コメント欄*1で杉山真大(id:mtcedar)さんに教えていただいた松尾匡による白井聡『国体論 - 菊と星条旗』(集英社新書)に対する批判に溜飲が下がった。
その中から、現天皇が一昨年に発した「お言葉」に対する白井聡の評価を批判するくだりに焦点を当てて、これを紹介する。
『そろ左派』反響と白井聡『国体論』感想と太郎フィリバスター(2018年7月9日)より
(前略)
『国体論』は、アメリカから自立できさえすればともかく解決という論調に終始しているように読めます。現実に対米自立が実現したらどんな自立になる可能性が一番高いかということについて、怖い想定を何もしていないところが不満なところです。その意味でこの本は、労働者階級の立場に立つかどうかという意味では全く左翼的でない人たちでも、帝国主義志向を持った人たちだったとしても、「そうだそうだ」と喝采して読める本です。そうするとこの本のオチが、今上天皇の退位問題をめぐる「お言葉」への「共感と敬意」と「応答」の呼びかけで終わっていることは、いささか衝撃的でした。この「お言葉」が、「古くは後醍醐天皇による討幕の綸旨や、より新しくは孝明天皇による攘夷決行の命令、明治天皇による五箇条の御誓文、そして昭和天皇の玉音放送といった系譜に連なるもの」(338ページ)とみなしたとき、当初私は白井さんは当然これを批判して言っているものと受け取っていましたよ。「アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのか、という問い」(同)に、日本人が「それでいいのだ」と答えたならば、「天皇の祈りは無用であるとの宣告にほかならない」(同)と書いてあるのを読んだとき、当初私は、今上天皇のおかれた立場の矛盾に対するシニカルな指摘なのだと思っていました。でも違ったのです。
白井さんは最後で、「お言葉」について、「今上天皇の今回の決断に対する人間としての共感と敬意」(339ページ)を表明し、「この人は、何かと闘っており、その闘いには義がある」(340ページ)と「確信」(同)し、「お言葉」の呼びかけに「応答せねばならない」(同)と感じたと言うのです。そして最後は次のように締められています。
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「お言葉」が歴史の転換を画するものでありうるということは、その可能性を持つということ、言い換えれば、潜在的にそうであるにすぎない。その潜在性・可能性を現実態に転化することができるのは、民衆の力だけである。
民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である。(同)
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す…すごい。つまり、後醍醐天皇の討幕の綸旨などと同様に、「日本人の霊的一体性を保つための天皇の祈りを意味のあるものにしてほしい」という天皇の「お言葉」に応答して民衆が立ち上がり、アメリカ傀儡の安倍政権が代表する戦後対米従属レジームを打倒して、歴史の転換が画されることを訴えているわけです!
私の鼎談書の鼎談相手の一人である北田暁大さんも、このほど新刊書『終わらない「失われた20年」』(筑摩書房)を出されています。この中に収録されている原武史さんとの対談(292-296ページ)では、まさしくこの今上天皇の「お言葉」が取り上げられています。
ここでは「お言葉」について、北田さんは「政治・立法過程を吹っ飛ばして国民との一体性を表明する」「憲法の規定する国事行為を超えた行動」と評し、「天皇の政治的な力を見せつけられました」と言っています。原さんは「憲法で規定された国事行為よりも、憲法で規定されていない宮中祭祀と御幸こそが「象徴」の中核なのだ、ということを天皇自身が雄弁に語った」とし、「御幸」の効果について、「実は国体が継承されているのではないか。昭和との連続性を感じます。イデオロギッシュだった国体の姿が、より一人一人の身体感覚として染み渡っていく」と解説しています。最後に、北田さんは、「今回のお言葉で目が覚めました。「これはむき出しの権力だ」と」と言って締めています。もちろん、批判して言っているのです。
私も生前退位は認めるべきだと固く思うし、政治家が言うこと聞いてくれないならば国民に訴えるのもありだと思いますが、だとしたら「私の人権を認めろ」とおっしゃればよかったのだと思います。「お言葉」はそれにとどまらない、日本の政治体制のあり方をめぐる高度に政治的なメッセージを込めた、憲法を超えた天皇権限の行使だと言えます。そしてそのことを十分認識した上でその評価が大きく分かれる点に、白井さんと、北田さん原さんとの間の根本的な立場性の違いが現れているのだと思います。
(後略)
(『松尾匡のページ』より)
引用文中青字ボールドにした部分は原武史の言葉だが、白井聡が主張するような「国体」が天皇からアメリカに変わった、などというより、戦前から一貫して同じ天皇を戴く「国体が継承されているのではないか」という原武史の指摘の方がはるかに説得力が強い。
この日記にも何度か書いたように、私は今年最初の3か月間に、私は松本清張の絶筆の長篇『神々の乱心』と合わせて原氏の本やNHK・Eテレのテレビ講座『100分de名著』の番組及びテキストに接し、感心もしたし大いに影響を受けていたので、白井聡の『国体論』を読んだ時、原武史と白井聡とはなんて隔絶した態度なのか、雲泥の差(もちろん白井聡が「泥」)ではないかと思っていた。それを松尾匡がずばり指摘していたので、氏の文章を読んで大いに溜飲を下げた次第だ。
また、上記の松尾匡による白井聡批判は、以前にこの日記で紹介した*2、中島岳志による
この(白井聡の=引用者註)構想は危ない。君民一体の国体によって、君側の奸を撃つという昭和維新のイマジネーションが投入されているからだ。
という同じ本に対する批判*3と相通じることも指摘しておきたい。中島岳志はそのあとに余計な文章を書いてせっかくの批判を弱めてしまっているが、松尾匡の文章にはそれもない。
松尾匡の批判に白井聡は大きなショックを受けたらしく、「大阪労働学校のご自分の講義の一回をまるまるあてて」反論したらしいが、松尾匡はそれに対するコメントも書いている。その中から、再び天皇の「お言葉」について書かれた部分を抜粋して紹介する。
白井聡さんの反論白熱講義(2018年7月11日)
(前略)
天皇の「お言葉」の話もこの同じ文脈で言っていることです。白井さんは「お言葉」はひとつのきっかけにすぎないとおっしゃっていました。たとえきっかけでも、天皇の声に応答して、しかもその声が国民統合の仕事をさせてくれという声で、しかもその仕事が霊的な「祈り」である時に、現れる可能性が一番高いのは、やはり右翼ナショナリズムの運動でしょう。歴史のはずみがつけばそれが地域帝国主義体制を生みだす危険は杞憂ではないと思います。
天皇の「お言葉」に世の腐朽がここまできたのかということを感じるのはひとつの興味深い提起だと思いますが、それを実践につなげるような締め方は、なくてもよかったのではないかと思います。
なお、天皇が生前退位したければ「私の人権を認めろ」と言えばよかったという私の叙述に対して、白井さんは「では参政権を認めるのか」とおっしゃっていますが、私が日本よりももっとまっとうに人権が認められる国に遊びにいっても、参政権は認められないと思いますが、意に反する労役を課されない人権は守られると思います。あるいは参政権のない子供でも、意に反する労役を強制されることはないと思います。
ちなみに私はファーストベストは天皇制をなくすことだと思っています。「国民統合」も不要と思っています。でもヘタレの日和見ですので、セカンドベスト、サードベストと何段階も現実妥協を作る姿勢があります。現実には野党が政権をとっても宮中祭祀も御幸もとてもなくならないことは重々承知した上、でもおかしいんじゃないのと誰かが一言言うだけでも、それはいいことだと思いますし、天皇が必然的に持ってしまう政治力をちょっとでも削ぐような現実的対応を考えること自体は、必要なことだと思います。
(後略)
(『松尾匡のページ』より)
ちなみに「ファーストベストは天皇制をなくすことだと思ってい」るのは私も同じ立場だ。私自身は、今年初めに原武史の一連の論考に接する前には、「それでもまあ、象徴天皇制で左翼と右翼が妥協できるなら、天皇制は好ましくはないけれども必要悪かもしれない」と思っていたが、一連の原氏の論考に接して、いや、やはり天皇制は廃止すべきだとの考え方に改めた。原氏自身の天皇制に対する姿勢は明確ではないが、原氏の論考は私のような「ヘタレ」の人間の考え方を変える力を持っていたということだ。
今回、『松尾匡のページ』に接して、ようやく中島岳志の書評に続く有効な『国体論』批判に接することができたのは大きな収穫だった。
それにつけても改めて思うのは、そんなアブナイ傾向を持つ白井聡に、一貫して天皇制を批判していたはずの日本共産党がすり寄っている姿の異様さだ。白井聡の論考は、腰を引きながらとはいえ「リベラル保守」を自認する中島岳志が的確に問題点を指摘していることからもわかる通り、何も「リベラル・左派」ではなくとも、穏健保守派にとっても問題点を指摘できて当たり前であって、できないのは勉強不足以外のなにものでもないと思えるほどのものだ。それを、政治のど素人ならともかく、共産党の執行部や機関紙編集部の人間にできないというのは、同党が危機的な段階を迎えていることを意味すると私は考えている。
そんな政党が「民主集中制」をとる権力を保持し続けていることの恐ろしさは、筆舌に尽くし難いものがある。「民主集中制」に縛られざるを得ない党員はともかく、一般の共産党支持者の人たちは、勇気を持って自らが支持する政党のおかしさを指摘・批判しなければならない。そう強く信じる今日この頃だ。