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自民党の今村雅弘よ、「演歌、歌謡曲」が「日本の国民的な文化」のわけないだろ(呆)

「演歌は日本の伝統」を掲げる議員連盟に「?」演歌は1960年代に生まれたもの、みだりに「伝統」を使うな!|LITERA/リテラ(2016年3月17日)より

「演歌は日本の伝統」を掲げる議員連盟に「?」演歌は1960年代に生まれたもの、みだりに「伝統」を使うな!
【この記事のキーワード】新田 樹
2016.03.17


「日本の国民的な文化である演歌、歌謡曲をしっかり応援しよう」

 今月2日、今村雅弘元農林水産副大臣によるこんな挨拶で、演歌や歌謡曲を支援する超党派議員連盟「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」の発起人会合は開かれた。

 この集まりには、歌手の杉良太郎氏も出席し、「演歌や歌謡曲は若者からの支持が低い。日本の良い伝統が忘れ去られようとしている」と発言。日本の伝統である演歌を守るべきであると強調した。今後、この会では、各議員の地元選挙区で開かれるカラオケ大会に演歌歌手を呼ぶ活動を行うなど、振興策を打っていく予定だという。

 演歌は日本の伝統──、今ではごく当たり前のように用いられているこのフレーズだが、ちょっと引っ掛かるものがある。果たして本当に演歌は日本の伝統なのだろうか?

(リテラより)

記事の冒頭に書かれた、「日本の国民的な文化である演歌、歌謡曲をしっかり応援しよう」なるトンデモ発言にまず吹き出した。これを言い出した今村雅弘というのは1947年生まれ、つまり来年で70歳になる御仁だ。

なぜ吹き出したかというと、リテラの記事も指摘していないのだが、演歌は実は日本の伝統的な文化でも何でもなく、そのルーツは韓国にあると、ずいぶん昔に聞いたことがあったからだ。ネット検索をかけてみると、李成愛が「カスマプゲ」をヒットさせたのが1977年で、チョー・ヨンピル(趙容弼)が紅白歌合戦に出場したのが1987〜90年の4年間。この後者の時期に、「演歌のルーツは韓国」と聞いたのだった。YouTubeで李成愛の「カスマプゲ」を聴いてみたが(当時から知っていたはずだが、好きではなかったせいか全然覚えてなかった)、まさに「ど演歌」だった。念のために作詞・作曲者を確認してみたが、作詞が鄭斗守(日本語への訳詞が申東運)、作曲が朴椿石と、全員が韓国人だ。「カスマプゲ」は文句なく韓国の歌だった。蛇足だが、私の視聴した動画には、結婚のために芸能界を引退して日本を去ることが決まった李成愛の日本の長州、もとい聴衆に対するお別れの挨拶が収録されていた。韓国に帰ったのかと思ったが、Wikipediaで確認すると、

李成愛は人気の絶頂にあった1978年突如引退を表明し、米国の大学で教える韓国人と結婚した。

と書かれている。アメリカに渡ったようだ。この挨拶が(保守的な人生観も感じさせたが)なかなか感動的で、李成愛は「一番近い隣同士の国」である日本と韓国の有効を訴えていた。私は「昔は良かったなあ」とはほとんど思わない人間なのだが、李成愛が引退した1978年(高校生だった)は例外的に良い思い出が多い年で、その中にはヤクルトスワローズの優勝が含まれる*1。この年は日中平和友好条約が締結された年でもあり、世界における日本の地位が実質的には戦後もっとも高かった時代だ*2日中友好も日韓友好も、日本の国力が高かったことを背にした日本人の自信に基づくものであって、それが弱まった現在は、自信を失った日本人が、排外主義的な右翼国家主義者の政治家や論者に自らを同一化させつつ、嫌韓嫌中を叫んでいる姿をさらしていることには、「みっともないから止めてくれよ」としか思えないが、連中の火に油を注いでいるのが総理大臣の安倍晋三なのだから処置なしである。

リテラからの引用に戻る。

 ポピュラー音楽研究を専門とする輪島裕介氏は『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社)のなかで、作家・小林信彦氏の文章を引き、その認識に対し疑問を呈している。

〈〈演歌は日本人の叫び〉
 といった文章を見るたびに、ぼくは心の中でわらっていた。わらうと同時に、いったい、いつからこういう言葉が通用するようになったのか、いや、いつ発生したのかと疑問に思っていた。
(略)
 昭和三十年前後に登場した三橋美智也は民謡調歌謡曲三波春夫浪曲調歌謡曲であり、その時点では誰も演歌とは呼ばない。こう見てくると、〈演歌〉そのものが見当たらない。一九六〇年代のどこかで発生したとしか、言いようがない〉

 1948年より刊行されている『現代用語の基礎知識』(自由国民社)に「演歌」の項目が立てられたのも70年版からであり、それ以前にこの言葉は載っていない。このことからも現在親しまれている「演歌」が果たして本当に「伝統」なのかどうか疑問が生まれる。

 ただ、「演歌」という言葉自体はそれ以前からあった。「演歌」という単語が生まれたのは明治時代にまで遡る。自由民権運動の流れのなかで、政府が公開演説会を取り締まりの対象としたために、規制を免れるべく演説を「歌」のかたちで展開したのが「演歌」であった。この「演歌」は、政権批判や社会風刺を歌うものを指し、恋や酒を歌のテーマとする現在の「演歌」とはまったくの別物だ。そしてこの「演歌」は元号が昭和になるころには衰退。忘れ去られた音楽となっていく。

 では、なぜそれから時を経て「演歌」という言葉が復活し、現在のようなかたちで「演歌」というジャンルが生まれるようになったのか。それには、このジャンルが生まれた60年代後半という時代が大きく関係している。この時期、ポピュラーミュージックの世界は、グループサウンズ、フォーク、そして、後のニューミュージックへとつながっていく「若者音楽」大変革期の最中であった。

 これらの音楽の台頭により、それまで「都会調」「浪曲調」「日本調」などと呼ばれ区分けされてきた古いスタイルのレコード歌謡と、ロックやフォークなどの新しい音楽との間に乖離が生まれ、結果、旧来のレコード歌謡はすべてまとめて「演歌」というひとつの言葉のもとにまとめられることになる。その裏には、古いレコード歌謡を「リバイバルもの」としてプロモーションしたいレコード会社の思惑があった。

 現在、ロックもフォークもアイドルも、昭和期にお茶の間を賑わせた音楽ならジャンル関係なくすべてひっくるめて「昭和歌謡」というカテゴリーにおさめコンピレーションアルバムなどが盛んに制作されているが、これと似たような現象が当時も起きていた。その結果、「演歌」という忘れ去られた言葉が意味を変えてリサイクルされたのである。

 なので、一括りに「演歌」といっても、そこに厳格な音楽的基準はなく、民謡や浪花節のような日本的な音楽も含まれれば、ムード歌謡のようにジャズの影響を色濃くもち、かつての音楽界ではむしろモダンなものとして受容されたものまで混ざっている。

 たとえば、「古賀メロディー」と称され、現在では演歌の基礎をつくったと評価される古賀政男だが、彼の音楽的な素養となっているものも西洋音楽の知識やクラシックギターの技術である。

〈いまでは「演歌」の典型的なサウンドとみなされる《影を慕いて》などに特徴的なギター奏法も、開放弦を活用しながらベース音と和音と旋律を同時に演奏するクラシックギターの技術に基づくもので、当時はギターやマンドリンの響き自体がモダンなものでした〉

 また、「演歌」というジャンルがいかに雑多な出自をもっているかの一例が「こぶし」である。演歌らしさを特徴づける最も大きい要素である「こぶし」だが、これは浪曲において使われる歌唱法で、ジャズはもちろん民謡調の歌手も用いない歌唱法であった。なので、「演歌」というジャンルに一括りにされた当時「こぶし」をまわす歌手は主に浪曲出身の歌手たちであり、「演歌」がジャンルとして成立した時には、クラシックなどの声楽的素養を誇っていた他の歌手から「下品」と批判されたりもしている。

 このように、「演歌」は、グループサウンド勃興期に旧来のレコード歌謡を混ぜたことで生まれたジャンルであり、そこに正統的な「伝統」といったものが存在しないのは自明である。いや、60年代生まれということは、演歌は「伝統」どころかむしろ、ヒップホップやテクノほど新しくはないとはいえ、ロックやジャズよりも生まれた時期は「若い」ジャンルなのだ。

 このように、なんとなくのイメージで「伝統」と称されるものも、よく見ていけば「伝統」でもなんでもないことは往々にしてよくある。例えば、安倍政権は「伝統的家族観」といったものを盛んに主張しているが、当サイトで紹介した通り、その家族観も明治以降の日本に限ってのことであり、日本の伝統でもなんでもないと疑問が呈されている。

「伝統」という言葉を印籠のように出されて思考停止に陥ると、「演歌の振興」の名のもとに税金が国会議員のカラオケ趣味のために垂れ流される。いま我々に必要なのは、イメージとして語られる「伝統」をまず疑ってみることなのではないだろうか。
(新田 樹)

(リテラより)

この解説にはやや違和感がある。「演歌」という名前ができたのは1970年頃であっても、朝鮮半島で幼少期を過ごした古賀政男が作曲を始めたのは1930年頃からだからだ。リテラの記事には、

 たとえば、「古賀メロディー」と称され、現在では演歌の基礎をつくったと評価される古賀政男だが、彼の音楽的な素養となっているものも西洋音楽の知識やクラシックギターの技術である。

とあるが、そんなことを言い出したら、明治政府が導入した小学唱歌も、日本の音楽の伝統にはなかった「機能和声にもとづく調性音楽」であって、「西洋音楽の知識」なくして語れるものではない。ネット検索をかけたら、「Yahoo! 知恵袋」に「なぜ日本では西洋音楽ばかり演奏されるのですか? 」という質問があり*3、それに対して

機能和声にもとづく調性音楽は人類にとって最も麻薬性が強かったと言うことでしょう。
それを発見したのが西洋だったと言うことです。
もう行き詰まってしまいましたけどね。

という回答があった。これに尽きると思う。韓国の「トロット」だろうが日本の「演歌」だろうが例外ではない。学生時代の昔、本屋で現代音楽作曲家の柴田南雄(1916-1996)*4が書いた本をよく立ち読みしていたのだが、「機能和声に基づく調性音楽」の束縛からの脱却を目指していたであろう柴田は、世界中どこでも西洋音楽の侵食が観察されたとの研究結果を披露していた(書名は覚えていない)*5。先週、晩年にラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌いこなした本田美奈子について書いたが、本田美奈子の出発点は演歌歌手志望であり、「ヴォカリーズ」は甘い旋律とともに、実に不思議な和声進行を持つ、まさしく「麻薬的」な音楽だと、その楽譜*6を見ながら改めて思った。

子ども時代の思い出を語ると、人生で初めて「歌謡曲」というジャンル名と「森進一」という歌手名を同時に知ったのは、確か小学校低学年の遠足で行った先でのことだった。行き先の施設では、子ども向けの歌を何曲か流したあと、「おとなの人のために」とか称して森進一の歌を流したのだった。その時私は「歌謡曲」とは「火曜日の曲」のことかと勝手に思い込んだ。だからはっきり言えるのだが、司会者は「演歌」ではなく「歌謡曲」と言った。「演歌」とは言わなかった。だから、「演歌」という言葉が定着したのは比較的新しい、と言われても、それには違和感はない。

いずれにせよ、自民党の頭の悪い政治家の言う「日本の国民的な文化である演歌、歌謡曲」というのが噴飯ものの妄言である、ということについてはリテラの記事の著者・新田樹氏に全面的に同意する。

*1:といってもその頃はまだヤクルトファンではなかったのだが、プロ野球開幕の日に「今年の順位予想だ」と言って紙にヤクルト優勝を予想する順位予想を書いて、それが的中したのである。家族には「ヤクルト、本当に優勝したねえ」と驚かれたが、それがのちにヤクルトファンになるきっかけの一つだった。なお昨年の開幕翌日にもヤクルト優勝を予想してこの日記に書いたが、それも当たった。別に毎年ヤクルト優勝を予想しているわけではなく、連続最下位に終わった2013年と2014年には悲観的な予想を書いた。図にのって今年もヤクルト連覇を予想するつもりだが、こんなふうに色気を出した時に限って予想は外れるものだから、今年のヤクルトは最下位かも知れない(実際今のセ・リーグはリーグ全体のレベルが低いので、どの球団がどの順位になっても不思議はない)。

*2:日本がバブル景気に乗っかってアメリカなどで好き勝手に企業の買収などに走っていい気になっていた1989年頃には、すでに日本の繁栄の土台は緩みつつあったと私はみている。中曽根康弘新自由主義政策に着手したあたりから、日本の弱体化が始まったと思われる。

*3:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1048077755

*4:柴田南雄は、同じ作曲家の武満徹や作家の遠藤周作、漫画家の藤子・F・不二雄と並んで、私にとって惜しまれる1996年の物故者だった。もう没後20年になるんだね。蛇足ながら、同じ年に亡くなった丸山眞男司馬遼太郎には思い入れはない(笑)。

*5:柴田南雄は理系の家系の人で、父親は高名な化学者だったが、柴田氏本人は一種独特の霊感とでもいうべきものを持った人だった。これは本当にうろ覚えなのだが、シェーンベルク晩年の弦楽三重奏曲について、音楽以外の形態で作られても傑作になっただろう、などという、ちょっと常人には想像もつかない発想に基づく表現をしたり、ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』のような内容の本が出てくることを、その出現前に予言したりするなど、その頃立ち読みしていた本は実に面白かった。あんなに面白い音楽の本は他に読んだことがないといえるほどなのだが、今では書名もわからないし本屋でも見かけない。たぶん絶版なのだろうが、買っておけば良かったと後悔している。

*6:http://shin-itchiro.up.seesaa.net/pdf/Rachmaninoff20Vocalise-e7803.pdf