kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

なぜ「反感を買う」ことを恐れる必要があるのだろうか

「左」側の「脱原発」批判は「被曝労働」の問題について説得力のある主張を提示できるのか - kojitakenの日記 にお寄せいただいたid:crossfire19さんのコメントを紹介する。


http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20110724/1311489927#c1311645628

crossfire19 2011/07/26 11:00


管理人さんの記事に大体同意ですが,気になった点もいくつかあります。


>「左」側の「脱原発批判」論者が「被曝労働」や「放射性廃棄物」の問題に触れようとしない


濱口桂一郎氏は,「被爆労働」に触れている「左」側の「脱原発批判」論者ではないですかね?「放射性廃棄物」問題には関心が無いようですが。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-90ba.html福島第一原発労働者の放射線被曝をめぐって)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-2ecb.html(労働者は使い捨ての機械ではない)


なお濱口氏は,今回管理人さんが取り上げた非国民通信氏の記事を随分高く評価しているようです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-66c7.html(非国民通信さんの冷静な議論)


それと,「左」側の「脱原発批判」論者の問題点を指摘するのは結構なことだと思いますが,一方で「左」側の「脱原発批判」論者が問題にすることを考えることも,また重要だと思います。
それをしないで「あなたはこの論点を語ろうとしない!」と言っても,相手に反感を持たれるだけでしょう。
問題にしている論点がどうしようもないならともかく,非国民通信氏の「今の脱原発・反原発はムードで動いていないか?」という警鐘は,橋下や小泉純一郎の発言だけを考えれば,聞くべき価値があると思いますよ。
濱口氏の「脱原発批判」にも,そうした問題意識が感じられます。
まあ,だからといってポテトニョッキ氏やdongfang99氏の「「利権批判」批判」を好意的に紹介するのはどうかと思いますが。(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-257f.html(世田谷区の生活者と柏崎市刈羽村の生産者))
上記の批判はsumita-m氏の http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110501/1304191495(社会システムとしての「利権」構造)
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110503/1304392248(科学技術のロジックでは)
に反論できませんからね。(dongfang99氏は反論していたけど,正直まともな反論になってない。)
それともうひとつ,「脱原発」批判で見られるのは放射線被爆の危険性を過大評価して危険をあおっていると批判するタイプの批判(菊池誠とその一派)ですかね。
ただどうもこの人たちも,放射性被爆の危険性を過小評価しているのではという疑念が晴れないんですよね…。
例として,http://h.hatena.ne.jp/tari-G/243582195997738345(低線量被曝研究についてのメモ)


では,長文失礼しました。


仰りたいことはだいたいわかるのですが、気になった点がいくつもあります。

> 濱口桂一郎氏は,「被爆労働」に触れている「左」側の「脱原発批判」論者ではないですかね?


これに関しては、「すべての『左』側の『脱原発批判』論者が『被曝労働』に触れていない」とは書いていません。「ある(複数ですが)『左』側の『脱原発批判』論者が『被曝労働』に触れていない」という意味で書きました。そして、その一例として『非国民通信』の記事を挙げた次第です。さらにいうと、私は濱口桂一郎氏が「『左』側の『脱原発批判』論者」だという認識も持っていませんでした。


さらに、もっとも気になったのが下記の点です。

なお濱口氏は,今回管理人さんが取り上げた非国民通信氏の記事を随分高く評価しているようです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-66c7.html(非国民通信さんの冷静な議論)

それと,「左」側の「脱原発批判」論者の問題点を指摘するのは結構なことだと思いますが,一方で「左」側の「脱原発批判」論者が問題にすることを考えることも,また重要だと思います。
それをしないで「あなたはこの論点を語ろうとしない!」と言っても,相手に反感を持たれるだけでしょう。


どうして、私のエントリに批評を加える時に、濱口桂一郎氏が書いた『非国民通信』の記事への批評を持ち出す必要があるのか、さっぱり理解できません。濱口氏の批評に、濱口氏以外の人は従わなければならないのでしょうか。さらに、いちいち「『左』側の『脱原発批判』論者が問題にすること」に言及しなければならない理由がどうして存在するのか、それも理解できません。この例でいうと、相手は「被曝労働」や「放射性廃棄物」の問題に触れていないのに、相手が触れている問題にいちいちコメントして、文章の焦点をぼけさせてしまうのは百害あって一利ありません。私は、安全性の問題のほか、「被曝労働」や「放射性廃棄物」(それに「地域のシャブ漬け」)の問題こそ、原発の最大の問題点だと考えているから、そこに焦点を当てた文章を書きました。「相手に反感を持たれるだけ」と仰いますが、批判している以上、当然ながら「相手に反感を持たれる」覚悟を持って、「どうぞご自由に反感をお持ちください」という気持ちで書いています。

そもそも、誰かの意見を批判するということは、当然自分の意見もまた批判されることを覚悟しなければ行えません。「権力批判」をしている人たちの中には、自分たちが「批判」をしているのにもかかわらず、他者に「批判」されることを極端に嫌う人が少なくありませんが、「安全なところから敵を撃つ」言論は、多くの人々の共感を得ることは決してありません。どうして、他者に批判されたり反感を持たれたりすることを忌避するのでしょうか。その理由が全くわかりません。批判や反感を恐れる空気が充満するところから、「ムラ社会」が生まれます。

なお、『非国民通信』のブログ主氏が提示したという、「今の脱原発・反原発はムードで動いていないか?」という疑念については、その通り、ムードで動いている。そう思います。しかし、それが「安全神話」だの「被曝労働」だの「放射性廃棄物」だのの諸々の問題を免罪する理由には一切なりません。

私は、一般論としては「『利権批判』批判」にはむしろ肯定的です。crossfire19さんが、震災前の当ブログや『きまぐれな日々』の記事をお読みになったことがあるかは存じませんが、私自身「『利権批判』批判」を繰り返し行ってきた人間です。

しかし、すべての「『利権批判』批判」に理があるかというと、そうではありません。ものごと、all or nothing ではありません。私は、3年くらい前に、エネルギー問題に関する書籍(金子勝氏や飯田哲也氏の著書)やネットの記事を読んで、必要な規制緩和もある、その好例が電力の地域独占体制の解体、発送電の分離、電力自由化といった改革だという意見を持つに至りました。それ以前の私は、「小泉構造改革」に対する反感が高じて、「規制緩和は何でもかんでも悪」という硬直した考え方をしていました。もちろん、その逆に電力自由化は何でもかんでも正しいわけでもありません。通産省(現経産省)の電力自由化派も、その実は市場原理主義の風潮に乗ったものに過ぎず、エンロンの破綻によってあっけなくポシャったとは、飯田哲也氏が指摘しているところです。

「『脱原発』批判で見られるのは放射線被爆の危険性を過大評価して危険をあおっていると批判するタイプの批判」にも理はあると思いますよ。「小沢信者」などによく見られる「陰謀論」系の論者は、「危険だ、危険だ」と叫ぶばかりで、現に東電原発事故の被害を受けている人たちのことなど何も考えていませんからね。いわゆる「リスク厨」です。

もっとも、「この人たちも,放射性被爆の危険性を過小評価しているのではという疑念が晴れない」というのには、私も同感です。

たとえば、柳澤桂子氏が雑誌『クロワッサン』で語ったという、放射線で傷ついたDNAが遺伝的影響を及ぼす可能性の話なんかも、あれは「わかっていない」というのが正確なところです。被曝して傷ついたDNAが間違って修復されたとき、それがどんな遺伝的影響を及ぼすかなんて誰にもわからない。悪影響を与える可能性は極めて低いとはいわれていますが、わからないことと「危険がない」こととは全然違うわけです。柳澤さんも「遺伝的に悪影響を及ぼす」なんて一言も書いていません。ただいえることは、放射線の被曝量は少なければ少ないほど良いに決まっていることだけです(これに対しても、そうではない、少量の放射線は体に良いとする「ホルミシス仮説」がありますが、この仮説が妥当であるという説得力のある傍証は一つも提示されていません)。当ブログでは柳澤さんの著書を紹介したことがありますが、『クロワッサン』騒動のあと、その記事がネット検索で参照されて、ネガティブなコメントを伴ったブクマもつきました。しかし、柳澤さんが主張しているのは、「少量の放射線被曝でも危険だ」という、たったそれだけのことなのです。

ちょっと本論からそれてしまったかもしれませんが、crossfire19さんのコメントを読んで強く感じたのは、『非国民通信』のブログ主氏や濱口桂一郎氏への好意、ポテトニョッキ氏やdongfang99氏、さらには菊池誠氏らの立論への疑念などの、言ってみれば「個人的」な好悪でした。私は誰にどう思われようが、そんなことはどうだって良いわけです。あくまで、「事実」(だと自分が認定したこと)に立脚して、主張が理にかなっているかそうではないか、そこに最大の関心があります。繰り返しますが、属人的なことがらはどうだって良い。だから、小沢一郎は嫌いだけど「国民の生活が第一」というスローガンは評価する。菅直人は信用していないけれども、「脱原発」を打ち出して、浜岡原発を停止させた上に玄海原発を再稼働させなかったことは評価する。小沢一郎だろうが菅直人だろうが社民党だろうが共産党だろうが「タブー」の対象とはしない。

それだけのことなんですけどね。