kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「ポル・ポト擁護」に関しては、本多勝一よりも社民連・田英夫の方がはるかに罪が重かった

 まことん氏のツイートより。

 

 

 週金、今はそんな状態なのか。あちゃあ、って感じだな。

 まあ編集委員雨宮処凛中島岳志を抱えてるからそうなっても不思議はないとは思うけど。

 

 

 それはどうかな。創業者の本多勝一には民族主義的なところが昔からあったし、なんたって本多は2005年には小沢一郎と意気投合したからね。その本多が創設した週金編集部全体にもそういう体質が以前からあったと思う。

 そういえば、現在の山本太郎に対する一部の人たちの熱狂のルーツは明らかにオザシンだよ。小沢もオザシンにとっては神聖不可侵だった、そして、新左翼からオザシンに転んだ人間なんかネットにはウヨウヨいた。彼らは共産党を「日共」と呼んで目の敵にしていた。「雑談日記」のブログ主あたりが代表格だったかな。

 

 

 あはは、確かに間違ってないw

 

 

 私は、山本太郎が2013年に当時天皇だった明仁氏に「直訴」したり、2019年に新元号を党名に冠したりしたことを週金の編集部が不問に付した(に違いない)態度を問題にしたい。かつての本多勝一は戦後の日本について書くのに元号は決して用いなかった*1。戦前の日本を記述する時に「西暦(元号)」という年数表記をするにとどめていた。ネトウヨ天皇天皇家を屁とも思わなくなった現在、「リベラル・左翼」がなぜ天皇天皇制を批判できないのか不思議でならない。

 

 

 

 上記のツイートには大きな事実誤認がある。まず『買ってはいけない』は本多勝一の初期などではない。調べてみるとパート1の出版は1999年で、最後のパート10は2014年だ。しかも、金曜日の書籍ではあるが本多勝一は著者ではない。

 また、ポル・ポトの件についていえば、本多がポル・ポトを弁護する文章を書いたのは1975年か76年頃だったはずだが、当時ポル・ポトが犯した大量虐殺はほとんど知られていなかった。そのため本多はその情報を信頼できない反共宣伝と決めつけたものと思われるが、本多がポル・ポトを擁護したのはこの時のただ一度だけだった。そして1978年にカンボジアでの大虐殺の実態を本多の同僚だった朝日新聞プノンペン特派員の井川一久が報じ始めると、本多は井川を後押しするとともに自らが過去に犯した誤りを認めたのだった。

 ポル・ポトが犯した大虐殺が広く知られるようになったのは、井川が朝日にルポを載せ始めたあとの1978年末から翌79年初めにかけてベトナムカンボジアに侵攻し、ポル・ポト政権を打倒してからのことだ(ヘン・サムリン政権を樹立)。しかし、このベトナムカンボジア侵攻をめぐっては左派・左翼内で意見が分かれた*2。中でも社会党社民連親中派ポル・ポトを擁護したことに、私は大いに失望させられた。ことにがっかりさせられたのは田英夫である。田英夫 - Wikipedia を見ると、

民主カンプチア支援[編集]

1980年4月に発足した「カンボジア救援センター」の事務局長に就任、8月には民主カンプチアの支配地域に入り、キュー・サムファン首相と会談した。その際、キュー・サムファン首相が語ったことばをそのまま信用し、「(ポル・ポト派による)大虐殺はベトナムの宣伝に過ぎない」と主張していた。[10]

と書かれているが、この記述の出典として明記されているのが本多勝一の『虐殺と報道』(すずさわ書店, 1980)だ。つまり、ポル・ポト擁護に関しては本多勝一などよりも社民連社会党の非社会主義協会系の方がずっと罪が重かったのである。本多はむしろ早い時期に自らの誤りを認めた人だった。なお、社会党内の社会主義協会は親ソ系だったので中国を後ろ楯としたポル・ポトの擁護などしなかったが、その代わりに1979年末のソ連アフガニスタン侵攻を向坂逸郎らが擁護した。どっちもどっちだったというほかない。これらの点にかけては早くからソ連とも中国とも袂を分かった共産党の「宮本路線」の方が先見の明があった*3

 ネット検索をかけると『朝日ジャーナル』1979年1月26日号に木村哲三郎、井川一久、本多勝一の3名を著者名とする「ベトナムの侵略かカンボジアの自壊か」という論文が掲載されていたことがわかる*4。この論文を読んだことはないが、結論が間違いなく「カンボジアの自壊」であることは、当時井川一久が朝日新聞に載せたルポを何件も読んだ記憶がある私には断言できる。そしてそれは決してリベラル・左派・左翼の共通認識などではなかったことは、前記田英夫の例から見ても明らかだろう。

 そうそう、少し前に侵略行為に多少なりとも正当性がある例として、弊ブログはこの時のベトナムカンボジア侵攻を例として挙げたのだった。もちろんこれがロシアのウクライナ戦争とは全く様相を異にすることはいうまでもない。ウクライナ戦争においては侵略したプーチンの方が侵略されたウクライナのゼレンスキーよりもずっとポル・ポトとの距離が近い。そのプーチンへのシンパシーを隠せないのが安倍晋三橋下徹山本太郎である。

 

 

 そんなわけで、「ポルポトの件」ではホンカツよりも社民連社会党の方がずっと罪が重かったという「不都合な真実」を書かないわけにはいかないと考え、本記事を公開した次第。

*1:しかし最近読んだ本多の『アムンセンとスコット』では、「1986年(昭和61年)」と書いたり、日本ではなくノルウェーやイギリスや南極の話なのに江戸時代から明治時代にかけての年数表記に括弧内で元号を併記するなどしていた。本多がこの本を書いた1986年には彼の劣化が既に始まっていたとみるべきかもしれない。

*2:プノンペン陥落の1か月あまり後の1979年2月、中国が「暴越膺懲」とばかりにベトナムを侵攻した。これは全く筋の通らない大国の横暴だったが、当時はこの2例の侵攻を「どっちもどっち」と評する意見が多数派だった。

*3:北朝鮮でも社会党には同国のシンパが少なくなく、ある時期から北朝鮮を厳しく批判し続けた共産党とは鋭い対照をなした。

*4:https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I1987028-00