kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

ヒトラー暗殺計画立案に加わって処刑されたディートリヒ・ボンヘッファーと村上春樹と浦沢直樹と

 醍醐聡氏のツイートより。

 

 

 

 

 

 

 一連のツイートに「ボンフェッハー」と表記されているが、綴りはDeitrich Bonhoeffer*1なので普通は「(ディートリヒ*2・)ボンヘッファー」と表記される*3。リンクされた橋本裕明氏*4の論文にも「ボンヘッファー」と記載されている。

  醍醐氏は、橋本氏の論文を要約するツイートも発している。

 

 

 

 

 

 ボンヘッファーヒトラー暗殺計画に加わった(失敗に終わった実行には加わらなかった)ことは2002年に読んだ最上敏樹『人道的介入』(岩波新書)で知った。

 

www.iwanami.co.jp

 

 押し入れから本を引っ張り出して確認すると、第1章「人道的介入とは何か」の4〜6頁にボンヘッファーが言及されていて、読者に強い印象を与える。以下、最上氏の著書から引用する。

 

 ユダヤ人の権利剥奪に対する教会の義務は、ボンヘッファーの考えるところでは、第一に国家に自己の責任を目覚めさせること、第二に国家の政策の犠牲になった人々を救うこと、第三に「車輪の下敷きになった犠牲者を救うだけでなく、みずから車輪の下に身を投じて、車そのものを阻止すること」であるボンヘッファー・1968、宮田・1995)。しかし彼は、車輪の下に身を投じはしたものの、車を阻止することはなく、ヒトラー自決とドイツ降伏のわずかひと月前に処刑されたのだった。

 

最上敏樹『人道的介入』(岩波新書2001, 5-6頁))

 

 以下は長い蛇足。

 実はつい最近、ボンヘッファーの名前を思い出していたばかりだった。思い出させたのは、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を論じた下記ブログ記事を読んだ時。

 

sonhakuhu23.hatenadiary.jp

 

 以下引用する。

 

18.暴力、根源的な悪との対決

 208号室で主人公が殴り殺したのは、「悪」そのものであって「ワタヤノボル」本人ではありません。「悪」はおそらく「羊をめぐる冒険」の「先生」のように血溜の形でワタヤノボルの頭の中にあったと思われます。主人公が「根源的な悪」を殴り殺すことによって、血溜は破裂し彼は意識不明となります。なぜ、とどめをささなければいけないというと、彼の体から「根源的な悪」が抜け出て次なる宿主にとりつく可能性があるからです。だから息の根を止めなければ、この話は終わりません。

 この小説は非常に暴力的な小説であり、「根源的な悪」と対決するには「暴力」を使ってでも倒さなければいけないという決意と覚悟があります。かなり過激な小説だといえます。

 ただ、実際にこれを現実世界に当てはめると非常に困難な問題になります。どんな悪人でも殺せば「殺人」になります。悪事を暴いて警察に突き出すのが理想なのでしょうが、「根源的な悪」は巧妙で狡猾であり、なかなかしっぽをださないものです。この小説世界でも、無意識世界で「男」をバットで殴ることによって、ワタヤノボルは意識不明の重体になりますが死んではいません。彼の息の根を止め葬り去るには、クミコが生命維持装置を止めるという現実の「殺人」を行わなければいけませんでした。クミコは逮捕され、刑法上の罰を受けます。

 このことは、重い課題として我々にのしかかります。

 

出典:http://sonhakuhu23.hatenadiary.jp/entry/2013/09/23/074953

 

 上記は、8月22日に読書ブログに公開した記事からの孫引き。ブログ主はコメント欄で「根源的な悪」として辻政信を示唆しており、私は村上春樹が綿谷ノボルと辻政信とを重ね合わせた(だから村上は小説にノモンハン事件を持ち込んだ)可能性が強いことを前記読書ブログで指摘したが、下記にリンクを示すので、興味のおありの方は参照されたい。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 『ねじまき鳥クロニクル』で主人公の岡田トオルと妻のクミコ(第2部の初めで失踪し、トオルの元には物語の終結部でも戻らない*5)は「根源的な悪」あるいは「絶対悪」である綿谷ノボルを「殺した」(岡田トオルは夢あるいは意識下で「殺した」だけだがクミコは手を下している)。村上春樹はこの綿谷ノボルを半藤一利に「絶対悪」と評された辻政信と重ね合わせて造形したのではないかとの前記ブログ主の示唆に接して、私はボンヘッファーを思い出していたのだった。

 一方、浦沢直樹の全18巻の長篇漫画『MONSTER』(1994-2002)では、ヒロインのニナ・フォルトナーと主人公のDr. テンマは、岡田トオルやクミコとは異なる結論に達した。

 以下にネタバレを書いてしまうが、『MONSTER』は「絶対悪」ヨハン・リーベルトの「命を助けてしまった」日本人医師のDr. テンマ(天馬賢三)と、ヨハンの双子の妹、アンナ・リーベルト転じてニナ・フォルトナーがともにヨハンを殺そうとする漫画。ニナは第2巻70頁でヨハンを「絶対悪」と形容した。物語の核は、2度ヨハンを狙撃しようとしたDr. テンマをニナが2度とも阻止する(第9巻、第18巻)ことだが、最初はニナがテンマの代わりにヨハンを撃とうとする。しかし2度目にはニナも撃たずにヨハンを「許す」。しかしヨハンは第三者に撃たれ、テンマは再びヨハンの命を救おうと手術を行う*6。要するに作者は、たとえ「絶対悪」と形容される行為をなした人間といえども、その命を奪ってはならないというメッセージを発していると解釈される。これは、漫画を描いた浦沢直樹よりもむしろ辣腕編集者として知られる長崎尚志のコンセプトの反映ではないかと思われる。

 私は1999年頃からこの漫画にはまり、連載末期には非公式のファンサイトの掲示板でストーリーの展開の当てっこなどをしていた。連載終結直前には特にヒートアップして、検事志望だったニナが弁護士志望に転じるだろうなどと予言して言い当てたりした*7のだが、肝心のニナがテンマのヨハン狙撃を阻止する場面は言い当てることができなかった。クライマックスの回(第18巻Chapter.8「終わりの風景」)の2頁目(第18巻154頁)でニナが雨の街を走るコマを見て、ようやくニナがテンマを止めることに気づいたが、あとの祭りだった。私は、そのコマを見て初めてニナがテンマを止めるために造形されたキャラクターだったことを理解したのだった。ただ、ニナがテンマを止める(178-179頁)直前に2頁見開きで「終わりの風景」(176-177頁)を見せるアイデアは卓抜で、あれには「やられた」とシャッポを脱いだ。ニナがテンマを止めることはもう少し頭が回れば言い当てられたのに、と悔やまれたが、その直前に「終わりの風景」を見せるのは私の能力ではどうやっても予測不能だった。私は『20世紀少年』より『MONSTER』の方をずっと買う人間で、『20世紀少年』はとっくの昔に古本屋に売り飛ばしてしまったが、『MONSTER』は今も持っていて*8、今回この記事を書くために押し入れから引っ張り出してきた。

 で、『MONSTER』を掲示板で論じたことがきっかけで、誰かが教えてくれたのか、はたまたネット検索で知ったのかは忘れたが、最上敏樹の『人道的介入』を読むに至ったのだった。これでこのエントリの長大な蛇足の「円環」は閉じられた。

*1:醍醐氏の4件目のツイートにある "Bonhooeffer" は "o" が1個多いが、これは誤記。

*2:醍醐氏の4件目のツイートに「ディート」とあるのは誤記。

*3:いずれも醍醐氏の単純な勘違いと思われる。

*4:これも醍醐氏のツイート中の「橋下」は誤記。

*5:但し、物語の続きを想像する場合、クミコが岡田トオルの元に戻る以外の展開は想像できないから、『ねじまき鳥クロニクル』は事実上のハッピーエンドの物語だと私は考えている。一方、一般に「ハッピーエンド」と評されることの多い『騎士団長殺し』の方が、続きを想像するとまず免色渉が秋川まりえに「父殺し」をされ、最後には名前のない「私」が「室」(むろ)に「父殺し」をされる展開しかあり得ないように思われる。つまり、『騎士団長殺し』は決してハッピーエンドの物語とはいえない。『ねじまき鳥クロニクル』と合わせて、「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」といえるかもしれない。

*6:私見では、この漫画はこの回で終わらせるべきだった。あとの2回には、作者による制作意図の解説の意図があるとともに、最後の最後に奇妙な謎かけをしているが、はっきり言って、これらはない方が良いと思う。物語の円環はテンマの再手術で閉じられている。

*7:第18巻最終章239頁。前述のように作者による制作意図の解説の意味があると思われるが、この部分は不要だったと思う。

*8:なお、浦沢作品では他に『PLUTO』と、人気がイマイチだった『BILLY BAT』も手元にある。