kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「忖度」こそ諸悪の根源、「批判」こそあらゆる善の根源

 共同通信が、「野党、参院27選挙区で一本化」と報じた。

 

https://this.kiji.is/502454688027657313

 

野党、参院27選挙区で一本化

32の改選1人区、調整加速

 

 夏の参院選の勝敗を左右する32の改選1人区を巡り、立憲民主など野党5党派がこれまでの5選挙区に加え22選挙区で候補者一本化に大筋合意した。焦点だった共産党候補への一本化は現時点で2選挙区。週明け以降、順次発表する。今後、残る5選挙区と、参院選に合わせた衆参同日選の可能性に備え衆院小選挙区の調整を急ぐ。関係者が18日明らかにした。

 24選挙区で擁立する共産が候補取り下げを視野に柔軟路線に転じたことや衆参同日選への警戒から、競合区などの調整が加速していた。

 

共同通信 2019/5/18 23:28)

 

 このようにしかなりようがなかったと思うが、共産党に一本化した選挙区はどこなんだろうかと思ってネット検索をかけたがわからない。某ブログ経由で、こたつぬこ(木下ちがや)氏が下記のように呟いていることを知った。

 

 

 「でしょうか」と書いているところをみると、こたつぬこ氏自身も正確には知らないわけだ。でも、島根・鳥取、徳島・高知の両合区なら「なるほどね」と誰もが思うだろう*1

 両選挙区はともに自民の鉄板区であり、旧民主・民進系の野党がどうやっても歯が立たない選挙区だからだ。なおかつ、高知県共産党が非常に強い県であり、合区でなければ2016年の参院選共産党野党統一候補を立てたのはこの件だったに違いない。

 この日記には何度も書いてきたが、小沢一郎民主党代表をやっていた時代に候補者を社民党に譲った選挙区は、どこも前記参院2合区と同じような自民党の「鉄板区」だった。私が念頭に置いているのは衆議院の香川3区であり、この選挙区では2009年の「政権交代選挙」でも自民党大野功統が圧勝した。

 前回(2016年)の参院選では共産党候補に統一されたのは香川選挙区が唯一だったが、これはどの選挙区でも当時の民進党県連が頑強に共産候補への一本化を拒んだのに対し、当時民進党衆院議員だった小川淳也(のち希望の党を経て無所属)が自らの選挙にデメリットがあるにもかかわらず身を切る決断を行って共産党候補への一本化に骨を折ったからだ。

 2009年の政権交代選挙では当時香川1区の有権者だった私は民主党公認候補だった彼に投票した(比例は社民党に投票)。この選挙では共産党を含む他の野党は候補者を立てず、小川は自民党公認の「メディア王」平井卓也を選挙区で破った。小川が平井を選挙区で破ったのはこの1回で、6度戦って1勝5敗だ。

 小川淳也とて基本的には保守政治家であり、私が本当に支持する政治家とはいえないが、「本気の野党共闘」(この言葉を私は大嫌いだが)なるものが仮にあるとすれば、この時の小川淳也の決断こそそれに値するものだった。しかし小川は、2017年の衆院選では、同郷かつ高校(香川県高松高校)、大学(東京大学法学部)の2年先輩である玉木雄一郎や派閥のボスだった前原誠司とのしがらみを断ち切ることができず、希望の党公認で立候補した。それにもかかわらず、共産党が香川1区に候補者を立てなかったのは、前年の参院選での小川の骨折りの見返り以外には理由が考えられない。

 その結果、前回衆院選での香川1区は大接戦となり。小川淳也平井卓也に喫した5敗の中ではもっとも平井に肉薄した選挙区となった。仮に小川が希望の党ではなく立憲民主党から立候補していたなら、間違いなく選挙区で当選していたに違いないと思わせる得票差だった。毎回の衆院選挙での香川1区の選挙結果については下記Wikipedia香川県第1区」を参照されたい。

 

ja.wikipedia.org

 

 今回の記事で私が何が言いたいかというと、今回仮に島根・鳥取と徳島・高知の両合区で共産党が「野党統一候補」を出すとするなら、その話をまとめた功労のかなりの部分は、前回参院選における小川淳也の尽力に帰せられるもので、この点で小川は正しく評価されるべきだということだ。間違っても、口先で「本気の野党共闘」を連呼するだけで、本音では「共闘」のパートナーである他の野党との勢力争いを制することしか考えていない小沢一郎やその一派ならびに「小沢信者」の功績に帰せられるべきではない。

 一方で、Wikipedia小川淳也」を参照すると、小川は民主党民進党時代の代表選で細野豪志の推薦人になったことがあるなど、派閥(凌雲会)のしがらみで動いたとしか思えない行動をとっていたことが確認できる。

 

 

 これは決して褒められたことではないが、人間とはそういうものなのだ。人間の行動を決める基本は自らの周囲との人間関係にほかならない。

 このように書きながら念頭に置いているのは、「薔薇マークキャンペーン」主唱者の松尾匡が、リフレ派仲間の高橋洋一田中秀臣、上念司らを批判できない弱点を持っていることだ。学者とはいえ理念よりも人間関係を優先してしまう例だが、一事が万事、人間みな同じなのだ。私自身も、小川淳也松尾匡の立場に立ったなら、彼らと同じように振る舞ってしまう可能性がきわめて高いことを自覚している。

 だからこそ、それらの人間関係のしがらみのない人々は、彼らの気持ちを慮る(=忖度する)のではなく、正しく批判することが求められるのだ。

 ここに下記のスローガンを掲げたい。

 

「忖度」こそ諸悪の根源だ。
「批判」こそあらゆる善の根源だ。

 

 もう一つ私が言いたいのは、政権支持派であれ、反政権派であれ、属人的な議論しかできない人間があまりにも多すぎることだ。権力者を批判するより、いかに権力者の行動(それは多くの場合権力者の周囲との人間関係に大きく影響される)を制限するシステムを構築するかに知恵を絞るのが、現代を生きる人間に求められている。私はそのように堅く信じる人間だ。

*1:なお、実際に上記の両合区であることが報じられていたことを記事を公開したあとで知った。