kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「お行儀が良くなくちゃ嫌よ」クン、市民革命同士の比較なんか議論の本筋と関係ないよ

またしても、「お行儀が良くなくちゃ嫌よ」クンが、記事にイチャモンつけてる。明治維新への悪口が気に食わなかったらしい。某所に書いたこの記事の下書きには吉田松陰の悪口も書いたから、それで余計に刺激しちゃったのかもしれないけど。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20151027/1445904454#c1446036962

id:spirit7878 2015/10/28 21:56
クーデターでない『市民革命』と言われても、どんなものがいいのか。

例えばフランス革命はかなり急激かつ劇的だった一方で、多くの処刑人・犠牲者を出しましたし。
ロベスピエールマリー・アントワネットは有名だけど、他の穏健派のロラン夫人、科学者のラヴォワジェといった人間まで処刑されています。
「おお自由よ、汝の名のもとに、いかに多くの罪が犯されたことか」
というロラン夫人の最後の言葉が身にしみます。

やっぱり市民革命となると、イギリスの革命である『清教徒革命』あるいは『名誉革命』といった穏健な革命の方が理想的な気がしますね。


いや、それは市民革命が起きたあとに暴走に至ったかどうかの話で、クーデターと市民革命の違いの話とは全然違いますよ。そりゃ革命を起こした者同士が処刑合戦をしたフランス革命のような暴走はない方が良いに決まってるけど。ついでに言えば、清教徒ピューリタン)革命では国王が処刑されてるけど、それを「穏健な革命」と言うの?って疑問もありますけど。あと、なんでアメリカ独立戦争が出てこないの?って気もします。もちろんアメリカ独立戦争にも批判されなければならない問題はたくさんあるわけですけど。

それはともかく、市民革命というのは、「封建的・絶対主義的国家体制を解体して、近代的市民社会をめざす革命を指す歴史用語である」ってされてるらしいけど、要するに自覚を持った市民たちが起こすものってことで、それに対してクーデターとは、ただ単に下位の者が上位の者に取って代わる(=権力を簒奪する)ってこと。つまり、クーデターを起こした者に拍手喝采する民衆は、自らが主人公となって社会を変革しようとは思わないのよ。つまり、権力を簒奪した人間やその一味が肥え太るだけで、社会はちっとも良くならない。それどころか悪くなることの方が多い。それなのに大衆は権力簒奪者と自分を同一視して熱狂し、憂さ晴らしをしている。そういったことを私は問題にしてるわけです。

クーデターを起こした者に拍手喝采する民衆と同じ心性は、昔(今も?)の左翼にも今の「リベラル・左派」にもあります。昔の左翼はスターリン毛沢東が権力者だった頃に彼らの批判ができなかったし、反核運動にしたところで社会主義国の核を批判することができませんでした。今の「リベラル・左派」の中でも、「××信者」の範疇に属すると私がみなしている人たちは、「××」に帰依して批判者を排撃するだけが能の連中であって、自立も自覚もあったもんじゃありません。それは市井の「信者」からプロの国会議員に至るまで同じで、「××一派」の元締めだった山岡賢次あたりが、反教祖的な言動をする構成員がいないかどうか、議員たちの動きに始終目を光らせてたもんです。

要するに、指導者なり心酔する政治家なりテロリストなりに自らの自由を預けてしまう心性の人々が後を絶たない限り、社会が良くなることは絶対にない、と言いたいわけです。カリスマだのヒーローだの橋下徹だのに小沢一郎だの吉田松陰だのに依拠・心酔・帰依なんかをしているようじゃどうしようもないってことです。