1975年4月に始まった大阪・ABC(朝日放送)制作のクイズ番組「パネルクイズ・アタック25」が終了した。
ついに46年半続いた「#アタック25」が最終回。
— らくはく (@rakuhaku1853) 2021年9月26日
第1回と最終回のテレビ欄、スタジオの様子をアップ。
第1回は電球のパネルだったのが、今やCGで表示されるようになったのは、やはり時代の流れを感じさせます。
第1回放映の1975年4月6日当時のテレビ欄には、「ペネルクイズ」と誤植されていた。 pic.twitter.com/ZbvHNzZw4Q
上記ツイートの主は「大学院博士前期課程修了。専門は近世災害史、近現代のメディア史・芸能史」とのこと。ということは20代の若い方で、「ペネルクイズ」は研究の対象に含まれるようだ。
貼り付けられた画像は、字体等から判断して朝日新聞東京本社版のテレビ欄からとられたものと思われる。字体が「朝日書体」であることは一目でわかるし、新番組を表す記号が黒地に白抜きの「新」の字であることから東京本社版だと認められる。1975年の時点では、朝日の大阪本社版のラテ欄で新番組を表す記号は「(新)」だった*1。なお朝日をはじめとする全国紙の縮刷版は東京本社版を用いて作られる。たとえ大阪で縮刷版を購入しようが、収録されているのは東京本社発行最終版だ。アタック25は大阪・朝日放送の番組だから、いくらなんでも朝日新聞大阪本社版では「ペネルクイズ」の誤植はなかったのではなかろうか。
同じ方のツイートより。
今日で1975年から続いた「#アタック25」が幕を閉じました。
— らくはく (@rakuhaku1853) 2021年9月26日
そのほか日曜日に放送されている、昭和から続く長寿番組に「#笑点」(1966~)、「#サザエさん」(1969~)、「#遠くへ行きたい」(1970~)、「#新婚さんいらっしゃい!」(1971~)があります。
これらの番組には長く続いてほしいものです。 pic.twitter.com/aSPK67wlJg
実は「パネルクイズ・アタック25」も「サザエさん」も、その第1回をリアルタイムで見た記憶がある。両番組の開始には6年の時の隔たりがあるが、前者は中学生時代、後者は小学生時代に見た。「オバケのQ太郎」(1965-67)はモノクロだったし、「魔法使いサリー」(1966-68)は最初期のみモノクロだったが、「サザエさん」は最初からカラーだった。以前にも書いたことがあるかもしれないが、70年代後半のある時期、とうに時代遅れになった白黒テレビを見ていた時期があり、当時腹が立ってしかたがなかった番組が「パネルクイズ・アタック25」だった。白のパネルは間違いようがないのだが、緑と青だったか、白黒テレビでは色の区別がつかないパネルがあったためだ。
その「パネルクイズ」がやはり大阪の毎日放送(MBS)が制作していた「アップダウンクイズ」(1963-85)と同じ人物が手がけた番組だったことは、今回初めて知った。
「近鉄パールクイズ」をテレビ版にアレンジしたのが、あの「#アップダウンクイズ」(#毎日放送)。
— らくはく (@rakuhaku1853) 2021年3月9日
両番組とも #堤章三 という方が構成を担当していた。堤さんはあの「#アタック25」の生みの親。「パールクイズ」が無かったら、日本の放送メディアにクイズ番組というジャンルはなかったかもしれない。 https://t.co/3qBHhPdxJO pic.twitter.com/jCDVs6ezJY
「アップダウンクイズ」は小学校に上がる前からゴンドラが上がったり降りたりするのが面白くて好きだった。もちろんその年齢だとクイズ自体は全くわからなかったが。その後もずっと見ていて、ある時、問題を読み上げ役がが佐々木美絵さんという若い女性に代わったことも覚えている。彼女はMBSの局アナだったが、現在はもう70歳だ。
この番組にプロ野球・阪急ブレーブスの加藤秀司(のち英司)選手が出場したものの1度もボタンを押して答えることなく終わり、それがきっかけで「アホの加藤」と呼ばれるようになった。このことは弊ブログで12年前の2009年*2に記事にしたことがあって、今でも「アップダウンクイズ アホの加藤」でググると弊ブログのエントリが上位で表示される。
しかし、「アップダウンクイズ」の前進が「近鉄パールクイズ」なるラジオのクイズ番組だったとは全く知らなかった。局アナの小池清は、このラジオ番組でも途中から司会を務めていたらしい。
堤章三なる放送作家も知らなかった。1922年大阪生まれで東大文学部心理学科を卒業すると大阪に戻って梅田劇場舞台監督を経て新日本放送入りした。この新日本放送というのは毎日放送の前身だ。大阪で最初のテレビ局である大阪テレビ放送は、新日本放送、朝日放送、朝日新聞社、毎日新聞社の合弁で設立されたという。朝日・毎日連合軍だったわけだ。のちに近鉄バファローズは朝日放送、南海ホークスは毎日放送、阪急ブレーブスは関西テレビという棲み分けができるが(阪神タイガースは読売テレビを含むどの系列にもオープンだった)、「近鉄パールクイズ」はプロ野球と直接の関係がなかったためか、朝日放送ではなく新日本放送の番組になった。
堤章三は2009年に86歳で死去したが、「アップダウンクイズ」の司会者を勤めた毎日放送アナウンサーの小池清は2012年に80歳で死去した。そしてその前年の2011年には「パネルクイズ・アタック25」で番組開始から同年まで司会を務めていた俳優の児玉清が77歳で死去した。児玉は晩年右翼文化人として名を売り、百田尚樹の小説なども売り込んでいたのでイメージが悪化していったが、それでも「パネルクイズ」の司会は見ものだった。
子どもの頃から、クイズ番組は東京発と大阪発が半々くらいで、大阪発がずいぶん目立つなと思っていたが、堤章三はその原動力だったようだ。
私は大学に上がった頃から、クイズ番組で正解をたくさん答えられたって何の意味もないよなあと思うようになり、ほとんど見なくなったが、「パネルクイズ」が終わると知って、今月に入ってからは何度か見たのだった。最終回は放送枠が拡大されていつもより早く始まることを知らなかったので最初の方は見なかったが後半は見た。とはいっても、熱心に見たわけではなく他のことをしながら時折画面を見る程度だった。率直に言ってクイズ番組は「オワコン」だと思う。
ただ、一時は数多かったクイズ番組の中では特に目立たない部類と思われた「パネルクイズ」が46年も続き、気づいてみればかつて長寿番組とされた「アップダウンクイズ」の倍以上の長寿を全うしようとは、番組の第1回を見たときには想像もできなかった。なにしろ、「アップダウンクイズ」が終わった1985年10月からもう36年も経つのだ。あの年のあの月には阪神タイガースが神宮球場でリーグ優勝を決めたが、その試合は引き分けだった。それから36年間「パネルクイズ・アタック25」の放送はずっと続いた。この事実には驚かされる。よく続いたものだ。なお阪神は前回の東京五輪があった1964年にもリーグ優勝している。ちょっと嫌なめぐり合わせが重なっているが、まあ読売が阪神に連敗して自力優勝が消えたらしいから、今日はそれを喜んでおくことにしたい。29年前と今年の共通点って何かあるだろうか。
*1:1979年に朝日新聞大阪本社が火事に遭った時、記事の一部が一時東京本社から電送された時期があって、ラテ欄もそれに含まれた。この時に大阪本社版のラテ欄でも新番組の記号が黒地に白抜きの「新」の字になり、復旧して再び大阪で活字が組まれるようになってからもそのままになったと記憶する。
*2:2009年といえば、当時のヤクルト監督が元読売の高田繁だったため、私はヤクルトの応援を休業していた。高田は翌2010年の交流戦の最中だったかに、ヤクルトの不振があまりにもひどかったために休養に追い込まれ、小川淳司が監督代行として指揮を執ったところ、成績が急上昇して一時はAクラスを窺える位置にまで躍進した。その年に東京に移住していたこともあって、「郷に行っては郷に従え。但し読売はその限りに非ず」という昔からの方針に従って、久し振りにヤクルトを応援することにした次第。