kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

伊藤広剛氏の「小川淳也は長嶋茂雄に似て計算高い」との指摘がツボにはまった

 立民代表選に2〜4位連合の構想があったのではないかとの話について。

 

 

 

 

 現実の得票数を見れば、2〜4位連合の成立にはほど遠かったことは明らかだ。しかしながら、2〜4位連合の構想があり、それに小川淳也自身が絡んでいた可能性はかなり高いと思う。なぜそう思うかというと、ブログには一切書かなかったけれども、小川陣営の立場に立って物事を考えると、この「2〜4位連合」の構想は容易に思いつくことだし、現に私自身がその可能性を推測していたからだ。ことに、告示ギリギリの段階で小川の推薦人が集まった時、ああ、やっぱりそういう構想があったのかもなと思ったくらいだ。

 これがうまく機能しなかったのは、最初に小川に投票した人たち(旧希望・旧民民の国会議員に代表される人たち)に、旧立民にして枝野幸男の流れを引き継ぐ一番手と見られていた逢坂誠二に対する忌避感があって、そのために彼らが決選投票でこぞって泉健太に投票したためだ。これは国政選挙の「野党共闘」で共産支持者が立民の候補に投票する割合と比較して、立民支持者が共産に投票する割合が極めて低いこととよく似ている。だから、決選投票が泉と逢坂に決まった段階で、決選投票は泉の圧勝だろうと想像したし、結果はその通りになった。

 小川については、下記伊藤広剛氏寸評が正鵠を射ていると思う。

 

 

 

 この「小川淳也長嶋茂雄」論は面白いし、それはいえる、と強く共感した。

 1994年の「10・8」は思い出したくもないし、ヤクルトが読売を4対1とリードしながら逆転負けした東京ドームでの最終戦(同年10月2日)は今思い出しても無念だが(落合博満の決勝2ランにやられたんだよね)、「10・8」の試合前の時点で私は読売の優勝を確信していた。中日に勝つ目があるとは全く思えなかった。

 というのは、ヤクルトが読売を転かし損ねた直前に、中日の高木守道監督が記者団の前で右の掌を自らの首に当てる仕草をして自らの解任が決定していることを匂わせたり、せっかく今中慎二郭源治の先発とリリーフの役割を入れ替えて総力戦で望むかに見えたローテーションを、最終戦を前にして元に戻すなど、最終戦に向けての「形を整える」ことをやり始めたからだ。

 しかし長嶋は高木とは全く異なり、最終戦には勝つことしか考えなかった。例の憎たらしい「勝つ、勝つ、勝ーつ」という決めゼリフがすべてを象徴している。当時の読売には斎藤、槙原、桑田の3本柱がいたが、救援では役に立たず、直前の神宮での対ヤクルト最終戦でも敗戦投手になっていた槙原を先発させ、一番実力のある斎藤に中盤を任せ、度胸では随一の桑田で締めくくった。長嶋の投手リレーは、この試合に限っては完璧だった。一方の高木は、郭も山本昌もベンチに入れていたのに、救援に野中徹博を使ってNHKラジオで解説をしていた星野仙一に「郭も山本もいるのになぜ野中なのか」と激怒させた。私は星野は大嫌いだが、この件に関しては星野の言い分に理があると認めざるを得なかった。

 徹底して勝ちにこだわった長嶋と、自らが絞首刑に処される前の準備をしたとしか思えなかった高木。これでは同じ状態で何度試合をやり直しても読売が勝つに違いないと思った。そしてこの試合結果がプロ野球の発展を10年遅らせた*1。なお、自らの死に支度をしたはずだった高木守道が、態度を豹変させた中日球団の慰留に応じて留任したのは実にみっともなかった。その結果1995年の中日は最下位を一時独走し、高木は辞任した*2

 「10・8」に負けた方の話はともかく、「小川淳也長嶋茂雄」論は、少なくとも私にとっては強い説得力があった。そういえば、立民代表選の最中、小川淳也はかつて読売を応援していたと言っていた。私にとっては「エネミー」である。一文字違うだけの小川淳司とは中身はえらい違いだ。

*1:それからちょうど10年後の2004年に球界再編騒動が起き、オリックス近鉄を吸収合併して楽天球団が新たに誕生したのだった。

*2:しかしその1か月後にやはりシーズン途中に中村勝広監督が辞任した阪神が中日をも下回る成績で最下位に落ちたので、中日は5位止まりだった。この年の中日と阪神は、「セ・リーグは試合前から結果がわかっている試合が2試合もあるから白けるんですよね」と、ニュースステーションのキャスター・久米宏に酷評されていた。久米は広島ファンを公言していたが、中日と阪神があまりにも弱いために2位広島が首位ヤクルトとの差をいっこうに縮められないことに苛立っていたに違いない。