kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

原彬久『岸信介 - 権勢の政治家』(岩波新書)を読む

安倍晋三が総理大臣になる度に母方の祖父・岸信介が注目されるらしく、下記岩波新書が「ご要望にお応えしてアンコール復刊」、「資料を駆使して描く『妖怪』の実像」との帯が付されて重版されていた。奥付を見ると「1995年1月20日 第1刷発行」「2012年12月20日 第13刷発行」となっているから、安倍自民党が圧勝した昨年12月の総選挙に合わせて重版されたもののようだ。


岸信介―権勢の政治家 (岩波新書 新赤版 (368))

岸信介―権勢の政治家 (岩波新書 新赤版 (368))


内容はオーソドックスな評伝であり、岩波だから特に岸信介に批判的などということは全くない。特に新奇な視点も感じられなかったので、アマゾンのカスタマーレビューから私の読後感に一番ぴったりくる書評を引用、紹介してお茶を濁しておく(笑)。

国家社会主義者、岸信介 2005/10/16
By ib_pata


 『岸信介証言録』もまとめた原彬久さんの視点は、マルクス主義の影響を陰ながらも濃厚にうけた、国家社会主義者としての岸信介像の再構築ではなかったかと思う。岸の最高傑作は、自身も絶賛した満州国の計画経済であり、それはソ連の五カ年計画の影響を強く受けたものだった。

 その萌芽は学生時代に影響を受けた北一輝にさかのぼり、浜口内閣時代には、恐慌脱出の活路を求めて、上司で後に次官となる吉野信次とともにドイツ流産業合理化運動を取り入れたことにつながる。それは企業合同、カルテル化による無秩序な競争の排除を主目的としていたが、その指向は、太平洋戦争中、軍需大臣として、統制経済を一手に握った経済政策で極大化する。

 「いずれにせよ、岸はその目的において理想主義者である。そして、岸はその方法において現実主義者である。理想を追いかけるその道程で編み出される岸の戦略と戦術は恐ろしく多彩であり怜悧であり、時には悪徳の光を放つ」というまとめは素晴らしい。


少し前に読んだ立花隆の『天皇と東大』にも、岸が東京帝大法学部で「天皇主権説(天皇神権説)」を唱えたことで悪名高い上杉慎吉に師事しながら、上杉よりむしろ国家社会主義者の北一輝に傾倒していったことが出ていたし、およそ岸を中心的に論じた本で、北に強い影響を受けた岸が満州経営で五カ年計画を打ち出して実行したことが書かれていないものはないだろう。

ただ一点マークしておきたいのは、保守合同なった1955年(昭和30年)11月に第3次鳩山一郎内閣が成立すると、岸が「政権交代のできる二大政党制」を目指して小選挙区制の導入に動いたことだ。これは一般には「ハトマンダー」の名で知られるが、仕掛け人は岸信介だったらしい。以下本書から引用する。

(前略)昭和三〇年秋、保守単一政党としての自由民主党誕生と、それに前後して左右社会党が統一され、一応形式としての二大政党制が発足する。このとき岸が描いた構想は、一人一区の小選挙区制によって選挙を個人本位から政党本位に改めるとともに、弱小政党の自然淘汰による政権担当可能な二大政党の時代を迎えること、そしてこれら二大政党が政権獲得に向けて現実的公約を掲げざるをえなくなり、政局安定と、円滑な政権交代が期待できるというものであった(『岸信介回顧録』)。しかし、国会に提出されたこの小選挙区制導入のための法案が、岸らの強引な推進工作に反発する社会党の抵抗によって三一年六月、結局廃案に終わったことは周知の事実である。

(原彬久『岸信介 - 権勢の政治家』(岩波新書, 1995年)156頁)


このあたり、誰かさんの主張とそっくりである。孫崎享の吹く「ハーメルンの笛」によって大勢の「小沢信者」たちが岸信介信奉へと転向した理由の一端がわかろうというものだ。新党発足の衝動の強さといい、自らの都合次第で立場をコロコロ変えるかのように立ち回ることといい、岸信介小沢一郎の共通点は驚くほど多い。


著書は『岸信介証言録』(毎日新聞社, 2003年)という本も出しているが、そのアマゾンカスタマーレビューに下記のようなレビューがあった。

偉大なる政治家岸信介の貴重な証言録 2012/8/15
By かぬひもと


戦後長らく岸信介は不当に貶められてきた。開戦の詔勅に副署したことからA級戦犯(実際には彼は戦犯ではなくただの容疑者で早くに保釈されている)などとネガティブなレッテルを貼られて来た。それにしても少壮官僚として満州国に渡った時、岸信介はわずか40歳。満州の経済政策全般を指揮し存分に腕をふるい、「満州国は私の作品」とまで言い切る実績を残して帰国すると直ちに商工省(現経済産業省事務次官に就任。このとき43歳。やがて近衛内閣の商工大臣に就任するがその時わずか45歳。岸信介が如何に異例のスピードで権力の階段を駆け上がり、出世の道を歩んでいったことか。そのあまりのスケールの大きさにはただただ驚くばかりである。

そして彼が政治生命をかけて断行した日米安全保障条約の改定。これも良くみるとあまりに不平等だった当初の安保条約を、より対等公平なものに改訂しようとした極めて正しい当たり前の改訂だった。しかし共産党勢力の取締り強化を目的とした警職法改正が左翼勢力の反対運動に火をつけ、いつの間にか安保改訂は「安保改悪」という間違ったレッテルを貼られ戦後政治史上空前にしておそらく絶後の騒乱騒擾事件へと発展してしまう。これには学生社会人の感情を煽り立てた朝日新聞等のマスコミにも大いに責任がある。「岸を殺せ」「岸を倒せ」と国会と首相官邸は暴徒に十重二十重に取り囲まれた。それでも岸信介は対米従属からの脱却を目指す己の行動に疾しいところは無いと官邸内で一歩も引かない構えを崩さない。正に「政治家足るものかくあらねばならない」というところか。やがて日米安全保障条約は時間の経過と共に自然成立。時計の針が夜中の12時を越え、条約の自然成立が確定した瞬間、岸信介実弟佐藤栄作と二人きりの官邸内で静かにウイスキーで祝杯をあげたという。岸信介が敷いたしっかりとしたレールの上をその後の日本は走り続け、有史以来空前にしておそらく絶後の繁栄を謳歌することになる。

岸信介のすごさは、その時代を見る目の確かさだろう。巣鴨拘置所内に拘留されていながら米ソ冷戦の開始をしった岸は「これで日本は復活出来る」と確信したという。そして戦後はじめての訪米を前にして岸は東南アジア諸国を巡りインドネシア等と次々と戦争賠償の話をまとめ、「アジアの代表としての日本」として米国の土を踏む。その手並みの鮮やかさ。米国にあってはソビエトに対抗する反共ブロックの一員であること(これこそ米国が最も日本に期待していることだった)を真っ先に公にし米国政府の信頼を確固たるものにしている。やはり岸信介は優れた人材でありリーダーであったと思わざるを得ない。

我々の豊かな生活を築き上げた政治家(戦後日本の恩人と言って良い)の謦咳触れる貴重な証言録。原教授の努力に敬意を表したい。


2003年出版の本だが、カスタマーレビューの日付は2012年8月15日。私にはピンとくるものがあった。そう、孫崎享トンデモ本『戦後史の正体』はその3週間ほど前の2012年7月24日の発売なのである。孫崎本を読んで岸信介に関心を抱いた読者が『岸信介証言録』を読み、岸の偉大さ(笑)に心打たれて書いたレビューなのではあるまいか。そう「下衆の勘繰り」をした次第である。