kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

いいんじゃないかなあ、別に群れなくても

『きまぐれな日々』によくいただく鍵コメとして、私はあのcとかFとかいう小沢信者が嫌いだ、なぜコメント欄で放置しておくのかというのがある。だが、私としてはコメントは極力承認するようにしているだけだ。何の議論にもつながらないような一言の捨てゼリフだけを残す人間のコメントは容赦なく削除するし、そういうコメンテーターはHN名を挙げて非難するけれども。

私は結構執念深いので何年も前の非礼なコメントを覚えていたりする。最近はあちこちのブログでもあまり見かけなくなったが、「仮)山田二郎」なる右翼系のコメンテーターも『きまぐれな日々』に捨て台詞のコメントを寄越してきた一人だった。この人間をコメント欄で飼っていたブロガーから心が離反していった思い出もある。

だが、なんと言っても一番嫌なのは「群れをなす」こと。ある種のブログ村で権勢を誇るブロガーに取り入ろうと、もみ手で有力ブロガーに取り入るブロガーなんかがいた。そして、何人かのブロガーが推す政治家への批判が行いづらい空気ができ上がってくる。小沢一郎城内実もそういう政治家だった。城内実を持ち上げる空気は現在では実質的に消滅しているが、小沢一郎に関してはなお残っている。

ブロガー同士の工作のひどい例としては、「城内実は9条護憲派だ」というデマを親しいブロガーに吹き込んだ某氏の話があり、私はそれが事実に反することをブログ記事で証明したが*1、それからほどなくして「左」系の城内実応援団は消滅したのだった。

それでも、ある政治家を持ち上げるか持ち上げないかなんてまだかわいい話で、ひどい例になると、「誰それは私と同じブログランキングにやってきた。きっと私のブログより高い順位に持ってきて、自分のブログの人気を誇示するためだろう」などという被害妄想を抱いて、当該ブロガーを村八分にした人間もいた。これが行われたのは「自エンド村」においてだった。これをやられたのはたまたま私の論敵だったが、この件に関してだけは、村八分にされたわが論敵に心ひそかに同情したものだった。別の村では、私(古寺多見)に対する対応をめぐって、私のブログにコメントしたことで非難を浴びたと情報を提供してくださったブロガーの方がいた。私は、その村では「あいつには近づくな」と言われる存在だったらしい。そして、ついに「自エンド村」からも「村八分」が迫ってきた。最初に「自エンドのトラックバックピープルにTBするのは遠慮してもらえないか」と言われた時、来るべき時が来たと悟った私は、了解の旨返答するとともに、直ちに「自エンド」のトラックバックピープルへのリンクを外し、バナーも撤去して「自エンド村」を出て行ったのだった。それによるブログのアクセス数の減少は全くなく、それどころかそれは「政権交代総選挙」の数か月前のことだったので、当時『きまぐれな日々』へのアクセス数は増え続けた。そして、トラックバックピープルへのリンクの削除やバナーの削除についてコメント欄で問い合わせを受けたことはただの一度もなかった。当時から既に「トラックバックピープル」など何の機能もしなくなっていたのだった。

ブログを始めて5年と4か月になるが、その間何が良かったといって「自エンド村」を出たことほど良かったことはないと思っている。あれ以降、思い通りの記事が書けるようになった。「古寺多見は『鍋党村』を作ったではないか」と言う口の悪い人間もいるが、「鍋党村」は束縛がなさ過ぎて張り合いがないくらいではないだろうか。mixiの「鍋党コミュ」には、小沢信者はおろか河村たかし信者までいる。コミュ創設早々には管理人と副管理人が大喧嘩して副管理人がコミュを脱退した騒ぎもあったが、それは私が極力強制や束縛をなくそうとしたことと関係している。

私は元来、大勢の人たちが一斉にある方向を向くと、本能的に警戒感を持つ人間なのだ。人間社会にもっとも必要なのは多様性だと思う。

こじつけと言われるかもしれないが、私が「二大政党制」を嫌うのも、あの制度が多様性を否定し、少数意見を圧殺するものだからだ(その他の理由もあるが)。そして、二大政党制だの小選挙区制だのの旗を振った人間を私が支持するはずもないのである。