kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

西浦博教授が「第3波の要因は政府対応の遅れと冬の気温低下」、「官邸の意向を踏まえた動きがあり、政策に不都合な事実は切り捨てられる」と指摘(東洋経済オンラインより)

 「東洋経済オンライン」に掲載された、下記西浦博のインタビュー記事は興味深い。

 

toyokeizai.net

 

 以下、上記リンクの記事から抜粋する。なお、インタビューは1月27日に行われ、東洋経済の解説部コラムニスト・野村明弘氏が聞き手を務めた。

 

――昨春の第1波に比べると、世界のコロナ対策は、より部分的なロックダウンを中心に据えるようになっています。疫学研究者の世界では、どんな新型コロナウイルスの知見が得られたのでしょうか。

 

1人の感染者が何人の2次感染者を生み出すのかという「実効再生産数」(「東洋経済が新型コロナ『実効再生産数』を公開」を参照)は感染の広がり度合いを示すものだが、何が新型コロナの実効再生産数に影響を与える要因になるかについて、4つのことが世界的に実証されてきた。それは気温、人口密度、人の移動率、そしてコンプライアンスだ。

 

気温が低いほど新型コロナの伝播は起きやすいことは実証研究でもはっきりしてきた。また、都市部ほどレストランなど密な屋内空間に入りやすいという意味で、人口密度は実効再生産数と正の相関関係を持っている。人の移動率については、グーグルが公表する「コミュニティ モビリティ レポート」の移動率データ(娯楽含む)を基に実効再生産数を予測すると、予測可能性が高まることがわかった。最後のコンプライアンスとは、接触につながる行動の自粛を指し、マスク着用やソーシャルディスタンスなどの度合いを含むものだ。

 

第3波の要因は政府対応の遅れと冬の気温低下

 

世界の国・地域によって流行の濃淡が出ている理由は、これら4つの要因で相当部分を説明できるようになった。最近の国内外の対策が飲食店などに的を絞ったものとなっている背景には、このような疫学上の知見がある。日本で第3波が拡大してしまったのは、政治による対策の遅れに加えて気温が相当程度に効いたためと考えている。

 

出典:https://toyokeizai.net/articles/-/410312?page=1

 

 「世界の国・地域によって流行の濃淡が出ている理由」について、もはや一時期山中伸弥が言っていた「ファクターX」の話など出てこなくなっている。国内での年末年始の急激な感染は、もしあのまま「GoToキャンペーン」を続けたり、緊急事態宣言を発したりしなかったらどうなっていただろうかと、心胆を寒からしめるものがあったように思う。「気温が相当程度効いた」という指摘は、私のようなど素人が陽性者数と死亡者数のデータを調べた結果とも良く整合しているので説得力が強い。2月6日の時点で第3波による致死率は1.50%で、致死率が0.9〜1.0%だった第2波より高いが、新規陽性者数が急減しているのに死亡者数が高止まりしてなかなか減らない現在、第3波の致死率は日に日に上昇を続けている。

 もちろん「政府対応の遅れ」の影響は絶大だった。

 

――内閣府は昨年11月の「経済財政報告」の中で、「統計分析の結果、人の外出率の低下は新規感染者数に有意に影響を及ぼさなかった」としました。これが「Go To トラベルは感染拡大に影響していない」と菅政権が主張した1つの根拠となっているようです。

 

私は、それはまずいと思ってきた。内閣府の分析では昨年2月15日~5月31日(第1期)と6月1日~9月1日(第2期)の頃に影響がなかったと言っている。それは今後十分に検証されていくことになるが、はたして統計学および理論疫学の十分なバックアップの下で検討された結果だろうか。

 

出典:https://toyokeizai.net/articles/-/410312?page=1

 

都合のいい分析結果が切り取られている

 

政府の科学的なエビデンスに対する姿勢の問題もある。本来、科学的な分析はたくさんのやり方で複数の人にやってもらい、それらをテーブルの上に並べ、十分に検討したうえで政策を決めていくというプロセスが理想だ。しかし、今は密室で1つか2つしか分析が行われていない状態だ。よりオープンなサイエンスの声が届く仕組みにはなっていない。

 

加えて、官邸の意向を踏まえた動きがあるため、現在進行中の政策に不都合な事実は切り捨てられる傾向がある。その一方で、都合がいいものであれば質が限定的でも積極的にそれが使われていく。私は、厚労省の会議において航空機を利用した人の移動率と2次感染者数の相関が限られているとする紙1枚だけの資料を内閣官房が出したとき、勇気を出して「ここだけを切り取るような話ではない。もっと広くみんなで議論すべき研究課題だ」とコメントした。現に同じデータを使って再検討した結果、移動率は実効再生産数との間で時系列相関があった。

 

研究者としての良心から申し上げるが、これは科学との距離感にとどまらず、日本という国の政治を考えるうえで相当にシリアスな問題だと認識している。今の政権のあり方だと変わらないのだろう。

 

出典:https://toyokeizai.net/articles/-/410312?page=2

 

 これが、2009年の「政権交代」前後に当時の民主党が声高に叫んでいた「政治主導」や、その民主党政権が失敗しつつある時に政権批判側(=自公や維新及びそれを後押ししたマスメディアや「識者」等)がやはり声高に叫んだ「決められる政治」の行き着いた姿だ。結局生み出されたのは、かつての小沢一郎や、それよりもさらに極端なあり方で安倍晋三菅義偉らに対してなされた「忖度」だった。しかし、当たり前だが新型コロナウイルスは忖度などしてくれない。為政者に迎合する政策のみ採用された結果、年末年始の急激な感染拡大を招き、昨年2月13日に国内最初の死者が出てから1年弱で6千人以上の死者を出してしまった。今回の安倍・菅両政権の失敗は、先の戦争で悲惨な敗戦を招いた日本の指導者たちの失敗に酷似している。

 

 「新型コロナに対応した資源配分を柔軟に行えていない医療界にも問題があるとの指摘」に関して、西浦氏は下記のコメントをしている。

 

構造問題を踏まえた対応策を出したが…

 

ただ、厚労省の関係者の代弁をさせてもらうとすれば、厚労省はそのような医療提供体制の構造問題を流行当初から強く認識しており、それを踏まえた対応策を昨年6月19日に出していた。例えば、私たちクラスター対策班の専門家グループと協力して都道府県などに出した「今後を見据えた新型コロナウイルス感染症の医療提供体制整備について」という通知だ。

 

ここでは、第1波のデータを分析して、各地域での流行シナリオやその際に必要となる現実的に可能な病床確保計画を示しつつ、新規感染者がこれくらいに増えた段階でアラートをしっかりと出して対策を打てば、この最大病床数内で持ちこたえられるとの説明を展開した。柔軟性がなく大幅に病床を増やせない日本の状況を事前に考えて、流行対策のためのアラートの設定とセットにしたわけだ。

 

このような計画が機能するためには、都道府県知事や政府は設定された感染レベルのフェーズになったときにしっかりと対策を打つことが必須だった。

 

ところが、実際には第3波でフェーズを超えても実効性のある対策が打たれず、厚労省の通知は政治によって簡単に反故にされた。政治が責任を持って対策をしていれば、病床がオーバーフローすることはなかった。これは大都市を有する地方自治体の首長だけの責任ではない。政府はボールの投げ合いで時間を費やしたが、こと専門性が高い厚生労働行政については守ってもらわないといけない極めて重要なポイントだった。

 

病床の不足について真に国を憂う気持ちを持ってともに徹夜を重ねた厚生労働官僚たちが、どんな思いで唇を噛んで悔しさを滲ませたのか、憤りを覚える第3波であったことは、ここに通知の存在とともに明らかにしておきたい。

 

出典:https://toyokeizai.net/articles/-/410312?page=3https://toyokeizai.net/articles/-/410312?page=4

 

 ここで西浦氏は、問題に必死に取り組んで対応策を出したのに、それを菅政権に「簡単に反故にされた」厚労官僚たちの無念さに言及している*1

 これも「政治主導」の大きな弊害だ。

 こんな歪んだ「政治主導」だの「決められる政治」だのあり方は、今後大きく変えていかなければならない。今回の新型コロナウイルス感染症は、その問題点と弊害をはっきり示した。

*1:余談だが、弊ブログでは少し前に、安倍晋三によって国会で虚偽答弁を強いられる官僚の無念に思いを致す云々という文章を書いた。それに対して紋切り型の官僚批判のコメントを寄越してきたコメンテーターがいたので、コメント欄で当該コメンテーター氏のコメントを批判した(反批判というべきか)ことがある。ある時、某ブログのコメント欄を覗いてみたら、この時の私の所業に対して「傍若無人のブログ主」だの「(kojitakenは)実社会での人間関係にイビツさを持つ人なのかもしれない」だのと書きたい放題のことが書かれているのを見て笑ってしまった。よく見ると、このコメント主は過去に同じエントリのコメント欄で、他のブログの運営者に対しても悪口を書きまくっていたのだった。ブログのコメント欄ばかり見てブログ主の粗探しに精を出す人なんだなあ、相当性格が暗いに違いないと思った。当該コメント主の指摘通り、弊ブログ内での私の人格は「傍若無人」そのものなので、ここに暴露しておく。こんなことを書いても何のことかわかる人はおそらく2人しかおられないだろうけれども。もっとも、私が本当に怒っているわけではないことはご理解いただきたい。私は本当に大笑いしたのだ。「右を見て左を見て自分の意見を決める」と言われるくらいなら「傍若無人なブログ主」と言われる方がよっぽど良い(笑)。個人ブログとはそういうものだ。