kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「ムダの削減」こそ新自由主義のドグマそのもの

確かに野ダメ政権の所得税増税を阻んでいたのは自民党だったが - kojitakenの日記 のコメント欄より。

greenstone 2013/01/25 21:53
社民主義と抽象的に言われるが、どこの国の政治体制がモデルになっているのだろう。ドイツとかフランスという人まで出てきているが、そういうことを主張する人は、恐らく具体的なイメージが皆無なのだと思う。そういう人とは議論の前提が欠けてしまう。
もし高負担高福祉を目指すのであれば、無駄の削減が一番重要な政策になる。不可欠の前提だろう。
なぜならば、無駄があれば高負担は不可能だからだ。
もちろん無駄の定義が必要なのだろうけど、一般的に言って、公的部門に無駄があると感じられるような政治で、高負担が果たして可能なのかどうか、「リベラル」には少しは真面目に考えてもらいたい。


id:greenstoneさんからは、「きまぐれな日々」にも、社民主義は東欧諸国の体制だとするコメントや、「ムダの削減」批判を批判するいくつかのコメントをいただいているので、ここでお答えしておく。

社民主義は東欧諸国の体制」というgreenstoneさんのコメントには、おそらく「きまぐれな日々」の読者の99%がぶっ飛んだと思う。私の理解では1970年代の昔から「社民主義」という言葉から普通にイメージするのは北欧諸国であって、前掲記事のリンクにもスウェーデンに関する本を上げていることから、おそらく大部分の読者にはそれで意味が通じていると思っている。

ドイツやフランスは、北欧のような「大きな政府」とアメリカや日本のような「小さな政府」の中間の、中福祉中負担を指すというのが一般的な理解だろう。たとえば、榊原英資などは、フランスを手本にとれと主張している。以前、榊原氏を「新自由主義寄りのリベラル」を読んだ人がいたけれども、当たらずといえども遠からずだと思う。

それから「無駄の削減」についてだが、大きな政府であれ小さな政府であれ、人間の営為である限り何かしらの「無駄」があるのは当たり前で、つまりどんな政府にとっても「無駄の削減」は共通した課題であり、なおかつ完全に達成することが不可能な課題である。

従って、「無駄を削減しなければ増税してはならない」という主張は、「いついかなる場合にも増税してはならない」と言っているのと同じことである。greenstoneさんの思い込みに反して、現実には、「『無駄の削減』は新自由主義のドグマだ」とされることがあるが、それは上記の理屈に基づいていると私は理解している。つまり、「無駄の削減」とは、政府収入と政府支出の両方とも大きくしないよ、というの本音の体の良い言い換えに過ぎず、逆に政府収入・政府支出の縮小、すなわち「小さな政府」化の圧力をかけているのにほかならないのである。

従って、おそらくgreenstoneさんとは対極に位置する主張になると思うが、私は「ムダの削減」を声高に叫ぶ人こそ「新自由主義の最大の応援団」であって、そういう人たちがいま「リベサヨ」と揶揄されているのではないかと認識している。