kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「営利企業による原発運転」批判と「利権」批判の両方が必要だ

全く信用できない - dongfang99の日記 が、原発の「利権構造」をしきりに批判する河野太郎に疑問を投げかけている。

 衆議院議員河野太郎が「脱原発」を盛んに主張している。正直、そのこと自体にも若干の違和感があるが(彼が「脱原発」の主唱者だとは震災以前は私を含めて知っていた人は少なかったはずだ)、もっと問題なのはやたらと「利権」「癒着」の論理で批判していることである。しかも、その批判に共感している人が結構多い。

 言うまでもないが、もし「利権」「癒着」があったとして(政府の予算がついて回る場所にはどこにもあるに決まっている)、今回の事故と因果関係があるかどうかは不明である。完全に競争民営化されていたとして、事故は防げなかった可能性、より深刻化した可能性はいくらでもある。その時は、「市場原理主義的な利益・効率優先の思想が安全性を犠牲にした」という批判が、大合唱で起こるのだろうと思う。要するに、何とでも言えるのである。


私が東電原発事故が起きた当初、最初に直感したのは、東電はまず原子炉の維持を第一に考え、それで初動を誤ったに違いないということだ。これは、私のメーカー勤務時代の経験に重ね合わせて直感したことであって、「資本の論理」に任せていたら事態は自動的にそのように推移するという、私なりの確信に基づいている。その後の毎日新聞による検証記事は、概ねその直感に近いものだったが、朝日新聞の高橋真理子記者が「報道ステーション」で語ったところによると、あれは官邸の言い分を一方的に流しているだけで、東電の現場の捉え方とは違うとのことだ。

高橋記者の主張に対しては、そりゃ東電の現場とは違うに決まっているけれども、東電の幹部の心理と行動に関しては、ほぼ毎日新聞の検証通りだったのではないかと私は思っている。つまり、東電の現場では、技術的に最善の対応を目指したには決まっているけれども、東電の幹部は「科学(技術)の論理」ではなく「資本の論理」に従うから、東電の現場の意向とは異なる行動をとったのではないか。

何が言いたいかというと、要するに今回の事故における最大の問題は、「原発のような危険な施設の運転を、営利企業に任せていた」ことだ、それが私の主張のもっとも大きなポイントである。営利企業が目指すのは利益を上げることであり、東電の社長が「コストカッター」として有名な人物だったり、会長が「東芝や日立が建設する原発はオーバースペックだ」と公言したことは、その表れだ。

だが、東電が原発を運転して利益を上げることができたのも、原発推進を国策としたことから生まれた「利権構造」であることは間違いない。新自由主義批判を第一とする私のブログでは、これまで「利権」という言葉を意識して封印してきたが、今回の東電事故であえて「利権」というキーワードを多用するのは、そういう理由による。そして、その利権を作ってきたのは、政治家では中曽根康弘岸信介田中角栄系列の人たち、正力松太郎渡邉恒雄らの読売新聞を代表とするマスコミ、それに経済産業省の官僚、電事連、電力総連、電機連合などだとしか言いようがない。誰かさんではないが「悪徳ペンタゴン」(但しアメリカの代わりに御用労組が入る)と言いたくなるほどだ。

他国のエネルギー政策に学ぶ時、一度は電力の自由化のプロセスを経ているのは事実だ。もちろん、原子力発電所のように特に危険きわまりない設備は、利益の追求を第一義とする私企業の自由競争にしたら危なすぎてたまったものではないから、絶対に公営化すべきだと思うが*1、電力行政に関しては、一度戦時の統制経済にルーツを持つ、現在の10電力会社による地域独占体制を解体しなければならないと私は確信している。

ただ、いかな再生可能エネルギーといえど、環境に無害ではあり得ない。だから、最終的には公的部門によるしかるべき規制は必要だとも思うが、それも現在の有害な枠組を一度解体した上で、改めて国民生活に利益をもたらす枠組を再構築する必要があるのではないだろうか。

今回の東電原発事故に対しては、「営利企業による原発運転」批判と「利権」批判の両方が必要だ。そう強く訴えたい。

*1:もちろん原発は段階的にでも撤廃に持っていくべきである。