kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

津田恒美の命日に、前田智徳の決勝打で広島が勝利

最近はめっきり面白くなくなったプロ野球だが、かつて広島のストッパーを務めた津田恒美はすごい投手だった。1986年、読売の主砲・原辰徳の手首を打ち砕いたのだ。津田の豪速球をファウルした原は、手首を骨折してしまい、以後の試合に出場できなくなった。津田は、なんともすさまじい「炎のストッパー」だった。

これは、同年9月に後楽園球場で行われた読売と広島の最後の首位攻防3連戦、2戦目での出来事。江川をノックアウトした前日に続いてこの試合にも勝った広島は、マジックナンバーを減らして優勝へと前進したが、皮肉にも原を欠いた読売は、翌日の対広島最終戦から連戦連勝、確か8連勝まで行ったと思う。その間2敗を喫した広島を、「あと一敗もできない」ところにまで追いつめたが、神宮球場で行われた対ヤクルト最終戦で槙原がブロハードに逆転2ランを打たれて負け、万事休した。広島が優勝を決めたのは、読売が痛恨の敗戦を喫したと同じ神宮球場だった。広島先発の北別府は完投ペースだったが最終回のマウンドを津田に譲り、津田が胴上げ投手になった。あの頃のプロ野球は面白かった。同年にはパシフィックリーグでも西武と近鉄が死闘を演じたが、同じ2球団は2年後、それをさらに上回る僅差の競り合いを展開したのだった。

1986年の日本シリーズで、優勝まであと1勝に迫った広島だったが、相手投手の工藤に打たれて流れを変え、3連勝後の4連敗の原因を作ったのも津田恒美だった。パで「10・19」のあった1988年には津田は数々のサヨナラ打を浴び、「サヨナラの津田」とも揶揄された。しかし翌年には復活し、最優秀救援投手のタイトルを奪回した。

その津田の最後の登板はテレビで見た。忘れもしない1991年4月14日のことだ。広島市民球場で行われた読売戦で、7回まで無失点の先発・北別府を救援したが、2人の走者を出して降板した。およそ津田らしからぬ投球だった。津田をリリーフした大野も打たれ、津田が出したランナーを返してしまって、津田は敗戦投手になった。2人目の走者を許したときの津田は、「ああっ、なんてこった」という表情を見せたような気がするが、それはその後の津田の運命を知っているから記憶がねじ曲げられたものかもしれない。なお、この1991年に広島は優勝したが、その後19年間、広島は優勝から見放されている。

このブログには、以前にもこの日の津田のことを書いた記憶がある。もしかしたら書くのは3度目か4度目ではないかという気もする。それくらい強く印象に残ったテレビ観戦だった。書くたびに文章も少しずつ変わってきているかもしれないが、それが人間の記憶というものだ。

津田は、「水頭症」で登録抹消とのことだったが、正確な病名は「脳腫瘍」だった。恐ろしい病名だが、実は脳腫瘍には良性の場合が少なくない。悪性脳腫瘍より良性脳腫瘍の方が多いとも聞く。しかし、津田がかかった脳腫瘍は、悪性脳腫瘍の中でも特にたちの悪いものだった。

1993年7月21日朝の「日刊スポーツ」の見出しをよく覚えている。「津田が死んだ」だった。やはり悪性の脳腫瘍だったか、そう思った。なぜか、津田の病気が最初に「水頭症」と発表された時から、実は悪性の脳腫瘍ではないかという気がしていたのだった。この手の悪い予感は不思議とよく当たる。1985年に夏目雅子が最初に入院したと聞いた時にも悪い予感がした。もっとも、2人とも結果が悪かったから予知していたような気になっただけで、同じように悪い予感を持ってもそれが現実にならなかった場合だって多いに違いない。

何はともあれ、その津田恒美の存命中に売り出した前田智徳の決勝打で広島が「津田の命日」に行われた試合に勝ったというのは、とても感慨深いものがある。

広島は5位だが、同率2位の中日と阪神に2ゲーム差に迫った。4位読売ともゲーム差なしだ。読売リーグは1強4弱1番外地の様相を呈しているが、クライマックスシリーズへの進出を期待したい。読売・阪神・中日の「3強」常連のうち2つまでをも崩すチャンスだ。