醍醐聡氏のツイートより。
①ハンブルグに滞在中の7月1日、朝食前にホテルから歩いて10分足らずのニコライ教会に出掛けた。連合軍の大空襲の標準点とされた尖塔は黒く焼け焦げたままだったが、崩れた煉瓦の壁をバックに両手で顔を覆った前かがみ人物の像があった。そして、近くの地面に銘板が埋め込まれていた。 pic.twitter.com/XKGp9RGW0A
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) August 31, 2019
②メモ代わりに撮った銘板の写真を訳すと、ハンブルグ郊外に建設されたノイエメンガ強制収容所からから移送されたSandbostel収容所(場所は未確認)で死に追いやられた1万人の人々を追悼するという意味だった。帰国して調べるとノイエメンガにはユダヤ人や捕虜など、多い時には10万人が収容された。 pic.twitter.com/YNJi2KXtZh
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) August 31, 2019
③さらに像のそばには「試練」という標題のモニュメント(2004年設置)があり、次のような言葉が刻まれていた。
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) August 31, 2019
「真実を変えることは世界中の誰にもできない。
人々にできるのは、真実を求め、それを発見し、それに
仕えることのみである」 pic.twitter.com/zwXn3pbRXA
④さらに、この銘文の末尾に記されていた<Dietrich Bonhooeffer>という人名を帰国して調べ、ルター派牧師、ディート・ボンフェッハーと知った。さらに彼の生涯と、この地に彼の言葉が刻まれている意味を知り、被害と同時に自国が犯した罪悪を伝承しようとするドイツ人の強固な意志を肌で実感した。
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) August 31, 2019
⑤ボンフェッハーはベルリン大学で神学の教壇に立ったが、ヒトラー暗殺計画に加わったとして逮捕され、1945年4月9日、絞首刑に処された。ヒトラーが自殺する3週間前だった。
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) August 31, 2019
彼の著書は未見だが、ネット検索で入手した橋下裕明「十字架のキリストに指差す者」が参考になった。https://t.co/Ngxvoc37Xd
一連のツイートに「ボンフェッハー」と表記されているが、綴りはDeitrich Bonhoeffer*1なので普通は「(ディートリヒ*2・)ボンヘッファー」と表記される*3。リンクされた橋本裕明氏*4の論文にも「ボンヘッファー」と記載されている。
醍醐氏は、橋本氏の論文を要約するツイートも発している。
①以下、橋下論文の要約と同論文からの孫引用:
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) August 31, 2019
ボンフェッハーによると、ユダヤ人に対する国家の行為に関し、教会には三つの可能性があった。
第1は、国家に対して、その行為が合法であるかを問う、つまり、国家に責任を負わせること。
第2は、国家の行為による犠牲者に奉仕すること。 https://t.co/JJzN4FLw03
②第3は、「車に圧し潰された犠牲者を手当てするだけでなく、車そのものの進行を妨害すること。」
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) August 31, 2019
結局、ボンフェッハーが選んだのは、ヒトラー暗殺という第3の可能性だった。聖職者が「汝、殺すなかれ」というモーゼの戒律を犯したのである。
③以下、ボンフェッハーの言葉より:
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) August 31, 2019
「教会は、情け容赦のない暴力の恣意的な行使、無数の罪なき人々の肉体的かつ精神的な苦難、弾圧、憎悪、殺戮を目にしながら、彼らのために声を上げ、手立てを見つけ、急いで助けに行くこともしないでいたことを、告白する。」
④(承前・完)
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) August 31, 2019
「神がいなくともーーこの世で生きなければならないことを認識せずに、われわれは誠実であることはできない。」
ボンヘッファーがヒトラー暗殺計画に加わった(失敗に終わった実行には加わらなかった)ことは2002年に読んだ最上敏樹『人道的介入』(岩波新書)で知った。
押し入れから本を引っ張り出して確認すると、第1章「人道的介入とは何か」の4〜6頁にボンヘッファーが言及されていて、読者に強い印象を与える。以下、最上氏の著書から引用する。
ユダヤ人の権利剥奪に対する教会の義務は、ボンヘッファーの考えるところでは、第一に国家に自己の責任を目覚めさせること、第二に国家の政策の犠牲になった人々を救うこと、第三に「車輪の下敷きになった犠牲者を救うだけでなく、みずから車輪の下に身を投じて、車そのものを阻止すること」である(ボンヘッファー・1968、宮田・1995)。しかし彼は、車輪の下に身を投じはしたものの、車を阻止することはなく、ヒトラー自決とドイツ降伏のわずかひと月前に処刑されたのだった。
以下は長い蛇足。
実はつい最近、ボンヘッファーの名前を思い出していたばかりだった。思い出させたのは、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を論じた下記ブログ記事を読んだ時。
以下引用する。
18.暴力、根源的な悪との対決
208号室で主人公が殴り殺したのは、「悪」そのものであって「ワタヤノボル」本人ではありません。「悪」はおそらく「羊をめぐる冒険」の「先生」のように血溜の形でワタヤノボルの頭の中にあったと思われます。主人公が「根源的な悪」を殴り殺すことによって、血溜は破裂し彼は意識不明となります。なぜ、とどめをささなければいけないというと、彼の体から「根源的な悪」が抜け出て次なる宿主にとりつく可能性があるからです。だから息の根を止めなければ、この話は終わりません。
この小説は非常に暴力的な小説であり、「根源的な悪」と対決するには「暴力」を使ってでも倒さなければいけないという決意と覚悟があります。かなり過激な小説だといえます。
ただ、実際にこれを現実世界に当てはめると非常に困難な問題になります。どんな悪人でも殺せば「殺人」になります。悪事を暴いて警察に突き出すのが理想なのでしょうが、「根源的な悪」は巧妙で狡猾であり、なかなかしっぽをださないものです。この小説世界でも、無意識世界で「男」をバットで殴ることによって、ワタヤノボルは意識不明の重体になりますが死んではいません。彼の息の根を止め葬り去るには、クミコが生命維持装置を止めるという現実の「殺人」を行わなければいけませんでした。クミコは逮捕され、刑法上の罰を受けます。
このことは、重い課題として我々にのしかかります。
出典:http://sonhakuhu23.hatenadiary.jp/entry/2013/09/23/074953
上記は、8月22日に読書ブログに公開した記事からの孫引き。ブログ主はコメント欄で「根源的な悪」として辻政信を示唆しており、私は村上春樹が綿谷ノボルと辻政信とを重ね合わせた(だから村上は小説にノモンハン事件を持ち込んだ)可能性が強いことを前記読書ブログで指摘したが、下記にリンクを示すので、興味のおありの方は参照されたい。
kj-books-and-music.hatenablog.com
『ねじまき鳥クロニクル』で主人公の岡田トオルと妻のクミコ(第2部の初めで失踪し、トオルの元には物語の終結部でも戻らない*5)は「根源的な悪」あるいは「絶対悪」である綿谷ノボルを「殺した」(岡田トオルは夢あるいは意識下で「殺した」だけだがクミコは手を下している)。村上春樹はこの綿谷ノボルを半藤一利に「絶対悪」と評された辻政信と重ね合わせて造形したのではないかとの前記ブログ主の示唆に接して、私はボンヘッファーを思い出していたのだった。
一方、浦沢直樹の全18巻の長篇漫画『MONSTER』(1994-2002)では、ヒロインのニナ・フォルトナーと主人公のDr. テンマは、岡田トオルやクミコとは異なる結論に達した。
以下にネタバレを書いてしまうが、『MONSTER』は「絶対悪」ヨハン・リーベルトの「命を助けてしまった」日本人医師のDr. テンマ(天馬賢三)と、ヨハンの双子の妹、アンナ・リーベルト転じてニナ・フォルトナーがともにヨハンを殺そうとする漫画。ニナは第2巻70頁でヨハンを「絶対悪」と形容した。物語の核は、2度ヨハンを狙撃しようとしたDr. テンマをニナが2度とも阻止する(第9巻、第18巻)ことだが、最初はニナがテンマの代わりにヨハンを撃とうとする。しかし2度目にはニナも撃たずにヨハンを「許す」。しかしヨハンは第三者に撃たれ、テンマは再びヨハンの命を救おうと手術を行う*6。要するに作者は、たとえ「絶対悪」と形容される行為をなした人間といえども、その命を奪ってはならないというメッセージを発していると解釈される。これは、漫画を描いた浦沢直樹よりもむしろ辣腕編集者として知られる長崎尚志のコンセプトの反映ではないかと思われる。
私は1999年頃からこの漫画にはまり、連載末期には非公式のファンサイトの掲示板でストーリーの展開の当てっこなどをしていた。連載終結直前には特にヒートアップして、検事志望だったニナが弁護士志望に転じるだろうなどと予言して言い当てたりした*7のだが、肝心のニナがテンマのヨハン狙撃を阻止する場面は言い当てることができなかった。クライマックスの回(第18巻Chapter.8「終わりの風景」)の2頁目(第18巻154頁)でニナが雨の街を走るコマを見て、ようやくニナがテンマを止めることに気づいたが、あとの祭りだった。私は、そのコマを見て初めてニナがテンマを止めるために造形されたキャラクターだったことを理解したのだった。ただ、ニナがテンマを止める(178-179頁)直前に2頁見開きで「終わりの風景」(176-177頁)を見せるアイデアは卓抜で、あれには「やられた」とシャッポを脱いだ。ニナがテンマを止めることはもう少し頭が回れば言い当てられたのに、と悔やまれたが、その直前に「終わりの風景」を見せるのは私の能力ではどうやっても予測不能だった。私は『20世紀少年』より『MONSTER』の方をずっと買う人間で、『20世紀少年』はとっくの昔に古本屋に売り飛ばしてしまったが、『MONSTER』は今も持っていて*8、今回この記事を書くために押し入れから引っ張り出してきた。
で、『MONSTER』を掲示板で論じたことがきっかけで、誰かが教えてくれたのか、はたまたネット検索で知ったのかは忘れたが、最上敏樹の『人道的介入』を読むに至ったのだった。これでこのエントリの長大な蛇足の「円環」は閉じられた。
*1:醍醐氏の4件目のツイートにある "Bonhooeffer" は "o" が1個多いが、これは誤記。
*2:醍醐氏の4件目のツイートに「ディート」とあるのは誤記。
*3:いずれも醍醐氏の単純な勘違いと思われる。
*4:これも醍醐氏のツイート中の「橋下」は誤記。
*5:但し、物語の続きを想像する場合、クミコが岡田トオルの元に戻る以外の展開は想像できないから、『ねじまき鳥クロニクル』は事実上のハッピーエンドの物語だと私は考えている。一方、一般に「ハッピーエンド」と評されることの多い『騎士団長殺し』の方が、続きを想像するとまず免色渉が秋川まりえに「父殺し」をされ、最後には名前のない「私」が「室」(むろ)に「父殺し」をされる展開しかあり得ないように思われる。つまり、『騎士団長殺し』は決してハッピーエンドの物語とはいえない。『ねじまき鳥クロニクル』と合わせて、「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」といえるかもしれない。
*6:私見では、この漫画はこの回で終わらせるべきだった。あとの2回には、作者による制作意図の解説の意図があるとともに、最後の最後に奇妙な謎かけをしているが、はっきり言って、これらはない方が良いと思う。物語の円環はテンマの再手術で閉じられている。
*7:第18巻最終章239頁。前述のように作者による制作意図の解説の意味があると思われるが、この部分は不要だったと思う。