本の原子力、戦後史のツケ


 危機と対応の混乱が続く福島第1原子力発電所。この国には、この「フクシマ」を含め54基の原子炉がある。そもそも被爆国であり地震国でもある日本に、なぜ、これほど多くの原発が造られたのか? 「原子力の戦後史」をひもといた。【浦松丈二】


 ◇米国の「冷戦」戦略受け導入 政治主導で推進、議論尽くさず


 <ポダムとの関係は十分成熟したものになったので、具体的な協力申し出ができるのではないかと思う>


 早稲田大学の有馬哲夫教授(メディア研究)が05年、米ワシントン郊外の国立第2公文書館から発掘したCIA(米中央情報局)機密文書の一節である。終戦直後から60年代までに蓄積された474ページにわたるその文書には、日本に原子力事業が導入される過程が詳細に描かれていた。


 「ポダム」とは当時、読売新聞社社主で日本テレビ社長だった正力松太郎氏(1885〜1969年)の暗号名。原子力委員会の初代委員長を務め、のちに「日本の原子力の父」と呼ばれる人物だ。

 「戦後、CIAは正力氏と協力して日本で原子力の平和利用キャンペーンを進めていきました。彼が政財界の有力者とのコネを持っていただけでなく、新聞やテレビを使って宣伝できたからです」。有馬教授はそう解説する。


(中略)


 54年に日本初の原子力関連予算を要求したのは当時、改進党に所属していた中曽根康弘元首相らだった。予算が衆院を通過したのは、ビキニ環礁での米核実験で漁船員らが被ばくした「第五福竜丸事件」が明るみに出る約2週間前の3月4日。中曽根氏はギリギリの日程で原発関連予算を通す。中曽根氏は原子力関連法を次々に提案し、科学技術庁(現文部科学省)の初代長官に就任した正力氏とともに、原子力事業を推進した。


(中略)


 70年3月14日、日本初の商業用軽水炉として、日本原子力発電敦賀1号機が大阪万博開幕に合わせて稼働し、万博会場への送電を開始した。正力氏はその前年に他界している。続いて新エネルギーとしての原子力に注目したのは、73年の第1次オイルショックと前後して資源外交を進めた田中角栄元首相だった。


(中略)


 田中元首相は自民党幹事長だった69年、東京電力柏崎刈羽原発の建設誘致に動く。首相末期の74年6月には原発の立地支援のための交付金などを定めた電源3法を成立させた。「建設業界、電力業界、官僚、学会が右肩上がりの需要予測を利用して原発を推進した。『列島改造』という国土開発に原発が組み込まれた時代だったのです」


 さらに田中元首相は、米国頼みだったエネルギー政策を転換する。「田中氏は欧州の原子力大国フランスとのパイプを築き、ウラン資源を確保するとともに(プルトニウムを抽出する)再処理技術にも触手を伸ばそうとしました」。そのうえで山岡氏は「先見の明のあった田中氏であれば、そこで原子力だけではなくクリーンエネルギーにも翼を広げておけばよかったのですが……」と語る。70年代、2度のオイルショックを経て日本は原発一辺倒に突き進む。


中曽根と正力(読売新聞)が原発を推進したことや、正力が「ポダム」というコードネームを持つCIAのエージェントだったことは、原発問題についてネット検索をしたことがある人なら常識だろうが、この事実を大震災以前には「原発推進」を社論にしていたマスコミの一角・毎日新聞が取り上げたところに意味がある。読売新聞を購読していて、読売だけしか読まない人たちは相変わらず知らないだろうが、今後、正力や中曽根が行った歴史的犯罪は、広く国民的常識になるだろう。


加えて、この毎日の記事は田中角栄の責任を厳しく追及している。


田中が日本のエネルギー政策を転換したのは事実だ。私が小学生の頃、田中が首相を務めていたが、当時の日本において、電力の原発依存度は3%か4%くらいだと小学校で習ったものだ。それが、いまや3割になったことに田中が果たした役割は大きい。


思い出されるのは、小沢一郎が何かといえば田中に倣った政治を実行してきたことだ。小沢は、田中がたくらんで果たせなかった小選挙区制の導入をなしとげた。そして、民主党のエネルギー政策を「原発積極推進」へと転換したのもまた小沢一郎だったのである。