kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「崩壊と混沌の時代」における立民と朝日新聞の迷走

 今年の衆院選の結果とその後の諸政党及びマスメディアの動きなどを見ていて、崩壊の時代か混沌(カオス)の時代かわからないが、現実に収縮しつつある国における住民が、自らが生き延びるための闘いを余儀なくされている状況で、各政党がどのような人たちに選択されるかに関して、少なくとも私には「もっとも好ましくない」としか思えない選択がされつつある憂慮すべき状態であるように思われる。

 まず日本社会の現状認識については「椅子取りゲーム」が現に行われている最中の社会だと見るほかないだろう。

 自民党は、その「椅子取りゲーム」を押しつける側のエスタブリッシュメント層のための階級政党だ。公明党は、その補完勢力にして「困っている人たち」を自民党に従わせるための政党といえる。

 今回「躍進」した維新は、「椅子取りゲームに勝ち残れ」と煽る政党だが、見かけ上「既得権益」をターゲットにするポーズをとっていることで、「既得権益」の受益者たちを追い落として、層でない人たちが「椅子取りゲーム」に勝ち残ることを助けてくれるかもしれないと錯覚した人たちからの支持を取りつけてしまった。かつて爆発的なブームを起こした2012年の衆院選で獲得した議席数よりは少ないが、風任せの当時と比較して土台はむしろ強固になっている。これは絶対に侮れないことで、きわめて憂慮すべき事態だ。私は今回の選挙結果を受けて「維新主要打撃論」に立つことを決めた。従って、立民に多く、民民に至っては政党丸ごとがそうである「維新にすり寄る政治家」に対する評価は極めて厳しくなる。

 ここで立民や共産や某組の話に移る前に朝日新聞の話をすると、幼い頃に最初に家で新聞に接した時から最後に自宅に新聞が配達された2018年4月までの人生のうち3分の2ほどの期間に読んでいたこの新聞が「民主党化」したと魚住昭に喝破されてからさらに20年ほどが経った今、明らかに朝日新聞は「維新化」しつつあるように思われる。

 思い返すと、民主・民進系の支持層の主力は「団塊の世代」だった。それより下の年齢層になるほど「保守化」が強まり、それは30〜40代でピークに達する。民主党野党第一党の地位を固めた頃の新聞社の管理職は団塊の世代だったから朝日新聞が「民主党化」し、維新の支持が最も厚い年代の人たちが新聞社内で指導的立場に立ちつつあるから朝日新聞が「維新化」していると解するのがもっとも自然だろう。

 民主・民進系のうち立民の退潮または伸び悩みは、「椅子取りゲーム」において椅子にしがみつこうとしているための政党だとのイメージを無党派層の多くが持っていることによるものではないか。階級の上中下でいえば「『中』にしがみつきたい人々のための政党」というイメージだ。団塊の世代といえば「猛烈サラリーマン」のイメージがあり、会社(企業)においてはトップになれるのはごく一握りだから、正社員の大部分は「中」になる。しかし、非正規雇用の拡大とともにその層は細りつつある。

 よく「保守にウイングを広げなければダメだ」という議論があるが、いわゆる「右」と「左」というのは誤解を招きやすい表現だ。実際に民主系の政党が伸びないのは「『下』にウイングを広げていない」からであって、それは民主系の政党が経済軸上で「右」に寄り過ぎているからである。経済軸上の「右」には、最右翼の維新と、それよりは少しだけ左の自民がどっしり居座っているので、2005年に前原誠司がやろうとしたような「カイカクを競う」方向性をとろうとしても自滅するだけなのだ。ただ、経済軸上の左側には共産と社民という2つの政党があり、うち社民は零細政党になってしまったから主力は共産だ。立民と共産がうまく棲み分けして「野党共闘」を機能させるためには、立民が経済軸とは異なる座標軸での特色を強く打ち出す必要があろう。それを何にするかが問題だが、ジェンダーや気候変動などいろいろな切り口があろうが、うち気候変動については、原発との絡みが問題になる。気候変動対策のためと称して立民が「原発容認」に走るようなことがあるなら、少し前に黒川滋(くろかわしげる)氏がTwitterで懸念していたと記憶するが、立民は大きく(劇的に)党勢を落とす可能性がある。旧希望の泉健太には原発容認の傾向もあるようだから、原発問題に関する泉の言動には監視が必要だろう。

 では「右翼とは何か」というと、内と外という座標軸において「内」を指向し、「外」に対しては戦争も辞さないという政治勢力を指す。従って、「台湾有事は日本有事だ」と叫ぶ安倍晋三は典型的な右翼であるといえる。右翼は大体において経済政策には興味がない。ただ、安倍や麻生太郎のようなかつての総理大臣の子孫にとっては「下に厚い政治」などもってのほかだから、彼らは「反左翼」になるわけだ。つまり、内か外かでは『内』を指向し、上か下かでは「上」を指向するのが安倍や麻生、それに高市早苗自民党内の極右政治家たちだといえる。

 経済軸上では「左」だが、内か外かでは「内」を指向する政党といえるのが某新選組だ。つまり「左翼であり右翼である」政党。左翼とは上か下かの選択で「下」をとり、右翼とは内か外の選択で「内」をとる。かつて「喜八」が「『右』も『左』もない。オレは『下』や」とブログのタイトル直下でうたっていたが、そのキャッチフレーズにもっとも近い政党が新選組であるといえる。私はこの政党(組)を支持しないが、この政党は、内か外かで「内」を指向しがちな点で維新と明らかに支持層が被るから、維新の虚像を暴いて維新から支持を奪うポテンシャルを持っている。民主系政党においては、もともと別系列にいた小沢系以外は必ずしも強くない民族主義的傾向が強いから、同党(組)が維新との対立姿勢を強めるのであれば、それは大いに歓迎したい。その点で大石晃子には大いに期待できる一方、山本太郎は必ずしもあてにはならないというのは繰り返し指摘している通りだ。

 共産党は「上」か「下」かで「下」をとる点では安定しているが、かつて1980年頃まで「愛国者の党」を標榜していたことからわかる通り、「内」か「外」かで「内」をとる民族主義的な傾向が、少なくとも歴史的には存在していた。今もおそらくその残渣は残っているだろう。そのあたりが民主系との「棲み分け」のヒントになるのではないか。

 たとえば、中国は現在習近平が強権的な姿勢を強めている。共産党がこれを強く批判するのは当然だ。しかし、自民党安倍晋三高市早苗らが中国を挑発している現在、立民が安易に「バスに乗り遅れるな」とばかりに安倍晋三の後押しをするようなことがあってはならない。野党第一党として指向すべきは「中国を『無毒化』する」方向性だろう。筋論として中国の強権化を批判する役割は共産党に任せ、中国の毒をいかに弱めるかの現実的な努力を立民が主に行うなどの合理的役割分担が求められる。

 しかし泉健太はどうだろうか。以上述べた点について、泉はことごとく私が好ましいと思う方向性とは逆方向に動くのではないかと思えてならない。

 なお、憲法の明文改憲については、岸田文雄安倍晋三以上に危険だ。これは安倍が総理大臣ではないことと強く関連している。安倍は、実際に総理大臣だった時に解釈改憲を大きく進めたが、自身の権力の座を保つためにはリスクが大きすぎる明文改憲には踏み切れなかった。しかし総理大臣でなくなった今は好き勝手なことが言えるから、岸田に強い圧力をかけ続けている。2012年に総理大臣に返り咲く前の谷垣禎一総裁の頃に似ているといえる。あの悪名高い自民党の第二次会見草案は2012年にできた。

 前述の北京冬季五輪ボイコット問題でも、本心ではアメリカよりヨーロッパに近い立場に立ちたい岸田にボイコットの圧力をかけているのが安倍や高市だ。私は五輪自体は将来的に止めるべきだと考えているが、北京冬季五輪のボイコットには反対だ。そういえば1980年にモスクワ五輪をボイコットした時の総理大臣は宏池会大平正芳だった。モスクワ五輪には当時の西ドイツやスウェーデンアメリカと歩調を合わせてボイコットしたが、多くの西欧の国やイギリスなどは参加した。泉はこの件で安倍と同じ側に立つべきではない。