kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

共産党の「党首公選」と民主集中制/『村野瀬玲奈の秘書課広報室』、『Everyone says I love you !』及び弊ブログにnanijiro-iさんが寄稿したコメントより

 ブログを運営する側からいえば、「民主集中制」は非常に不人気な議題だ。リベラル・左派系で老舗にしてもっとも人気の高いブログの一つである村野瀬玲奈氏のブログ記事の「ブログ内検索」で調べたところ、2月9日付の下記記事で実に16年ぶりに「民主集中制」の文字列が現れた。

 

muranoserena.blog91.fc2.com

 

 当該記事中で「民主集中制」を検索語にして調べると11箇所出てくるが、うち記事本文に出てくるのは下記のパラグラフだけだ。

 

これに対して、松竹氏は、党首公選制、つまり、党員が直接いきなり複数の候補者から党代表を選ぶような、他党もやっている方式で党首を選ぶべきだと求めているというのが私の理解です。ここで、私の「懸念」の一つは、そのような党首公選制をここまで強く求める理由がわからないということです。現行の方式でも十分に党員の意思は反映されており、逆に、直接党代表を選ぶ他党の方式が絶対的にすぐれているとも断言できないと思います。日本共産党は過去の苦い経験から、この現行方式(民主集中制というのですか)を守っている理由も説明しており、それは、その現行方式に入党希望者が納得して加入するのですから、そのことについて私には違和感はありません。この民主集中制のために党内で自由な議論が無いという主張もよくわかりません。松竹氏がこの現行方式をここまで批判する理由もピンときません。

 

出典:http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-8974.html

 

 また村野瀬氏は下記ツイートを発信している。

 

 

 

 もちろんこういう姿勢が悪いとは言わない。興味や関心のない議題に対する態度は誰だって(もちろん私自身だって)そんなものだ。

 松竹伸幸氏が著書で提起した問題の論点は大きくいって2つあり、1つが党首公選制、もう1つが安全保障政策であり、弊ブログは後者には同意できないとは何度か書いた。しかし私は前者について「党首公選制」自体に対しては中立的な立場だけども、松竹氏の意図が共産党における議論の可視化にあることは著書や氏のブログ記事から明らかなのだから、氏のこの問題提起は高く評価する立場だ。

 なお、やはり名高い宮武嶺氏のブログは村野瀬氏のブログと弊ブログの中間的な立ち位置にあり、下記ブログ記事が公開されている。

 

blog.goo.ne.jp

 

 宮武氏は前記村野瀬氏のブログ記事に下記のコメントをされていた。

 

勉強になりました!

 

村野瀬さん、お邪魔します!

 

党首公選制は大統領制度みたいなもの、今の共産党の選び方は議院内閣制みたいなものってことですよね!

それならどちらが民主的か確かに甲乙つけがたいので、別に松竹氏の主張が特に説得力があるわけではないっていうご主張、めちゃくちゃわかりやすかったです。

僕はそのことに全く気づいていなかったので、さすが村野瀬さん!と感心しました。

 

また、伊勢崎氏の安保研究会のグループの事務局長とかいう役割にも全然気づいていませんでした。

めっちゃいかがわしいですな、松竹氏!(笑)。

 

共産党による除名処分という処分は処世術として拙いどころの問題ではなくこの政党の本質的な弱点だと僕は思っているので、そこは村野瀬さんと意見が違うんですが、松竹氏が共産党を貶める悪意または少なくとも重過失があるだろうという見立てはなるほどなあと思いました。

 

とにかく丁寧で誠実な考察、ありがとうございましたm(__)m

 

2023/02/09(07:41) 宮武嶺

 

 私は「松竹氏が共産党を貶める悪意または少なくとも重過失があるだろう」という点には全く同意しないが、それ以外については上記宮武氏のコメントに同意する。共産党内の議論の可視化の手段は何も党首公選制だけではないし、松竹氏の安全保障政策には私も賛成しない。また、松竹氏が伊勢崎賢治の安保研究会のグループの事務局長であることに対しては私だって目くじらを立てる。そういえば弊ブログはかつて松竹氏が小林よしのりとつるんだ時に松竹氏を「恥晒し」として批判した記事を公開したことがあるらしいが(某暴犬が嗅ぎつけてくれた。さすがによく鼻が利く)、そりゃ伊勢崎だの小林だのとつるんだら文句の一つも言うに決まっている。

 ただ、ウクライナ戦争に対するスタンスは伊勢崎と松竹氏とで全く異なることだけは指摘しておく。伊勢崎のスタンスはあからさまなロシア寄りであって、これは×××新選組山本太郎)や某暴犬*1と同じ*2だ。一方、松竹氏のスタンスはロシアの侵略を批判する真っ当なもので、これは共産党ウクライナ戦争に対するスタンスと同じだ。

 

 宮武氏、村野瀬氏、弊ブログの3つにすべてコメントを投稿されたのはnanijiro-iさんだ。時折氏からいただくコメントには印象深いものが多い。いの一番に思い出されるのは3年前に新型コロナ感染症で力士の勝武士さんが亡くなった時のコメントだ。下記リンクのブログ記事にまでしてしまったほどだった。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 そのnanijiro-iさんの3つのブログへのコメントを以下に紹介する。

 

 まず宮武氏の上記ブログ記事へのコメントから。

 

「松竹処分」について (nanijiro-i)

2023-02-06 23:01:34

***

松竹伸幸さんが、自分に迫ってきて、下されるかもしれない処分について、ブログで「松竹処分」ということばを使ったとき、不謹慎にも、語呂がいいな、これは流行りそうだ、歴史に残りそう、と思った。

 

まあ、共産党が、処分は下さないのではないか、と、どちらかといえば、ぼくは思っていた。

 

ぼくは、宮武さん、kojitakenさんのブログと同じく、毎日、松竹さんのブログをみていた。毎日見ているのは、この3人。松竹さんのブログには、なにか、きくべきものがあると感じていたからだと思う。そして、このところ、共産党の党首公選の提起についてのブログと、マスコミをまきこむ、いうなれば個人運動の展開は、みごとなものだったと思う。

 

思いつきだが、もしかすると、「党首公選」、流行語大賞の候補になるかも。ほんとに、なっちゃったりして! まさか「松竹処分」が流行語賞にはならないと…思うけど…(笑)。

 

松竹さん、ブログは、基本的に、まいにち記事を書く。記事は、長くはない。1、2分で目を通せる分量だ。むずかしい言葉は使わない。そして、持続的に、問題を提起して深める。けっして嗔らず。いつもしずかに語る。反論には、相手の論理をふまえながら返す。だから、反論するには、議論が必要になる。議論しなければ、進めない。そう相手も思うし、読者も思うように書く。議論すれば、土俵を共有せざるをえなくなる。

 

そうした論の進め方は、毎日、一手一手を指して相手を詰めていく、棋士に似ている。しかも、ひら党員で、党首になります、という、ドンキホーテというか、騎士でもある。この棋士にして騎士は、検討使のキシだめさんとは、対極に位置する。

だが、共産党の志位さんは、党首公選を検討さえしてくれなかった。まあ、それは、ありうる話だと思う。しかも、下からの強手を繰り出す松竹棋士とは、対局しようとしなかった。対局しないで、事態の動向への検討が遅れた末に、においがきつくなって、松竹は処分するのが沈静化の道だと思ったのだろうか。これは、松竹さんが、そこまで共産党をおそれさせる力があったということなのかもしれない。だけど、党首公選を否定するのに、除名するしか、やり方はなかったんだろうか? そこが、疑問だなあ…。

 

少数意見を尊重するのが、民主主義だって、言ってたよね、共産党。こんな感想をツイッターでみかけた。同じように、ぼくは思う。「下剋上できないんだね、共産党」。

 

下剋上というと、叛旗を翻すことに、なってしまうんだろうか。

 

そして、マスコミを動かすことのできる、これまで積み重ねた活動展開をベースにできる強みはあるにしても、ひとりの個人が、おおきな組織に物を言いながら、組織をよい方向に向けていくと信じる声を、持続的にあげていく。そこで共感をえるものがあるから、松竹さんの訴えは、ひろがりをみせてきたのではないか。それは、ひとりの個人運動としても、分断化された社会のなかでも、ひろがりのある運動ができることの、まれなことかもしれないが、好例のように思う。

 

なかなか党勢は拡大しない。立て直したい。志位委員長は、そう思っているだろう。それに対して、もう20年もやっている。変わる共産党をみせるのは、新しい顔のもとで。そう考えるひとも少なくないようだ。志位さんは、立派なことをやってきた。野党共闘・野党協力が実現した、そのドラマには、トップとして、勇敢な決断があった。見事なリーダーを共産党は持った。とても素敵なことだ。それは、市民の声、国民の声を聴く力を、志位さんが持っていたからだ。

 

党首公選を軸にした松竹さんのいろいろな問題提起には、すべてに賛成はしないものの、考えるべきことがある。そう考える(野党系)無党派層は、少なからずいる。党員のなかから聞こえる声もある。それには限らないが、そうした声をどうひろい上げて、あたらしい、良心的な市民それぞれの声を反映させて、ともに歩んでいける党をつくるのか。共産党さんには、それがいまくらい問われているときはない。松竹処分は問題ではないか、という声も上がるだろう。そうした意見や、党首公選論について、分派に与した議論だ、等々というふうに、議論ができなくなることにならないことを希む。そして、それを、市民社会のなかで、考えてほしい。そう望む。

 

志位さんにも、いつかは引退のときがくる。そのとき、誰が党首になるのかはわからない。東京に住む私は、参院選で、松尾明弘か山添拓かを、最後まで迷った。最後は、松尾は当選できないだろうと考え、山添さんは、近い将来、共産党の幹部としてすぐれた活動をしていくためには、東京で圧勝できる力をもつことが基盤になる。そう考えて、山添に入れた。いつも共産党に入れるわけではない。立憲や社民にも入れる野党系無党派の意見である。いや、通常行動はノンポリといったほうがいいかもしれない。えらいことなど言えるような人間でもない。ただ、ちょっと書きたくなって、筆を執った。(おわり)

 

 私は昨年の参院選では維新、ファ□ストの会、それに山本太郎の3候補を全滅に追い込むべく、当選可能性が高いと踏んでいた山添拓ではなく立民の保守派であるが故に普段なら投票する気があまり起きない候補であろう松尾明弘にあえて投票した。しかし残念ながらというか予想通り山本を落とすことはできなかった。

 続いて最初にリンクした村野瀬氏のブログ記事へのコメント。

 

松竹さんのブログから①の答えをさがしてみました。

 

村野瀬さんの、第1の質問なら、松竹さんがブログで語っていたはずだと思い、さがしました。

これは、昨年7月中旬から8月中旬まで、16回にわたって連載したものから引いたものです。

原文を読むのが、もちろんいちばんいいでしょう。ただ、自分じしんの、その理解のためにまとめました。何分の1かにはなるので、この要約をみても、およそのことはわかるかと思います。

 

「党首公選制を松竹さんが主張する以上、現行の日本共産党の党首選抜法と党首公選制のうち、どちらがどのような理由でより民主的でよりすぐれているかあるいは欠点があるか、松竹さんが緻密な比較検討をしたのなら、その出典を示してください。」

 

こういう問いが出ていたので、それを探してみる。

たぶん、ここにあるだろうというところに行きつく。

それらの直前の記事からみていく。

 

「朝日」社説が共産党に党首公選を勧めているけれど

 https://ameblo.jp/matutake-nobuyuki/entry-12753995962.html?frm=theme

 

この文の末尾には、こうあった。

〈「朝日」社説は、「民主集中制」が問題の根源にあることとしているけれど、でもその「民主集中制」を守りながら改革しなければならないところに、なかなか難しい問題がある。その探求の途上である。〉

「朝日社説」というのは、共産党100年の翌日である2022年7月16日朝刊のもの。

 https://www.asahi.com/articles/DA3S15357947.html

この(松竹さんの)引用した文章を素直に読むと、「松竹さんは、民主集中制に反対ではない」みたいだ。

まずは、このことを発見して、党首公選論を読みはじめました。

 

民主集中制を前提にしながら、規約の解釈を柔軟にすることを求めるくだりが、数日後のブログにある。

 

では、党首公選論について。

 共産党の党首公選を考える

 https://ameblo.jp/matutake-nobuyuki/entry-12754176142.html?frm=theme

から、16回の連載です。

 

「現在、共産党だけに党首公選の仕組みがなく(あとで書くように公明党にも存在しない。公明党と同じだなんて恥ずかしいな)、他党には存在するので、その違いを政党のあり方、成り立ちの違いからくる普通のことと受け止めている人もいるかもしれない。しかし、日本のほかの政党も、設立いらいずっと党首公選などはしてこなかった。党首公選は、時代の変化、世論の変化をふまえた新しいシステムなのである。」(①)

 

自民党は、田中金脈問題で、党存亡の危機を迎えた。その危機を三木さんを党首に据えることで乗り切ったが、三木おろしをするにあたって、旧来型の自民党に戻ると思われたら、再び国民の支持を失うかもしれない。その危機感が党首公選に結びついたのである。

 要するに、党首選挙のあり方というのは、その時代、その時代の国民意識が左右するということだ。(中略)

 他の政党では普通のことが、なぜ共産党だけできないのか。その問いに説得力を持って答えるのは難しい。権力から物理的に弾圧されていた時代とは違うのだし、国民の政治参加への願いはどんどん高まっているのだから、政党がそれに応えて新しい挑戦をしていくのは自然なことだと思う。」(①、以下、○つき数字は、この松竹さんの連載の何回目かをあらわす)

 

「なぜ党首公選か。その根本にあるのは、他のどんな政党よりも、共産党の党員は頑張っているのであるから、党員一人ひとりの権利を大事にしなければならないと感じるからである。

 

 共産党員はかなり忙しい。週に1回の会議があるし、機関紙である「赤旗」は自前で配布するのが基本であり、日刊紙は党員が早朝に配るのである。私も国政選挙に立候補するまでは週に2回ほど配っており、その日は朝の5時頃には起床していたものだ。選挙になれば宣伝や支持者拡大の仕事が待っている。

 その上、おカネの負担も相当なものである。毎月支払う党費は収入の1パーセントとされていて、仮に月収が20万円であれば2000円であり、年間では2万4000円にもなる。年金生活者など収入がなくても月に500円を納めることとされており、年額6000円にもなる。また、これは党員にならないと分からないことだが、党費以外にも各種の負担金がある上に、県や地区によって事務所の維持費などで分担金がある。選挙になればカンパを求められる。(中略)「赤旗」(日刊紙は3497円、日曜版930円、合計4427円)を購読する規約上の義務はないが、ほぼ全員が購読している(中略)。

 党員はこうした負担に慣れっこになっている面もあるが、他党と比べると、その多額ぶりは一目瞭然である。(中略)

 どの党よりも共産党の党員は献身的に活動していると思う。共産党を嫌う風土がいまだに根強く残っている日本で、文字通り歯を食いしばって頑張っている。(中略)それならば、「どんな事情があれ共産党の場合は党員投票は認められない」という強固な根拠がない限り、党員投票の党首選挙を実施すべきではないのだろうか。」(④)

 

自民党が党首公選に踏み切ったのは、支持者を自民党につなぎとめるためである。野党も、党員になれば党首を選べることを売りにして、党員の拡大をしている。どの党も、何十年かの実践のなかで、その利点を実体験しているわけだ。

 だから、共産党が党首公選に踏み切っても、利点があることをもっと考えるべきだ。

(中略)

 もちろん、政党として最終的に見解を一致させることは大事である。しかし、国民も判断に困るような問題が起きたとき、政党も判断に困るのが普通である。それなのに、何のためらいもなく賛成とか反対が打ち出されているように見えると、国民からすれば多様性のない、近づきがたい組織に見えてしまう。賛成論と反対論それぞれの根拠が明らかにされ、それが公開して議論されることによって、党員の理解も深まるし、国民の共感も広がるのではないだろうか。いまの共産党にはそういう論争が求められているように思える。

 

(中略:臓器移植法で、脳死を人の死とするかの議論で、党議拘束をかけないことにしたいきさつを説明)

 

 その議論の結果、この法案には党議拘束をかけないことになったのだ。だから、それぞれの議員が、自分の判断で賛否を決めたのである。当時の私は、その結末にただただ納得するだけだったけれど、いま思い起こしてみると、その議論そのものが公開されていれば、共産党の個性の豊かさや幅広さを国民に見せることになって、それなりの共感が生まれたのではないかと感じる。

 最終的に党議拘束する場合も、複雑な問題で見解が分かれ、しかし収斂していく過程が見えることは大事である。ウクライナ戦争のような新しい体験の場合はとくにそうだと思う。

 

 田村さんが防弾チョッキの供与に反対しないと発言し、すぐに撤回したことがあった。幹部が態度表明をする仕組みを知っている私に言わせれば、田村さんが個人の判断で発言するわけもなく、それなりの決裁を通ったものだと思う。反対しないという態度にもそれなりの根拠、理由があるわけだ。

 最後に見解を一致させるのはいいのだが、あの時のやり方だと、ただ不自由な党だというイメージだけが国民に植え付けられる。賛成論にも根拠があり、反対論にも根拠があるのだが、そこを悩みながらどういう理由で党議拘束をかけたのかがわかれば、賛成論の党員、反対論の党員にも納得が得られるし、国民も身近な党だと感じられたのではないだろうか。

 党首選挙は、それを大規模に行おうとするものである。」(⑤)

 

「複雑な問題は、突然「これが正しい」と結論が提示され、それ以外のことは「間違い」として批判されるシステムではなく、それぞれに根拠があることが明確にされ、議論されて結論に到達するシステムが望ましいという話である。」(⑥)

 

 そして、日銀法が日銀の政府からの独立性を高めるという法改正にあたって、衆議院共産党は賛成を決めていたが、会議場で内容を知った不破さんが反対すべきと考え、志位さんと退室、衆議院は賛成したが、のち参議院が反対に回ったことがあるが、その経緯のなかでの異論の存在と最終的な意思決定の過程がのちに継承さるべく明らかにされていなかったことなどにふれて、こう言う。

 

「党内に異論が存在する時は、形はいろいろあるでしょうが、やはり同じように異論の存在が明らかにされ、その人が何をどんな根拠で(引用者挿入:主張しているのかが)示されることが不可欠だと思います。全面批判するにしてもです。そして党員がそれを知り、判断できるようになることが、共産党を強くするのではないでしょうか。」(⑭)

 

 なお、ほかに、web論座などで連載していた記事もあるようで、どこぞやの連載では、いまの党首選出方法が民主的でないという主張はしておらず、民主的な選出方法であると言っておられたと思います。ですが、民主的な選出方法には複数のやり方があり、党首公選のほうがベターではないか、と主張しておられたと、記憶します。

 

 わたしがブログを読んできたなかでは、松竹さんに、現在の共産党を、攻撃しているという印象はないのです。上に引用した箇所だけでなく、引用したブログ全体にわたって、攻撃的な記述はない印象です。建設的な話だと思います。なぜ、これが、攻撃ということになったのか、という不可解な想いが、まず私にはあります。以上が、①についての私のまとめです。

 

※宮武さんのブログにも、すこしこの事件の第一印象を書きました。

 

2023/02/12(00:29) nanijiro-i 

 

 最後に弊ブログの下記記事にいただいたnanijiro-iさんのコメント。前記村野瀬氏のブログへのコメントと重なる内容が多いが、全文を引用する。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 nanijiro-i

松竹さんの記事を紹介いただき、ありがとうございます。
京都府委員会が除名処分を確定したのが、2月6日でしたから、そこからちょうど6年前の記事ですが、松竹さんの誕生日は1955年2月4日だそうですから、62歳をむかえて、この先のことに思いをめぐらしながら、書いた記事かもしれませんね。前年7月生まれの志位さんとは同学年なんだとか。調べたら4日は立春でした。松竹はめでたいことば。立春に生まれて、草木は芽ぐみ伸びてゆく、そこに幸あれ、みたいな命名だったのかな? 除籍になるという蛭子(えびす)市議も、めでたい名前です。南あわじ市には、洲崎蛭子神社というのがあるらしい。ご関係があるのかどうかは、知りませんが。えびすを辞書でみると「 異郷から訪れて漁をもたらす神」、漁民の神だったんですね。

人形浄瑠璃の戎舞奉納 南あわじの洲崎蛭子神社産経新聞
https://www.sankei.com/article/20150510-VGQSHPESDRIY7CNPXCCQULT3G4/

ところで、松竹さんの共産党の「党首公選」論ってどういうものか、ブログにどう書いてあるのかを、昨日さがしました。そうしたら、去年の7月半ば~8月半ばにかけて、「共産党の党首公選を考える」1~16(了)までの連載がありました。この連載は、7月16日、日本共産党の100年の翌日の朝日新聞「社説」が、党首公選を提案していたことの紹介が、そのスタートになっています。その末尾には、こうあります。

「朝日」社説が共産党に党首公選を勧めているけれど
https://ameblo.jp/matutake-nobuyuki/entry-12753995962.html
「問題は、こういう常識的なことが、少しでも前に動く可能性は、どうやったら拓けるのかということである。そこが見えてこない。
(中略)
 私がやろうとしていることは、そこに風穴を開けることになるのだろうか。「朝日」社説は、「民主集中制」が問題の根源にあることとしているけれど、でもその「民主集中制」を守りながら改革しなければならないところに、なかなか難しい問題がある。その探求の途上である。」

 とあったので、あれっ、松竹さんの党首公選論は、民主集中制を守りながら、進めようとしていたんだ、と知りました。
 そして、その翌日から連載される「共産党の党首公選を考える」では、kojitakenさんが紹介している「民主集中制を研究しなくちゃ」で提起されている「多様性が見えることと民主集中制は相容れる」、その実現のために「党首公選」を実現したいと書いているようだ。
 連載の5回目はこう言う。
 

https://ameblo.jp/matutake-nobuyuki/entry-12755197210.html
「すでに書いたように、自民党が党首公選に踏み切ったのは、支持者を自民党につなぎとめるためである。野党も、党員になれば党首を選べることを売りにして、党員の拡大をしている。どの党も、何十年かの実践のなかで、その利点を実体験しているわけだ。
 だから、共産党が党首公選に踏み切っても、利点があることをもっと考えるべきだ。過去のしがらみとの関係などで克服する問題はたくさん出てくるだろうけれども。
 もちろん、政党として最終的に見解を一致させることは大事である。しかし、国民も判断に困るような問題が起きたとき、政党も判断に困るのが普通である。それなのに、何のためらいもなく賛成とか反対が打ち出されているように見えると、国民からすれば多様性のない、近づきがたい組織に見えてしまう。賛成論と反対論それぞれの根拠が明らかにされ、それが公開して議論されることによって、党員の理解も深まるし、国民の共感も広がるのではないだろうか。いまの共産党にはそういう論争が求められているように思える。
 例えば、1997年に臓器移植法が成立した。脳死をヒトの死と認め、臓器の移植を可能にする法律だった。当時、共産党の国会議員団のなかでは、賛成反対が入り乱れることになる。
 一方では、脳が機能を停止すればやがてそれまでの死の定義だった心停止に至ることは確実なのだから、唯物論の立場からすると、それしかないという見解もあった(不破さんなどはそういう主張だった)。他方では、医者の資格のある議員からは、それまでずっと心停止を死だとして家族にも告げてきた体験があるわけで、法律でそれを強制されることへの忌避感は強かった。
 その議論の結果、この法案には党議拘束をかけないことになったのだ。だから、それぞれの議員が、自分の判断で賛否を決めたのである。当時の私は、その結末にただただ納得するだけだったけれど、いま思い起こしてみると、その議論そのものが公開されていれば、共産党の個性の豊かさや幅広さを国民に見せることになって、それなりの共感が生まれたのではないかと感じる。
 最終的に党議拘束する場合も、複雑な問題で見解が分かれ、しかし収斂していく過程が見えることは大事である。ウクライナ戦争のような新しい体験の場合はとくにそうだと思う。
 田村さんが防弾チョッキの供与に反対しないと発言し、すぐに撤回したことがあった。幹部が態度表明をする仕組みを知っている私に言わせれば、田村さんが個人の判断で発言するわけもなく、それなりの決裁を通ったものだと思う。反対しないという態度にもそれなりの根拠、理由があるわけだ。
 最後に見解を一致させるのはいいのだが、あの時のやり方だと、ただ不自由な党だというイメージだけが国民に植え付けられる。賛成論にも根拠があり、反対論にも根拠があるのだが、そこを悩みながらどういう理由で党議拘束をかけたのかがわかれば、賛成論の党員、反対論の党員にも納得が得られるし、国民も身近な党だと感じられたのではないだろうか。」

 紹介いただいた「民主集中制」論は、今回の「党首公選」の提起と、ドンぴしゃりと、つながっているものなんだと思った。

 

 これまでにも繰り返し書いてきた通り、弊ブログは今回の問題あるいは事件の論点の核心を「(共産)党内の議論(=意見の違い)の可視化(の可否)」ととらえたい。村野瀬玲奈氏が2019年の参院選で熱烈に応援したれいわ*3新選組の問題とも相通じるものがあるが、新選組の規約には独裁条項はあるものの分派禁止の条項はないから、例えば現在では緑の党系と保守系との間で派閥抗争が可視化されるなどはしている。新選組の場合は意思決定をできるのが上御一人(かみごいちにん。天皇のこと)に限られていることに問題があるが、それさえ正してしまえば良い。しかし非合法政党だった歴史的経緯から現在のような「分派禁止」を含む「民主集中制」を掲げる共産党ではそうはいかない。だから現状を変更するためにはたいへんなエネルギーを必要とするのは当然だ。しかしそれをやらない限り将来的な存亡の機*4に差し掛かっているというのが私の認識だ。なぜそういう事態に立ち至ったかというと、それは情報化社会に対応することが求められるようになったからだ。つまり社会が従来のホストコンピュータによる集中管理の時代からインターネット時代に適応した分散管理管理への時代に移行しつつある時に「分派の禁止」の条項を盾にとった共産党の旧来の「民主集中制」はもはや通用しないと考える。集中管理を全部分散管理に置き換えてしまうような管理も非効率的で十分に機能しないとする学説があるそうで、私はそれももっともな話だと思う。ホストコンピュータによる集中管理を「集中」、インターネット式の分散管理を「民主」にそれぞれ当てはめる民主集中制とのアナロジーも可能だろう。両者をあわせ持つ管理機構は「民主集中制」という名前とも整合する。今や「土台」がかつてとは変わってしまったのだから、土台が上部構造を規定するというマルクスの思想に従って日本共産党も変わらなければならないというのが私の確信だ。

 先走った話をすると、共産党は規約から「分派の禁止」を定めた条項を削除すべきだと考える。「民主集中制」はそのままでも構わない。これも何度も書いたことだが、民主集中制に分派の禁止が含まれることが必然かどうかが今後議論されるべき大きな議題ではないかと考える。

*1:この犬は大の「共産党信者」にして「共産趣味者」でありながら、なぜかロシアのウクライナ侵略や中国の少数民族弾圧などに関してはご主人様である日本共産党に逆らってロシアや中国を支持して吠える。これはこの犬が根っからの権威主義者であるために、ロシアや中国が権威主義を剥き出しにした時には犬にも残っている野生の血が騒いでかどうかは知らないがご主人様(日本共産党)に対してまでも吠えかかってしまうものであろう。

*2:ついでに書くと三春充希氏とも同じだ。私はウクライナ戦争に対する三春氏の意見には全く同意しないが、それと氏が行なっている選挙や世論調査の価値とは全く別の問題であり、前者が誤りだから後者も無価値だとするかのような一部コメンテーターの意見は的外れもいいところだと思う。

*3:当時の村野瀬氏の意見表明に敬意を表するために、あえて新選組が党名に用いている弊ブログの禁句である現元号をそのまま表記した。

*4:これを「存亡の危機」とするのは誤用とのこと。https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG21H9X_R20C17A9CR8000/