kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「『右』も『左』もない」なるスローガンはなぜ間違っているのか

最近、またぞろ「『右』も『左』もない」というスローガンに絡む問題を考えさせられることが多くなっている。

私はずっとこのスローガンを批判し続けてきた人間だが、反面、2006年に右派のブロガーの方*1と「反新自由主義」(当時は小泉純一郎竹中平蔵安倍晋三らが担っていた)の一点で共闘したことがある。それでも、その一方で私は平沼赳夫城内実もずっと批判してきた。平沼・城内批判もブログを開設した2006年に遡る。「反新自由主義」の右派ブロガーは、そこは意見が合わないと言いながらも、その合意できない部分で論争することはなかった。私は、何も「『右』も『左』もない」などというスローガンをことさらに持ち出さなくとも「一点共闘」(意見の合わない点では妙な妥協はしない)が可能であることを身を持って示したと考えている。

ところが、「『右』も『左』もない」論者はそうではなく、平沼赳夫や、特に城内実を天まで届かんばかりに持ち上げた。しまいには国籍法改正に関する城内実の暴言、あの "bakawashinanakyanaoranai" *2を肯定したり、あろうことか「城内実さんは『9条護憲派』だ」とまで言い出した。だからそれを徹底的に批判した。城内実を「9条護憲派」だとする虚構が論破されてからほどなくして、この人間は政治についてブログの記事を書くのを止めた。

上記だけならまだ良いのだが、私が許せないと今でも思っているのは、上記「『右』も『左』もない」論者が現実にやっていたことは、狭い「政治ブログ村」における「村内政治」だったことだ。村内で徒党を組み、自らの勢力を伸長させることにこの人間は腐心していた。当時この人間はブログに「○○と共闘する」(○○はブログやブロガーの名前)と題した記事を出していた。私自身、2008年頃までは「村内政治」にかかわっていたからその意味では同罪なのだが、この人間は、批判されて当然である城内実の「国籍法改正」に関するレイシズムむき出しの暴言まで擁護する体質に「ムラ」を染め上げようとしていた。言ってみれば「大政翼賛会」の小型版である。

橋下徹脱原発を評価する」ことに、私は何も反対しない*3。問題は、しばしばそういう言説が「橋下の教育基本条例を容認する」ことにつながってしまいかねないことだ。その実例が、城内実を支援した「護憲派ブロガー」が城内の「国籍法改正」をめぐる暴言を肯定したり、城内が「9条護憲派」であるという虚構を作り上げたことだ。私はこの人間に、「平沼赳夫さんや城内実さんを『極右』だと言う人がいます」などとさんざん嫌味を言われ続けてきたが、彼は批判者を「村八分」にしたいだけのことだった。

上記は、狭くて影響力もほとんどない「政治ブログ村」の中だけの話だったから実害もほとんどなかったが、これが多くの人たちに支持されている橋下徹をめぐる話だと状況は全く違ってくる。橋下への批判が一切許されない社会が現出してしまいかねないのである。

だから私は言いたい。橋下が脱原発を主張している、それがどうしたと。それはそれで全然構わないが、だからといって橋下批判の手を緩めてはならない。権力者におもねる必要など全くない。

*1:もうずいぶん前からブログの更新は止めている。

*2:http://www.m-kiuchi.com/2008/11/11/bakawashinanakyanaoranai/

*3:それどころか、「橋下の『脱原発』はニセモノ」だとして、たとえ橋下による「住民投票」批判に理を認めるとしても、橋下に助言を求められただけの飯田哲也氏を誹謗中傷するなどした『反戦な家づくり』の記事(http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-1130.html)を私は批判した。