kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

日露戦争は「自衛戦争」ではなく「膨張政策」に起因する戦争だった

最近は新聞(主に私が購読している朝日新聞)を読んでも、日記に取り上げたいと思う記事がめっきり少なくなったし、「はてなブックマーク」もずいぶん使いづらくなった。同好の士も少なくなってきたようだが、私自身も「はてブ」をつける頻度が大幅に減った。

しかし現在の日本は確実に衰退期にある。今後の可能性として、戦争に向かう可能性と、戦争は起こさず徐々に衰えていく可能性の両方があり得るのではないかと思っている。すぐに上昇へと転じる可能性が全くないことは、日本国民が安倍晋三を再び総理大臣に選んでしまったことからも明らかだ。


ところで、今後の日本の行方を考えるに当たって、歴史認識の重要性は論を俟たないが、あるリベラル系のブログ記事に、「日清・日露戦争は膨張政策でなく、西欧列強から侵略を防ぐ自衛の側面が強かった」と書かれている一方で、「『日清・日露までは自衛の戦争、以後は侵略へ』という理解は司馬遼太郎流の歴史観にも通じるもので、日本の一般社会の人々の間ではいわば常識」になっているとしながら、こうした史観を批判するコメントが掲載されていた。

私は司馬遼太郎の小説は『竜馬がゆく』ただ一作を読んだことがあるだけで、明治期の歴史に関わる『坂の上の雲』などは読んだことがないので、「司馬史観」がそのようなものかはわからない。たまたま上記のブログ記事を読む少し前に買った司馬遼太郎陳舜臣の対談本*1を読む限り、そのような「史観」は特に感じられなかったが、なにぶん司馬遼太郎のことはよく知らないので何ともいえない。


新装版 対談 中国を考える (文春文庫)

新装版 対談 中国を考える (文春文庫)


ところで、本論の「日清・日露までは自衛の戦争、以後は侵略へ」という史観についてだが、最近読み、少し前にこの日記でも蓑田胸喜(みのだ・むねき)に関する部分を紹介した立花隆の『天皇と東大』*2に、日露戦争を煽りに煽った東京帝大教授の戸水寛人(とみず・ひろんど)の話が出てくる。


天皇と東大〈1〉大日本帝国の誕生 (文春文庫)

天皇と東大〈1〉大日本帝国の誕生 (文春文庫)


戸水は、文庫版で4分冊に分けられたその第I巻でもっとも印象に残る人物だ。戸水ら7人の学者が日露戦争開戦論を煽ろうと共謀しているのをスクープしたのは東京日日新聞(現毎日新聞)だった。政府も戸水を帝大教授職から追おうとしたが、「学問の自由」を守らんとする大学の抵抗に遭って失敗した。東京日日のスクープ記事では同紙も戸水らの妄動を批判していたが、大衆が戸水らの開戦論を圧倒的に支持すると、新聞も輿論に阿って好戦的になっていった。

立花本の第I巻の後半では、この戸水がアジった文章の引用を延々と読まされる。句読点なし、漢字カタカナ交じりのアジ文は、読んでいて頭がおかしくなりそうになった代物だが、立花はこれを、「侵略シナイノガ非常ナ不道徳」と小見出しをつけた一節で、下記のように評している。

 これが本当に帝国大学法科大学教授が述べたことか、といいたくなるほど、驚くべき杜撰(ずさん)な議論である。ほとんど床屋の政談である。ナショナリズムはならず者の最後のより所といわれるように、ナショナリスティックな議論には杜撰な議論が多い。しかしそれが俗耳に入りやすい形で展開されるから、大衆からは妙にもてはやされる。戸水の議論はまさにその典型で、杜撰なのにもてはやされ、本人はそれに酔ったのか、とめどなくセンセーショナルかつ過激な言辞を弄するようになっていった。

立花隆天皇と東大』第I巻(文春文庫, 2012年)330頁)


このあたりの記述は、少し前の火山学者・早川由紀夫の言説を連想させるものがある*3

先の司馬遼太郎陳舜臣の対談本に戻ると、司馬は日露戦争の頃の日本について、列強諸国のように資本主義が発達した結果としての膨張政策ではなく、資本主義が未成熟だったにもかかわらず、周辺諸国に膨張政策をとる大国が次々と進出してきていたから、日本もそれを真似たというようなことを言っているが、「日清・日露戦争が自衛のための戦争だった」とは言っていない。政府は最初は戸水寛人らの暴論を抑えようとしたが、だからと言って日露戦争が「自衛のための」戦争だったわけではない。日本が「列強の猿真似」をしていた時代に、戸水寛人のような素っ頓狂な東大教授が現れて、橋下徹も真っ青になりそうな過激なアジテーションをやっていたが、当然国の政策もそうした言論に悪影響を受けていたと見るほかなかろう。戸水寛人はこの日露戦争当時に既に「満州を永久占領せよ」などと言っていた。そして戸水のこの主張は後年本当に実行されたのである。それにしても、立花本の見出しにもなっている「侵略シナイノガ非常ナ不道徳」といい、戸水のような人間に帝国大学教授が務まるのかと考えると、偉いさんの大学のセンセといったところでおつむの程度はたかがしれている、それは昔も今も変わらないんだな、としか私には思えない。

蛇足ながら、Wikipediaを参照すると、戸水寛人は後年、さらなるトンデモ人生を送ったらしい。

1908年に第10回衆議院議員総選挙で戊申倶楽部から立候補し当選。翌年、戊辰倶楽部を脱し井上敏夫、米田穰とともに立憲政友会に入党し、12月には帝大教授を退いた。その後は衆議院議員を通算5期務めながら弁護士を開業し、日本大学早稲田大学中央大学専修大学などで教鞭を取った。

第一次世界大戦が勃発すると、折からの好景気に乗って数多くの企業発起に関わる。その際に、無価値に等しい株式を売りまくって「会社魔」と呼ばれた松島肇や、郵便局長の立場を利用して多額の収入印紙を横領して結果として損害を齎した津下精一と結託。このため対立する憲政会やマスコミから追及を受け、大正バブル期における証券詐欺や投機で悪名を残した。

Wikipedia「戸水寛人」より)


本論に戻ると、立花隆は、日露戦争前後の時代を評してこう言っている。

(前略)やがて、八紘一宇のスローガンのもとに、日本は天皇の下に万邦を統一する聖なる使命を帯びた国家であるというファナティズムに国全体が支配されるようになる。
 そのような時代の転換点が、この日露戦争の時代なのである。そして、その転換点に大きくあずかったのが、東京帝国大学の教授たちだったのである。
立花隆天皇と東大』第I巻(文春文庫, 2012年)345頁)


誤解のないように付記しておくが、立花は何も日露戦争までの日本は良かったと言っているわけではない。東京帝国大学の教授が変節した最初の例として立花が言及しているのは、初代総長・加藤弘之が、旧薩摩藩士にして狂信的な国粋主義的テロリストだった海江田信義*4の脅迫に屈して、それまでの啓蒙的な洋学者としての立場から国粋主義者へと転向した件(1881年)である。狂気ともいえる「戦争への道」のルーツは、遅くともこの頃にまで遡れるのである。余談ながら、海江田信義の姓から直ちに思ったのは、現民主党代表にして原発推進派かつTPP推進派として悪名の高い海江田万里がこの海江田信義と血縁関係があるのではないかということだが、両者はともに鹿児島にルーツを持つものの、係累の者が上京した年代が異なっており、幸か不幸か両者は血縁関係にはなさそうだった。


長々と書いたが、結論は明快だ。「日露戦争が自衛のための戦争であって膨張政策とは無縁だった」などとは到底いえない。「日露戦争以前の日本は素晴らしかった。それ以降はダメダメ」式の歴史観は誤りである。

*1:司馬遼太郎は大阪生まれ、陳舜臣は神戸生まれで、同じ大阪外語大を卒業した1歳違いの2人は、ともに歴史小説の大家。司馬遼太郎は1996年に死去したが、陳舜臣は今年2月に89歳の誕生日を迎えた。この本に収録された対談は、1974年から1977年にかけて、神戸と大阪で行われた。

*2:http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20130318/1363540081

*3:最近はさしもの早川由紀夫も超過激なトンデモ系脱原発論者とはやや距離を置いているとも風の便りに聞くが。

*4:海江田信義を「テロリスト」と評するのは、立花隆天皇と東大』第I巻(文春文庫, 2012年)139頁の表現による。