まことん氏のツイートより。
「週刊金曜日」だの「マガジン9」だのの界隈が、特定政党やその党首に「感動」を明け透けに語るさまを見てると、かつて件の界隈に期待を寄せ、「週金」の定期購読をしていた身としては、幻滅を覚えますね。
— まことん @ロシア軍はウクライナから撤退せよ!プーチンに法の裁きを! (@makotonch) 2022年6月13日
週金、今はそんな状態なのか。あちゃあ、って感じだな。
まあ編集委員に雨宮処凛と中島岳志を抱えてるからそうなっても不思議はないとは思うけど。
あの辺の左派って英雄待望論を批判していたはずなんだけどな。ミイラ取りがミイラじゃないけど、先の見えない状況につかれて、藁をもすがる思いで山本太郎にとびついだんだろう。いずれにせよ、ここ数年で左派元老ん界隈に対する信頼感は雲散霧消してしまった。 https://t.co/5jkbQaxZys
— あかかもめ@💙💛万系一世ムミーン (@ydfbIDp2xc2titA) 2022年6月13日
それはどうかな。創業者の本多勝一には民族主義的なところが昔からあったし、なんたって本多は2005年には小沢一郎と意気投合したからね。その本多が創設した週金編集部全体にもそういう体質が以前からあったと思う。
そういえば、現在の山本太郎に対する一部の人たちの熱狂のルーツは明らかにオザシンだよ。小沢もオザシンにとっては神聖不可侵だった、そして、新左翼からオザシンに転んだ人間なんかネットにはウヨウヨいた。彼らは共産党を「日共」と呼んで目の敵にしていた。「雑談日記」のブログ主あたりが代表格だったかな。
左派元老ん界隈に対する信頼感 ×
— あかかもめ@💙💛万系一世ムミーン (@ydfbIDp2xc2titA) 2022年6月13日
左派言論界に対する信頼感に訂正。元老界隈はあながち間違ってないかも
あはは、確かに間違ってないw
左派というか、真摯に反戦平和や社会問題を世に問うてきた「文化人」の方々が、未だに山本太郎氏や「れいわ」を無批判に持ち上げている様。彼らに「内閣不信任案は茶番」という立場性はどう映り、どう捉えているのか。真剣に問い質したい思いがします。 https://t.co/OLMCLBq242
— まことん @ロシア軍はウクライナから撤退せよ!プーチンに法の裁きを! (@makotonch) 2022年6月13日
私は、山本太郎が2013年に当時天皇だった明仁氏に「直訴」したり、2019年に新元号を党名に冠したりしたことを週金の編集部が不問に付した(に違いない)態度を問題にしたい。かつての本多勝一は戦後の日本について書くのに元号は決して用いなかった*1。戦前の日本を記述する時に「西暦(元号)」という年数表記をするにとどめていた。ネトウヨが天皇や天皇家を屁とも思わなくなった現在、「リベラル・左翼」がなぜ天皇や天皇制を批判できないのか不思議でならない。
営業の立場として、背に腹は変えられないので流行りに飛びついたという事。結局、神輿と同じレベルになってしまった。ある意味軽薄。
— KEITAROU1212 (@keitarou1212) 2022年6月13日
『良き支持者、理解者は、良き批判者であれ』この原則を忘れてしまった、自称文化人や評論家、そして左派文壇、週刊金曜日文化人たち…。 https://t.co/dRgTmPekBJ
社会主義名乗っていれば、ポルポトでもいい人でした、本多勝一は。
— 日光仮面💙💛 💉💉💉 (@nikkokamen66) 2022年6月13日
初期の『買ってはいけない』から陰謀史観まみれでしたね。Yパンの大量生産品は臭素酸カリウムを使っているなど。
上記のツイートには大きな事実誤認がある。まず『買ってはいけない』は本多勝一の初期などではない。調べてみるとパート1の出版は1999年で、最後のパート10は2014年だ。しかも、金曜日の書籍ではあるが本多勝一は著者ではない。
また、ポル・ポトの件についていえば、本多がポル・ポトを弁護する文章を書いたのは1975年か76年頃だったはずだが、当時ポル・ポトが犯した大量虐殺はほとんど知られていなかった。そのため本多はその情報を信頼できない反共宣伝と決めつけたものと思われるが、本多がポル・ポトを擁護したのはこの時のただ一度だけだった。そして1978年にカンボジアでの大虐殺の実態を本多の同僚だった朝日新聞プノンペン特派員の井川一久が報じ始めると、本多は井川を後押しするとともに自らが過去に犯した誤りを認めたのだった。
ポル・ポトが犯した大虐殺が広く知られるようになったのは、井川が朝日にルポを載せ始めたあとの1978年末から翌79年初めにかけてベトナムがカンボジアに侵攻し、ポル・ポト政権を打倒してからのことだ(ヘン・サムリン政権を樹立)。しかし、このベトナムのカンボジア侵攻をめぐっては左派・左翼内で意見が分かれた*2。中でも社会党や社民連の親中派がポル・ポトを擁護したことに、私は大いに失望させられた。ことにがっかりさせられたのは田英夫である。田英夫 - Wikipedia を見ると、
民主カンプチア支援[編集]
1980年4月に発足した「カンボジア救援センター」の事務局長に就任、8月には民主カンプチアの支配地域に入り、キュー・サムファン首相と会談した。その際、キュー・サムファン首相が語ったことばをそのまま信用し、「(ポル・ポト派による)大虐殺はベトナムの宣伝に過ぎない」と主張していた。[10]
と書かれているが、この記述の出典として明記されているのが本多勝一の『虐殺と報道』(すずさわ書店, 1980)だ。つまり、ポル・ポト擁護に関しては本多勝一などよりも社民連や社会党の非社会主義協会系の方がずっと罪が重かったのである。本多はむしろ早い時期に自らの誤りを認めた人だった。なお、社会党内の社会主義協会は親ソ系だったので中国を後ろ楯としたポル・ポトの擁護などしなかったが、その代わりに1979年末のソ連のアフガニスタン侵攻を向坂逸郎らが擁護した。どっちもどっちだったというほかない。これらの点にかけては早くからソ連とも中国とも袂を分かった共産党の「宮本路線」の方が先見の明があった*3。
ネット検索をかけると『朝日ジャーナル』1979年1月26日号に木村哲三郎、井川一久、本多勝一の3名を著者名とする「ベトナムの侵略かカンボジアの自壊か」という論文が掲載されていたことがわかる*4。この論文を読んだことはないが、結論が間違いなく「カンボジアの自壊」であることは、当時井川一久が朝日新聞に載せたルポを何件も読んだ記憶がある私には断言できる。そしてそれは決してリベラル・左派・左翼の共通認識などではなかったことは、前記田英夫の例から見ても明らかだろう。
そうそう、少し前に侵略行為に多少なりとも正当性がある例として、弊ブログはこの時のベトナムのカンボジア侵攻を例として挙げたのだった。もちろんこれがロシアのウクライナ戦争とは全く様相を異にすることはいうまでもない。ウクライナ戦争においては侵略したプーチンの方が侵略されたウクライナのゼレンスキーよりもずっとポル・ポトとの距離が近い。そのプーチンへのシンパシーを隠せないのが安倍晋三や橋下徹や山本太郎である。
まあ、そのポルポトの件、後に批判されましたね。結局、私も後に、ホンカツ氏の著述から距離を置きましたが。「買ってはいけない」は、まあ極端過ぎましたね。
— まことん @ロシア軍はウクライナから撤退せよ!プーチンに法の裁きを! (@makotonch) 2022年6月13日
そんなわけで、「ポルポトの件」ではホンカツよりも社民連や社会党の方がずっと罪が重かったという「不都合な真実」を書かないわけにはいかないと考え、本記事を公開した次第。
*1:しかし最近読んだ本多の『アムンセンとスコット』では、「1986年(昭和61年)」と書いたり、日本ではなくノルウェーやイギリスや南極の話なのに江戸時代から明治時代にかけての年数表記に括弧内で元号を併記するなどしていた。本多がこの本を書いた1986年には彼の劣化が既に始まっていたとみるべきかもしれない。
*2:プノンペン陥落の1か月あまり後の1979年2月、中国が「暴越膺懲」とばかりにベトナムを侵攻した。これは全く筋の通らない大国の横暴だったが、当時はこの2例の侵攻を「どっちもどっち」と評する意見が多数派だった。
*3:対北朝鮮でも社会党には同国のシンパが少なくなく、ある時期から北朝鮮を厳しく批判し続けた共産党とは鋭い対照をなした。