kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

石水喜夫『日本型雇用の真実』(ちくま新書)の納得できなかった部分

この本を取り上げた「はてなダイアリー」のエントリは、まだ1件もないようだ。


日本型雇用の真実 (ちくま新書)

日本型雇用の真実 (ちくま新書)


毎日新聞伊東光晴氏が書いた書評が出ている*1ので、これを引用する。

今週の本棚:伊東光晴・評 『日本型雇用の真実』=石水喜夫・著


 ◇“新古典派労働市場改革の実態に迫る

 著者は長く労働省(現厚生労働省)につとめ、何回も、労働経済白書−−正確には『労働経済の分析』の執筆にたずさわってきた論客であり、二〇一一年に京都大学に移って労働経済論を講じている。

 この本の出発点は、社会科の本にも、経済学のテキストブックのどこにでもある、財の需要と供給とが、価格をパラメーターとして交わる図である。ただし、それが労働市場であり、財の量が労働量であり、価格が賃金率である。賃金が需要と供給できまる−−これがアメリカの「労働経済学」であり、主流派経済学、新古典派労働市場分析である。

 あらためて書くまでもなく、新古典派のこの理論は、需要者も供給者も対等であることを前提にしている。財の需給の場合は、この仮定は、第一次接近としては許されても、労働市場では現実遊離である。労働者の立場は弱い。使用者は強い。この現実を無視した考えである。

 この非現実的仮定から生れる政策、思想を批判し、日本的雇用の中にある長所を守ろうとするのがこの本を貫く視点であろう。

 賃金が、労働の需給の均衡点できまるという理論を認めると、どうなるだろうか。失業が生れるのは、賃金が均衡点より高いからである。賃金引下げを認めない労働組合ゆえか、労働の流動性を阻害しているものがあるからだということになる。

 賃金が高すぎるから失業が生れる−−この新古典派の考えの誤りを明らかにし、社会全体の需要をふやし、生産量をまして雇用増で失業をなくそうとしたのがケインズであり、この考えにそって、戦後の先進国では、政府の努力によって雇用問題を解決しようとし、福祉社会を志向してきた。これが著者の考えであり、冷戦体制下の資本主義では、資本主義の弱点を克服しなければならないことからこうした考えが当然のこととされてきた。

 だが一九九一年の社会主義の崩壊によって事態は変る。福祉社会志向は弱まり、市場主義経済の資本主義は自信をふかめ、新古典派的考えの上に立つグローバリズムが浸透してゆく。労働省内で著者はそれを一九九五〜六年に強く感ずる。日経連の「新時代の『日本的経営』−−挑戦すべき方向とその具体策」(一九九五年五月)と、OECD経済協力開発機構)の対日審査(一九九六年)報告がそれである。

 対日審査報告は、日本的雇用慣行を批判し、労働市場の流動化を進めようというものであるが、審査への同意に対し、OECD諸国は直ちに反発したが、日本が反論しなかったのは問題だ、と著者は書いている。

 しかし、はっきり言えば、日本の内部に年功制賃金を廃し、解雇を容易にし、労働市場の流動化をはかりたいと考える人たちがいて、OECDに出向しており、こうしたことを書いているのではないか。

 日経連の前述の提言は、市場メカニズムの重視、規制緩和の推進、自己責任原則の確立−−であり、著者が言うように、新古典派労働市場論にそったもので、OECDの審査報告と同じである。

 これらの内外からの批判にもかかわらず、日本の長期雇用傾向と、その基礎にある年功賃金制は、雇用の主要部分では変らなかった。著者はアメリカなどと異なる日本のこの雇用形態をどのようにとらえているのだろうか。

 年功賃金制が、どのような歴史的経過をたどって形成されたかは、故大河内一男東大教授とその流れによって明らかにされている。職場、職種を移りながら能力を高め、それとともに給与が上がっていく日本の制度を著者は「人間基準」とよび、潜在的可能性をも考えた人間評価だとしている。私たちは、歴史と文化の違いが労働市場の制度的違いをひきおこしていることを再認識しなければならない、と。

 私は、日本の伝統的な労働市場は、OECDの流動化論等によって変ることはなかったと書いた。しかし、正確には、それは正規雇用についてであって、九〇年代後半から二一世紀へと、大量の非正規雇用の増大が生れた。これが労働市場流動化論のもたらしたものと言ってよい。それが所得格差の拡大をひきおこすのである。

 原因は何か。戦後日本は、営利を目的とする職業紹介を原則として認めないという制度をとってきた。戦前への反省からである。だが、この原則は規制緩和で順次ゆるめられ、人材派遣業が一万を超え、企業がコスト削減のため、これを利用した。その重圧は若年者にとってとりかえしがつかないものとしてのしかかっている。労働政策の最大の失敗である。

 将来の雇用はどうなるのか。人口減に入った日本は不況期が頻発し、雇用問題の解決がむずかしくなることが理論とともに示されている。

 「労働力は商品ではない」−−これが著者の基礎にある考えである。本書はこうした視点を持った一労働官僚の、新古典派的「労働経済学」批判の書である。

毎日新聞 2013年07月07日 東京朝刊


著書に好意的な書評であり、なおかつ本を読んだ*2人間として、非常に良い要約だと感心する。さすがは大経済学者である。

しかし、上記書評に挙げられた美点にもかかわらず、著者の主張には納得できない部分が少なからずあった。その違和感の原因になった部分を本書から引用する。

†賃金制度の課題と労使関係者の任務

 およそ賃金というものは、仕事基準によるものか、人間基準によるものか、この二つの原理に分類されます。仕事基準とは仕事の内容に応じて賃金を支払うものであり、人間基準とは、一人ひとりの労働者に賃金を対応させるものです。

 仕事基準では、具体的に取り組まれる仕事の内容を賃金算定の根拠とし、誰がその仕事をしても賃金は同じです。そこに、仕事の成果とみなすことのできる市場価値を加算する場合もあります。これらは、いずれも顕在的なもので、職務別の給与や業績・成果給として数値化しやすい性格を持っています。

 これに対し人間基準は、上司や人事担当者が働く人の潜在的能力を見定めなくてはならず、賃金算定のための制度運用は決して容易なものではありません。人を評価するということは、評価するその人自身も問われることであり、従業員と会社組織がともに成長するという視点を欠くことができません。こうした困難に立ち向かいながら、日本企業の多くは、人間基準の賃金制度を構築し、運用するという極めて哲学的な取り組みを続けてきました。ここに日本企業の人事部というものが持つ独特の重みがあります。

 欧米社会から持ち込まれた新古典派経済学は、このような日本の社会像や歴史観を共有することができません。新古典派経済学の賃金論は、あくまで仕事基準の賃金であり、労働市場論にもとづいて、同じ仕事の賃金は、同じ労働力の価格として全く同じであると言い放つのです。このモデルの中に生きる新古典派経済学者が、人間基準の賃金を理解することは不可能です。そして、彼らにとって理解可能な仕事基準の賃金に改めることが、日本社会の「構造改革」であると意識されます。

 こうした賃金をめぐる文化摩擦は、戦後日本社会で度々繰り返されてきましたが、政府をあげて「構造改革」を推し進め、新古典派経済学者に改革の権力をも授けてしまったため、労使関係にもかなりの混乱が及びました。残念なことですが、政治権力や学問の権威の前に、誤った認識を鵜呑みにし、構造改革を推し進めた労使関係者も少なくはなかったでしょう。しかし、その荒れ狂った猛威もようやく峠を越えつつあるようです。今後は、この混乱の中から、労使が手を携え、職場の課題を真剣に話し合うことで、日本社会にふさわしい雇用、賃金制度を再構築していくことが期待されます。

 しかし、日本の労使関係者には、まだ残された重大な任務があります。日本の労使関係者は、確かに、それぞれの企業組織の中で新古典派経済学の精神と対峙し、それを退けることに成功しましたが、その影響力はなお強く、日本の経済政策を握っています。市場メカニズムに全てを委ねるあの精神性は、今後も日本経済を不安定にさせ、長期的な視点から人を採用し、処遇する日本の労使慣行に脅威となり続けるでしょう。

 自らの企業の発展を、日本社会の発展に重ね合わせるエクセレント・カンパニーの皆さんは、新古典派経済学に対峙し、日本の経済政策を立て直す社会的な使命を担わなくてはならないのです。

(石水喜夫『日本的雇用の真実』(ちくま新書, 2013年)137-139頁)


私はこの文章に説得されず、それどころか大きな疑問を持った。それは赤字ボールドの部分で、著者が「同一(価値)労働同一賃金」の原則を、「新古典派経済学の賃金論」だとして退けていることである。「同一労働同一賃金」は、以前当ダイアリーで取り上げた八代尚宏新自由主義復権』(中公新書)で著者が強調していることからわかるように、確かに新自由主義系の経済学者も唱えているけれども、一方で「同一労働同一賃金」は、社民主義的とされる北欧諸国の労働政策の代名詞にもなっている。日本の新自由主義勢力(小泉純一郎政権が代表格だが、現在の安倍晋三政権もその流れに位置づけられる)と北欧が違うのは、日本の新自由主義勢力が「ゾンビ企業」や「ブラック企業」に極端に甘いことである。あの悪名高い「ワタミ」こと渡邉美樹を安倍晋三がじきじきに口説き落として参院選自民党比例区の公認候補にしたのは、上記を象徴する一件といえよう。

それを諷刺したTwitterを一件見つけたので、ここに紹介しておく。


https://twitter.com/ZTmokeke/status/169769309017604096

プロ嗜眠
@ZTmokeke

同一労働同一賃金の概念はスウェーデンなど北欧ではブラック企業の淘汰のために使われるが、平蔵など日本の論者にかかると正社員の賃金を切り下げて逆にブラックを救済するためのものになってしまう。参考→http://bit.ly/bBSpFO 歌田明弘「北欧モデル」は日本に通用するか?  

2012年2月15日 - 5:05


私は、市場で立ち行かなくなった企業には容赦なく市場から退出してもらうと同時に、「同一賃金同一労働」の原則を日本でもきっちり確立し、解雇に限らず企業の破綻によって失業を余儀なくされた労働者が再就職する際に不利益を蒙らないようにする必要があると考えている。だから、上記の引用文に関しては、『日本型雇用の真実』の著者・石水喜夫氏の主張には共感できなかった。

石水氏の考え方については、同氏の他の著書『現代日本労働経済』(岩波書店, 2012年)を論評した濱口桂一郎氏のブログ記事に書かれた下記の批判が、『日本型雇用の真実』にもよく当てはまると私には思われた。


石水喜夫『現代日本の労働経済』岩波書店: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)(2012年9月28日)より

(前略)石水さんには、OECDの雇用戦略や日本の構造改革論といった「外在的」な、敢えて言えば余計な横からの入力のせいで、素晴らしかった日本の雇用慣行が崩れてきた、というイメージが強固にあるように見えます。そういう側面があることは否定しません。

しかし、本当に日本のそれまでの仕組みが、その中にいる人々みんなにとって良きものであったのなら、たかが横からの雑音ごときで崩れるはずはないのではないでしょうか。

90年代にアングロサクソン的なバイアスのかかった改革論が持て囃された原因には、それに呼応する感覚があったからだと思います。

もう少し腑分けしていうと、石水さんの議論には、日本型システムにおいてもともと周縁的な立場やその外側にいた人々にとってそれがどういう存在であったかという観点が薄いように思われます。

また、それと対比的に内部にいる人々にとって、日本型システムがもたらすその長期的なキャリア保障という望ましい側面と裏腹の形で存在していた極めて強い組織への義務づけが、決して嬉しいばかりのものではなかったという(70年代、80年代の議論では後ろに隠れがちであった)側面も、なぜ90年代に「社畜」批判という形で吹き上がったのかを理解する上で逸することはできないでしょう。

これらを全て、OECDやら構造改革論といった横からの入力に騙されたのだという風に考えてしまうと、それこそ労働経済だけではない社会のさまざまな側面まで総合的に勘案した社会政策の視点にはならないように思われます。

むしろ、正しい問題設定はこうあるべきではないでしょうか。すなわち、90年代初頭から提起されてきていたまっとうな日本的システムへの疑義を、安易にアングロサクソン型の市場原理主義に載っかる形でしか実行できなかったのはなぜか、と。(後略)

(『hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)』2012年9月28日付記事「石水喜夫『現代日本労働経済岩波書店」より)


特に赤字ボールドで強調した箇所は、非常に説得力があった。

*1:おそらく2013年7月7日付『毎日新聞』読書欄に掲載された書評。

*2:本書を読んだのは先月(2013年6月)下旬であり、少し時間が経っている。