kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

安倍晋三の死で、日本政治の戦前や冷戦時代への回帰志向の反動的な流れと訣別するきっかけはつかめた。今後の20年代日本政治の最大の課題は「新自由主義との訣別」だ。泉健太の動きはこれに反している

 また「ガフの息子」がやっちまったな、とか、なんだ、先頭打者のヒットのあとはノーヒットノーランかよ、とか、そういえば4年前はCSで菅野にノーノーやられて終わったんだよな、とか、3年前には16連敗したんだよな、などと思い出してはいたものの、いくら長年負けには慣れているとはいってもやはり大いに凹んだ昨夜だが、応援していないチームへの悪口の記事を書いたから罰が当たったのかもしれないなと思いつつ*1、今年7月8日以降の政治の激変について書くことにする。

 この激変は、当たり前だが安倍晋三が銃殺された事件から始まった。山上徹也の銃弾が文字通りトリガーになった。トリガーとは引き金という意味だが、転じて物事を引き起こすきっかけという意味にも使われる。山上徹也は結果的に日本の政治を変えるトリガーをかけたといえる。

 あの安倍の殺害で日本の政治の惰性で動いているかに見えたある方向性を持つ流れが止まった。その方向性とは戦前の日本や冷戦構造の流れとの継続性を守ろうとするものだが、何も惰性で動いていたのではなく、安倍晋三を頂点とする政治勢力が圧力をかけ続けてきたからつい最近まで続いてきたに過ぎなかった。圧力をかける親玉がいなくなってしまえば、統一教会がやってきたことを容認できる人々など、ほんの一握りしかいない。テレビのワイドショーがいつまでも統一教会の話題を取り上げ続けるのは、統一教会は許せないと思う視聴者が多数派だからだ。

 岸田文雄は、安倍晋三国葬を強行してしまえばそれが既成事実になって人々の批判は弱くなると高をくくっていたと思われるが、それはあまりにも甘かった。メディアは安倍晋三という実質的な影の最高権力者が影響力を行使して潰されるのが嫌だったから批判を控えていただけであり、その安倍がいなくなって、かつ視聴者のニーズもあるんだったら批判を続けるに決まっている。岸田とはそんなことも想定できない無能な政治家だったのかと呆れるばかりだ。

 統一教会および同教会と自民党との癒着は今後もずっと追及されなければならないが、それは可能だろう。それは統一教会自民党のあり方が人々の公憤を誘起するものだからだ。銃撃事件3日後に発信された下記ツイートは示唆的だ。

 

 

 ただ、公憤とは個人の感情を指す言葉ではない。山上の犯行は公憤を誘起する目的で行われたものだが、あくまでも動機は私怨だったと言わなければならない。

 これを、事件直後のマスメディアは「民主主義への挑戦」と評したし、野田佳彦が国会で行った安倍晋三への追悼演説でもそのような位置づけをしていたらしい。それは間違いではないが、山上にあのような凶行をさせるように仕向けたのは、統一教会自民党との関係を報じないようにマスメディアに圧力をかけていた安倍だった。山上はその悪行を知っていたからこそ安倍を狙った。つまり、山上に先立って民主主義に挑戦していたのは安倍晋三自身であり、安倍はその高い代償を支払わされたといえる。野田佳彦は前述の追悼演説で安倍は今後も歴史的審判の対象であり続けなければならないという意味の言葉を述べていたようだが、これは野田とは政治的立場が全く異なり、野田の追悼演説も全体としては評価できない部分が多いと考える私にも高く評価できる部分だった。野田は確かに信念の人ではある。但し彼の信念は私とは相容れない。少なくとも、野田の追悼演説で国論が統一されたとする某氏の意見には、全く同意できない。

 今後の日本についていえば、岸信介に代表される戦前や冷戦時代からの流れで統一教会自民党との癒着を温存しようとする反動的な流れはどんどん細くなっていって滅びる運命にあろう。それまでに自民党が変わることができるかどうかが問われることになる。

 しかし、ここで大きな問題がある。

 今の日本において、前述の戦前や冷戦時代への回帰を志向する反動的な流れが断ち切られるべきであることは言うを俟たないが、断ち切られるべき流れはそれだけではない。

 過去半世紀ほども続いた新自由主義の流れの帰結が国力の低下であるという結論は、もうはっきり見えているのだから、これも断ち切られなければならない。しかし、山上のトリガーはこれに対しては引かれなかった。新自由主義の悪しき流れは今も続いている。

 大阪維新の会及び日本維新の会は、その新自由主義の流れを党全体として体現する政党だ。

 下記ツイートが指摘される通り、その維新が野党色を強めているのは事実だ。

 

 

 しかし、上記ツイートは維新の方向性、特にその経済政策の方向性を考慮していない。「希望の党騒動のトラウマ」がなぜ生じたかの考察を欠いている。

 これまでの維新に特徴的だったのは、2012年に自民党総裁復帰前の安倍晋三の引き抜きを画策したことに代表される安倍晋三との癒着で、もう一つは自民党内でも新自由主義的傾向が強い菅義偉との癒着だった。前者はもともと大阪自民党の人間だった松井一郎、後者は「自助」で成り上がった橋下徹の方向性を反映している。

 維新が野党色を強めた原因は、やはり安倍晋三の銃撃事件だった。菅義偉との癒着についていえば、菅は岸田にとって代わられたのだから、維新がその岸田にいい顔をするわけにはいかない。これらの事情から、7月以降の維新はより新自由主義に特化せざるを得なくなった。

 2010年代には民進党(のちには立憲民主党)と共産党を軸とした「野党共闘」がワークしたが、2020年代には維新を共闘に入れなければワークしないという誤解が一部にあるようだ。例の「私設大本営」氏自身は、ソーシャルなしのリベラルばかりの立民には大いに批判的だ、とするツイートをどこかで発していたと記憶しているので、「維新を『野党共闘』に入れろ」とは全く言っていないと私は認識しているが、維新を共闘に入れよという主張だと誤解されやすいことは確かだ。

 私に言わせれば「自公政権を倒すために維新を利用する」という発想自体が誤りだ。維新を利用しようとすれば、維新の新自由主義的政策を取り込むことになり、それは下手をしたら今の自公政権よりももっとこの国を疲弊させる結果を招く。

 そして、立民支持層にも少なからぬソーシャル指向の人がいるはずであって、2017年の希望の党騒動にもっとも怒り、立民立ち上げを歓迎したのはそのような人たちだっただろう。私が泉健太について一番問題だと思うのは、泉は彼ら*2に平然と挑戦し、彼らの神経を逆撫でする愚挙に出ていることだ。「全員野球」を口にした泉自身が、率先して立民支持層を分断しようとしているというのが私の見立てだ。だからこそ立民は昨年の衆院選の時と比較して、今年の参院選で2〜4割、無党派層に限っては4割以上もの比例票を失ったのだ。前述の通り、ネオリベ政治の悪弊はもう体感できるレベルにまで進んでいるから、ネオリベに傾斜する野党第一党なんて真っ平御免だという人が少なくないに違いない。ほかならぬ私もその一人である。

 下記のツイートなどは、その視点を全く欠いている。全然ダメなツイートの見本だ。

 

 

 しかし、上記ツイートがリンクした「まことん」氏と、それに対する「ねむり猫」氏のツイートは正しい。

 

 

 

 「ねむり猫」氏のツイート末尾の「維新は小泉政権の申し子のようなネオリベで、立憲の路線とは合わない」という部分がポイントだ。昨年の衆院選期間中の党首討論で、今の日本には「まだ改革が足りない」と言っていた松井一郎に対して、維新は未だにそんなこと言ってるのかと思ったが、その維新が躍進した選挙結果には強い衝撃を受けた。ただ、上記ツイートに対しては、「立憲の路線とは合わない」というよりは、「旧立民結党当時の支持者のニーズとは合わない」と言いたいところだ。なんといっても、小泉や橋下とも十分に張り合えるネオリベラリストである小池百合子から「排除」されたのが旧立民の人たちだった。その排除された議員の支持層には反ネオリベの人が多かった。泉は彼らの神経を逆撫でしたのだから、三春充希氏に「愚か者」と指弾されても止むを得まい。何より泉は自分から票を減らしに行っている。自殺行為もいいところだ。

 「まことん」氏に対しては、以前「統一教会自民党との癒着には今さら感がある」とした氏のツイートを強く批判したことがあるし、泉健太に対するスタンスも大いに異なるが、経済政策については共感できる指摘が多い。氏は社民党員であり、私は選挙の比例票では「消去法で社民党に入れる」ことが多いから当然かもしれないが。下記の2件のツイートも良い。

 

 

 

 また、同氏の下記のツイートは特に注目される。

 

 

 「維新」は寧ろ「減税主義」に近い! そこですよ、そこ!!

 少し前にも書いたが、減税はむしろ典型的な新自由主義の政策だ。このことは、自民党衆院議員にして政治的な思想信条では安倍晋三に近く、かつ山本太郎から「総理大臣にしたい」と絶賛された安藤裕もよくわかっており、YouTubeで「新自由主義に基づく大型減税はあり得ない」と断じている。

 

www.youtube.com

 

 この中で安藤は、「減税したらいいってもんじゃない」としてトラスの減税政策を批判している(2分43秒〜)。ジョンソンの法人税増税所得税の累進制強化は正しい政策だった、トラスがお手本にしていたのはサッチャーだったと言っている。

 そのトラスを絶賛したのが例の零細政党の政治塾塾長・長谷川羽衣子だった(長谷川はトラスの辞意表明後慌てて立場を修正したが後の祭り)。長谷川の政治塾での教えは、私が12年前から「減税真理教」とレッテルを貼って批判している名古屋市長・河村たかしの主張と何も変わらなかったに違いないというのが私の推測だ。

 以下、「まことん」氏のツイートをさらにリンクする。

 

 

 

 そうなんだよなあ。1996年の旧民主党も1998年の新民主党新自由主義色の強い政党だった。さらに遡って、1993年の新生党だのその後身の新進党新自由主義政党と位置づけられるべきだろう。

 

 

 でも枝野幸男自身が旧民民の吸収合併を推進し、泉健太を党内に引き入れてしまったからね。旧立民が発足した2017年から私が特に問題視していたのは、「小池百合子さんの背中を眩しく見ていた」蓮舫を、某都会保守氏が前原誠司の秘蔵っ子と適切にも評した山尾(現菅野)志桜里ともども立民に引き入れたことだった。民民の吸収合併はその流れの延長にあり、そのあげくに旧「希望の党」勢(泉健太はその頭目)に党を乗っ取られた。

 私が今後2020年代の政治の課題として位置づけているのは、新自由主義の害毒を断ち切ることだ。そのためには維新に退場してもらうか、あるいは維新に大きく変わってもらうしかない。ここで維新に要求される「変化」は、自民や立民に要求される「変化」よりさらに大きい。こんなことを言う人間は私の他にはほとんどいないと思うが、本気で維新と「共闘」しようというなら、維新に過去40年にわたってこの国に害毒をもたらしてきた新自由主義路線から訣別してもらうほかないと考える。

 しかるに、現在の立民代表・泉健太は維新にすり寄るばかりで、あれでは泉自身が(ブルーリボンバッジをつけて右翼であることを誇示しているばかりか)根っからのネオリベラリストではなかろうかと疑わずにはいられない。

 泉が代表になってからの立民は、かつての民主党結党時に先祖返りして新自由主義色を強めているとの指摘は結構見かける。この指摘は正鵠を射ていると私は思う。

 だから立民は泉を代表から下ろすべきではあるが、その代わりが泉と同様のネオリベである蓮舫なんかであってはならないと私は思うのである。繰り返すが、新自由主義との訣別こそ2020年代の日本の政治の最大の課題であると認識している。

 戦前や冷戦思考との訣別のきっかけは安倍晋三銃殺によって与えられたが、ネオリベとの訣別のきっかけはまだつかめていない。それを、今度こそ人の生命を奪う暴力行為ではなく、言論の力でまっとうにつかまなければならないと思う今日この頃。

 異常に長い記事になってしまった。

*1:しかし、ヤフコメでヤクルト以外のセ・リーグファンがヤクルトを応援しているという書き込みを初めて見たが、それがカープファンだった。私は第3戦で2勝1引き分けになった時に思い出したのは、2016年にマツダ日本ハムに連勝し、2018年には同じくマツダソフトバンクに1勝1引き分けとしたあとの第3戦からそれぞれ4連敗したカープのことだったので、きっと今年のヤクルトの試合ぶりを見ていて身につまされるものがあるんだろうなあと同情した。私は読売や阪神や中日が日本シリーズに出た時にはパを応援するが、広島やDeNAならセを応援するのが基本的な姿勢だ。

*2:ここで「彼ら」と書いたのは、私自身にも共感する部分もあるけれども、それと同時に立民に対する懐疑も旧立民立ち上げ時から一定程度持ち続けてきて今に至るからだ。