kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「鰹節=勝男武士」か! そういや大杉勝男も早世した

 下記記事にコメントをいただいた。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 nanijiro‐i  

今月からはじめたツイッターで「勝武士の四股名の由来はなんだろう」ということだけを書きました。そこで、この記事を紹介したことをご報告します。
わからないので、どう推測できるか。
はじめは「かつぶし?」と思った。
鰹節は縁起物で、婚約の結納品の1つで「勝男武士」と男性の強さの象徴だそうだ。
他には、どんなことが考えられるか。
kojitakenの日記にこうあった。〈Tシャツ通販サイトが「勝武士」の3文字を縦書でプリントしたTシャツ商品を掲げているのが見つかる。サイトに勝負師から「負」の文字を無くし、勝つだけの武士として勝武士としましたとある。同じような発想からつけられた四股名なのだろう〉
このブログには
〈勝武士は前の親方でなく(高田川部屋の現親方)元安芸乃島がスカウトした力士だったらしい〉
とある。安芸乃島(高田川)勝巳の四股名から「勝」の字をもらったのか。
同部屋ブログには、勝武士幹士の「幹士」は、初代の若乃花幹士を尊敬していたからとある。
これだけの話ですがご報告しておこうと思いまして。

 

 コメントありがとうございます。「鰹節=勝男武士」ですか! なるほど。

 ツイートも拝見しました。

 

 

 ネット検索をかけたらその通りでした。多数のサイトが見つかりましたが、筆頭に表示されたサイトより。

 

【第三十四話】 鰹節=勝男武士 - かつおおもしろ話 - かつお節・だしのメーカー 柳屋本店 

鰹節に「勝男武士」の漢字をあてて「かつおぶし」と読む一種の文字遊びは、戦国時代からあったようです。鰹の賞味が、まず公家階級から始まり、ついでこの食習慣を戦国大名がとりいれたといわれます。そのころになって「勝男武士」という書き方も……と考えるのが妥当でしょう。

戦国武士の縁起かつぎ

「勝男武士」という書き方は、縁起かつぎの表われでもあったのです。日本鰹節協会発行『鰹節』には要旨つぎのような見解が記述されています。

戦国武士たちは、常に生死の関頭に立たされているだけに、真剣になって縁起をかついだものである。出陣とか凱旋にあたって、「打ちあわび・搗ち栗(かちぐり)・昆布」を飾った儀式にも、敵に「打ち・勝ち・喜ぶ」という祈りがこめられていた。
打ちあわびは「のし(熨斗)あわび」で、貝のあわびの肉を薄く伸ばしたものであり、搗ち栗は勝栗とも書いて栗の実を乾かし渋皮を取ったもので、二つとも祝儀用に使います。鎌倉武士の北条氏綱が戦いの引き出物に鰹節をいつも使った縁起かつぎも伝えられています。とにかく鰹を勝男と書くことで、勝利する武士でありたい悲願を心理的に、ちょっぴり……というところでしょう。しかし、この裏に陣中食として鰹節が携帯便利、栄養豊富という実用性が、はるかに重みを持っていた、というのではないでしょうか。

譬(たと)えの「武士と鰹節」

古くから言いならわされている譬えから「武士と鰹節」に関係のものを拾ってみますと――

*武士の模範=節義固く私欲を削って主君に仕える武士を鰹節に譬える。鰹節は固く削って食用にすることから。
「良きさぶらいというは、弓馬の道を極め、義をみがき、信を先として、私欲の心を削り……ひとに鰹節とも言わる」と江戸時代初期の『仮名草子』にある。

*鈍武士(なまくらぶし)=なまくら刀を帯びた武士は、意気地のない武士、腰抜けざむらいである。「生武士(なまりぶし)」とも言う。これは鰹の「生節(なまりぶし)」に由来する。江戸時代の国語辞書『俚言集覧』に「竹の節か木の節か鰹節でもあるまい」と手きびしくでている。前の模範の方は「かまくら武士」だろうか、そうすると「なまくら武士」は一字違い、いつどこの武士でしょうか。

*参考書=宮下章著『鰹節』鈴木業三編『続故事ことわざ辞典』(東京堂出版)
小学館日本国語大辞典

 

出典:https://www.yanagiya.co.jp/omoshiro/_zatu34.html

 

 あと、勝武士さんの「勝」と現高田川親方である元安芸乃島の「勝巳」との関係には全く気づきませんでしたが、「幹士」が若乃花から取られていたらしいことには気づいていました。私が思い出したのは、若三杉という四股名だった若き日に大人気を博していた二代目若乃花でしたが、初代若乃花も「幹士」だったことを今回ネット検索で確認して、こんなところに現高田川親方が二子山部屋の力士だったことが反映しているんだなあと思いました。しかし、記事には書き漏らしてしまったのでした。二代目若乃花は親方だった先代若乃花からのプレッシャーが重荷だったようで、引退後さっさと親方の娘と離婚してしまいました。私なんかは、「土俵の鬼」の先代よりも、気弱な二代目の方にシンパシーを抱いてしまいます。だからプロ野球ではヤクルトスワローズを応援するんでしょうけど。

 ヤクルトの「勝男」といえば大杉勝男を思い出します。この人が1983年に引退した時には、時のヤクルト監督・武上四郎と確執があったはず。私はこの武上が大嫌いでした。ヤクルト監督時代には大杉や松岡弘などのベテランをうまく使いこなせず、ヤクルトの暗黒時代を招きましたし、何よりのちに読売コーチになったこととか、日本テレビの読売対ヤクルト戦の中継で読売を応援しまくったこと*1などが我慢なりませんでした。武上は読売ファンとして有名だったヤクルトの松園尚巳オーナーにゴマをするのを得意技にしていたそうです。

 その武上も61歳で若死にしましたが、大杉勝男は武上よりもずっと早い、47歳の若さでのがん死(肝臓がん)でした。1978年の日本シリーズ第7戦では2本の本塁打(うち1本目はファウルではないかとの阪急・上田利治監督の抗議で長時間の中断を招いたことであまりにも有名)を放ったものの、野球評論家としてはヤクルトの黄金時代を見ることなく死んでしまったあたり、やはり勝ち運がなかったようです。