kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

北岳と煙草と新幹線と(串田孫一と吉田秀和を読む)

先月の夏休みに南アルプスの山に行っていたのだが、山に行く前と行ったあとに読んだ本に、私がたどったのとほぼ同じコースが書かれていた。


山行記 (文春文庫)

山行記 (文春文庫)


山のパンセ (ヤマケイ文庫)

山のパンセ (ヤマケイ文庫)


このうち南木佳士氏は芥川賞受賞の翌年に心身を病んだのが山歩きを始めたきっかけとのことだが、故串田孫一(1915-2005)は少年時代から山に登り、戦前に谷川岳の堅炭岩KIII峰の積雪期初登攀を成し遂げたこともあるという超本格派だ。ごくたまにしか山に行かないうえ、歩くのは夏山の一般コースだけで冬山などやろうとも思わない私なんかは串田氏から見れば蔑視の対象に違いないのだが、本記事のテーマは山そのものではなく、煙草(とゴミ)の話である。

串田氏の本を読んでいると、串田氏自身もそうであったように、昔は山歩きをしながら煙草を吸うのが当たり前であって、山頂には登山客に投げ捨てられた空き缶が散乱していたらしい。今からは考えられないことだ。以下『山のパンセ』から引用する。

 (北岳の=引用者註)頂上には食事をして一時間いたが、あんまりひどい空罐の散乱で、手をつけたところでどうということもなかったが、それでも、踏み潰して岩の下にせっせと入れた。そして少しはせいせいして一服つけようとすると、もう何も見えない霧になった。

串田孫一『山のパンセ』(ヤマケイ文庫,2013)412頁=「白峰三山」より)


串田氏のこの山旅は、1957年8月9日から12日までで、北岳の頂上に立ったのは今年から「山の日」の祝日になった8月11日だったようだ。その59年後の8月の北岳山頂は登山客だらけだったけれども、頂上で空き缶なんか一つも見なかったし、山頂で「一服つけている」人も一人もいなかった。串田氏は果たして吸い殻を北岳山頂にポイ捨てしなかったのだろうかと思うのは、後世に生きる人間の後知恵に過ぎないのだろうけれど。

私が北岳に登った日は8月11日ではなく翌12日だったが、朝は晴れていて、御池から北岳山頂へと向かう「草すべり」と名づけられた急斜面を登り切って小太郎尾根分岐に近づくと仙丈ヶ岳甲斐駒ヶ岳がその勇姿を現し、そのうち甲斐駒には早い時間から雲がかかり始め、昼頃には北岳山頂も霧に覆われるという経過をたどった。串田氏が書いた59年前の8月11日もそれと同じ天気の移り変わりだったようだ。夏山にはいつも昼頃になると霧が出てくるし、甲斐駒が仙丈よりも早く雲に隠れるのもいつものことらしい。但し、雨に降られない日はなかったという串田氏の山行とは違って、私は一度も雨に降られなかった。また、日程の後半では、鍛えられた串田氏の脚にはなんということもなかったであろう大門沢の下りでの悪戦苦闘は、南木佳士氏の『山行記』に活写されているのだけれど、南木氏よりさらに鍛えられておらず弱い私の脚は、当然ながら南木氏たちよりさらにひどく音を上げたのだった。

それはともかく、自然は変わらないが人間社会は変わる。煙草をめぐる文化も同じだ。

以下は山とは離れて2012年に亡くなった音楽評論家の吉田秀和氏のエッセイ集『響きと鏡』(中公文庫,1990)に収められた「たばこのけむり」という文章から引用する。私はこの本を文庫化された1990年に買って読んだが、今日たまたま引っ張り出して目次を見ていたら、「たばこのけむり」という見出しが目を引いたので読み返してみた。単行本は1980年に文藝春秋から出版され、エッセイの初出はその後右翼月刊誌と化して今から数年前に休刊(廃刊)になった『諸君!』の連載だった。下記は1978年に書かれたものらしい。


響きと鏡 (中公文庫)

響きと鏡 (中公文庫)

 このところ、新幹線で京都や大阪にゆく時は、ぼくはいつも『ひかり』じゃなくて、『こだま』に乗ることにしてます。

 『こだま』には禁煙車が一輛ついているけれど、『ひかり』にはないんです。もっとも、その『こだま』の禁煙車も、十六号車で、これは下りの時には最後尾、上りはいちばん前という不便極まりない場所にあるんで、荷物のある時なんか楽じゃない。

吉田秀和『響きと鏡』(中公文庫,1990)76頁=「たばこのけむり」より)


ところが、さらに読み進めると下記の文章が出てきてずっこけてしまう。

 このごろは禁煙権とかいって、やかましいことになったけど、ぼくがたばこをやめた十年以上前は、そんなこと、誰もいわなかった。そのころ、やめて、ぼくがすぐに気がついたのは、これで自分は社会の弱者の側に転落したという事実でした。(同77頁)


なんと、吉田秀和自身も60年代までは喫煙者だった。吉田氏は1913年生まれだから、50歳前後で禁煙した計算になる。吉田氏が98歳の天寿を全うできたのはそのおかげだったかもしれない。

このあとの文章が面白くて、吉田氏が京都から東京行きの『こだま』に乗ったはずなのに、それがたまたま『ひかり』の車両を転用したものだったため、「禁煙車」の表示がされておらず、それをいいことに煙草を吸い始めた乗客がいて、吉田氏が車掌に苦情を言うと、車掌は

現在ぼくたちの乗っているこの車は、元来が『ひかり』の車輛なのだが、今日は操車の都合上『こだま』として使われてる。そのため、この車には禁煙の表示がない。だから、この車は『こだま』の十六号車だけれど、禁煙車ではない。だから、煙草を吸ってる人がいても、禁煙車でない以上、とめられない(同81頁)

と答えたというのだ。吉田氏は、実は自身も喫煙車ではなく煙草の煙が苦手だという車掌と押し問答したが埒があかなかった。そのうち浜松あたりから乗客が増え始め(今でもそうだが、『こだま』の名古屋・東京間は当時から乗客が多くて混雑していたようだ)、通路にまで乗客が立っているのに煙草を吸う人間も増えてきて空気が悪くなったところ、意外な結末を迎えた。以下引用する。

 そうやってたしか熱海についた時だと思います。威勢の良いひとむれがどやどやと入って来たのですが、そのなかでひときわ大柄の男が、強引に車のまんなかまで進むと、やにわに「なんだ、なんだ、てめいら。禁煙車なんだぞ、たばこが吸いたきゃ、あっちの車へいけ!」と怒鳴り出しました。

 そうしたら、ぼくのまわりだけでも、それまで優雅にたばこをくわえていた何人かが、とたんに、黙々と、たばこの火を消しだしたではありませんか。抗弁する人なんかひとりもいやしない。

 こういうことなんですね。一人一人の思慮分別に訴えながら、納得づくで、やろうとしたら容易なことじゃない。だが、そこにナチみたいなのが来たら、いっぺんにきれいさっぱり……。

吉田秀和『響きと鏡』(中公文庫,1990)84-85頁=「たばこのけむり」より)


こんな書かれ方では、せっかく善行をなした「威勢の良い大柄の男」があまりにも気の毒だ、本当のファシストはもっと「優しい」身振りをするもんなんだけどなあ、と思いもしたけれど、やはり笑ってしまった。

それはともかく、禁煙車が『ひかり』になかった時代なんて私には思い出せなかったのだが、調べてみると自由席では1980年に『ひかり』の1号車がようやく禁煙車になり、2号車と5号車も禁煙車になったのは1984年のことだったらしい。5号車が満席で、空席を求めて1,2号車に移動する時の煙草の悪臭は私もよく覚えている。もっとも、それは発車間際にホームに着いた時の話であって、出張で新横浜から下りの『ひかり』に乗る時は、いつもは3,4号車を通らなくても済むように、2号車の前の扉から乗るようにしていたものだった。それは80年代後半から90年代にかけての話で、その頃のことならよく覚えている。

以下は煙草の話からも完全に離れるが、四半世紀ぶりに吉田秀和の『響きの鏡』のページをめくっていて、当時はわからなかったことが一つネット検索でわかった。それは「有名な人」というエッセイで、日本では「有名」という言葉は良い意味で用いられるが、ドイツ人に向かってある学者のことを「あの人は有名な人です」と言ったところ、うさんくさい人間なのではないかと疑われたという書き出しで始まる。そのあとに、「去年、ある画家が死んだ」*1という話になり、吉田氏がエッセイを書いた前年に死んだ画家の悪口が始まるのだが、若い頃にフランスに留学し、晩年に「桃色と白と青を主調とする甘美な美人画のポスター」によって「無数の人たちになじまれていた」という画家の実名を吉田氏が書かないものだから、初めて読んだ時には誰のことかわからなかったのだ。

読み返して、これは藤田なんとかという人のことではないか思ってネット検索をかけたが違った。藤田嗣治は戦前からパリで活躍し、「独自の『乳白色の肌』とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた」とのことだが、1968年に亡くなっていた。エッセイが1977〜79年に書かれていることから、1976〜78年に死んだ有名人の画家をネット検索して、ようやくその名前がわかった。東郷青児(1897-1978)であった。Wikipediaには

夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。

独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。

と書かれている。吉田氏が「画壇の一方の首領としても有名な人だった」と揶揄していることとぴったり符合する。要するに、東郷青児は有名な画家だったけれども芸術的価値の高い絵は描き残さなかったと吉田氏は言いたかったわけだ(笑)。

ネット時代には、著者が匿名で書いた人物の実名を暴くという、昔はできなかったことができるメリットもあることを改めて感じた。

最後に煙草の話に戻るが、私は生まれてこの方一度も煙草を吸ったことはないが、それは亡父がひどいヘビースモーカーであったためである。副流煙をいやというほど吸わされてきたから、煙草なんか吸うものかと少年時代に堅く心に誓っただけのことだ。もし私が昔の人間であったなら、ヘビースモーカーになっていたに違いない。

*1:前掲書124頁