kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

関根潤三死去

 プロ野球・元大洋ホエールズ及びヤクルトスワローズで監督を務めた「元祖二刀流」関根潤三氏の訃報を知る。享年93。

 1996年に神宮球場にヤクルト対阪神戦を見に行った試合前に、チケット売り場の列に並んでいた時、関根監督の姿をお見かけした。元野球選手とは思えない(身長173cmで太ってもいない)、どこにでもいるおじいさんという印象だった。あの当時の関根さんは69歳だったのか。神宮球場のすぐ外で見かけたといえば、80年代後半、まだ故障する前の荒木大輔の若々しい姿が思い出されるが、関根さんの訃報に接した池山隆寛の「私が若い頃に、一番我慢して使っていただいた監督です」*1とのコメントを知って、ああ、年をとったなあと思った。関根監督時代の池山で思い出すのは、1987年7月にヤクルトが甲子園球場阪神に3連勝した時、オールスター戦までで20勝にも届かなかったダメ虎の本拠地では観客もまばらで、その中でヤクルト応援席からの「かっとばせー、池山」というコールが弱々しく響いたラジオ中継だったりする。池山は甲子園球場のある兵庫県西宮市に隣接する尼崎市の出身で、尼崎は西宮より阪神ファンの多いところだから、阪神に入っていれば大歓声を受けたに違いないのに、と思いながら、私自身も関西出身でありながらヤクルトを応援していたのだった。荒木大輔55歳、池山隆寛54歳。歳をとったはずだ。

 大洋時代の関根監督は、1982年の終盤戦で「力をつけたので、江川にぶつけても良いと思った」と評した遠藤一彦を、読売戦で3度江川と直接対決させ、後楽園球場の試合では負けたものの、横浜スタジアムでの2試合では遠藤が江川に投げ勝ち、特にシーズン最終戦で江川と読売に黒星をつけた試合は、読売が0.5ゲーム差で優勝を逃しただけに、1986年のヤクルト・ブロハードの逆転2ラン(土橋正幸監督時代)に並ぶ大きな試合だった。読売戦にも勝てると自信をつけた関根大洋は、翌1983年には読売に勝ちこした。

 もっとも、関根潤三長嶋茂雄に心酔していたがために、大洋やヤクルトの監督を務めた時には「長島を解任した読売」の打倒に燃えていたもののようだ。現役時代は近鉄で長く活躍したが、選手生活の晩年は読売でプレーしたため、ラジオ解説者としては読売びいきの印象が強く、いしいひさいち(岡山出身のヤクルトファン)の『がんばれ! タブチくん!!』でも大阪・朝日放送植草貞夫小山正明阪神びいきコンビと対比させて、読売びいきの解説者としておちょくられて描かれたことがある*2

 ヤクルト監督時代にも、1987年には後楽園球場でマジックを「1」としていた読売に勝って読売の本拠地胴上げを阻んだり*3、88年には東京ドームの開幕戦で勝ったり、王貞治の読売監督としての最終戦にも、故高野光のあわやノーヒットノーランかという好投で勝って読売戦のシーズン勝ち越しを決めるなど、読売戦になるとずいぶん奮闘したイメージがある*4

 そして、大洋監督時代にはそれほどでもなかったが、ヤクルトで若手選手に伸び伸びとプレーさせて地力をつけさせた功績は忘れてはならない。この土台があればこそ、90年代の野村ヤクルトの黄金期を迎えることができたのだ。

 そういえば、先々月には野村克也が亡くなったんだなあ。そして今度は関根潤三の訃報。今年のプロ野球はいつ開幕するか見当もつかない。

 心より故人のご冥福をお祈りします。

*1:https://www.nikkansports.com/baseball/news/202004090000514.html。このコメントは昨夜(4/9)のnews23で知った。

*2:関西在住の高校生時代、ABCラジオ植草貞夫が「おちょくられた」と言っていたのを聞いて笑った記憶が今も鮮明だ。

*3:この年の読売は、2位広島の敗戦でリーグ優勝が決まった。

*4:反面、「星野竜」をアシストしまくって1988年にナゴヤ球場星野仙一の胴上げを見せつけられたりもした。86年から89年まで足かけ4年で読売に7連勝した高野が、88年の中日戦で勝ちなしの6連敗だったことなどから、関根監督時代のヤクルトは星野中日の「スパイ野球」に無防備だったのではないかと私は疑っている。野村監督になってからは敵の気癖盗みを熱心にやったことはいうまでもなく、読売の槙原寛己がある時期から中日戦(星野仙一の監督就任以降)とヤクルト戦(野村克也の監督就任以降)を極端に苦手としたのは、槙原が癖を盗まれやすい投手だったからに違いない。蛇足だが、ブロハードの逆転2ランは槙原の癖とは関係ない。あれは槙原の勝負弱さの表れだ。