kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

北別府学死去

 昨日(6/16)、ともに背番号20を背負ったプロ野球セントラル・リーグの名投手だった杉下茂(享年97)と北別府学(享年65)の訃報が報じられた。

 ともに大きな驚きはない。

 杉下は大往生だし、北別府はブログを持っていてしばらく前から広美夫人が本人の代わりに執筆していたのを知っていたからだ。最近はプロ野球OBでも一昨年に亡くなった大島康徳(享年70)のようにブログで自らの病状を記録する人たちがいる。

 北別府というと直ちに連想されるのは1986年の129試合目に神宮球場カープがリーグ優勝を決めた時の胴上げ投手だった津田恒実(恒美, 享年32)だが、その試合の敗戦投手は尾花高夫だった。

 私は1984年9月12日に同じ神宮球場で北別府と尾花が先発した試合を生観戦したことがある。実はその試合こそ、初めて生観戦でスワローズが勝った試合だった。尾花は1点を先制されたが、このシーズン終盤にようやく調子が上がってきたヤクルト打線が、杉浦亨の右翼スタンドへの豪快な本塁打などで北別府を粉砕し、投げては尾花が完投して8対1で快勝したのだった。

 

 私が生で北別府を見たのはその試合だけである。また尾花が先発した試合はこの後も何度も見たが、尾花が勝利投手になったのもこの試合だけだ。尾花は特に阪神戦でよく打ち込まれていた。

 この年の北別府は読売に勝ちなしの3敗を喫するなど、前年の1983年と合わせてその前後の1982, 85, 86年と比べるとやや精彩を欠いた投球ぶりだったかもしれない。彼が本当に制球力に磨きをかけて大投手になったのは、翌1985年に誰も抑えられなかった阪神ランディ・バースを抑え込んで猛虎打線を誇った阪神からリーグ最多の5勝(1敗)を挙げた年だろう。その前年に燕打線が北別府を粉砕した試合を観戦できたのは運が良かった。とはいえスワローズは北別府のピークの年だった1986年にも最下位ながら北別府から2勝している(3敗)。いずれも広島市民球場での試合で*1荒木大輔(5回戦)と高野光(6回戦)が相次いで北別府に投げ勝った。しかし、その高野が2点をもらいながらに逆転負けした9回戦(平和台)を境に北別府に勝てなくなって3敗を喫した。とはいえスワローズはカープが優勝を決めた25回戦を含めていずれも北別府から3点以上を奪っている。特に目立つのは負け試合を含めてブロハードが北別府から2本の本塁打を打っていることだ。そのブロハードが対読売最終戦で読売を地獄に突き落とす逆転2ランを槙原寛己から放ったことは弊ブログにはもう何度も書いた。スワローズは通算では北別府に26勝48敗と大の苦手としていたが、この年は広島(12勝14敗)とエースの北別府に大善戦したといえる。それでいて最後には読売をひきずり降ろして「読売の補完勢力」との一部でたたかれた陰口を一掃したのだから、最下位に終わったとはいえ次年度以降に希望を感じさせるシーズンだったといえる*2。事実スワローズはこの年を最後に暗黒時代から脱して(暗黒時代のバトンを阪神に渡した形)、その後20年間は一度も最下位に落ちなかった。過去10年のうち(3度のリーグ優勝があるとはいえ)4度も最下位になり、今年も最下位の危機に瀕している現在とは大違いだ。

 以上、北別府というよりは彼の全盛期に善戦したヤクルトの話ばかりになってしまったが、1984年頃の北別府といえば、アンチ読売にとってはやや心象の悪い投手だったことは確かだ。読売に弱い、江川との投げ合いに弱いとの印象があった。北別府にはまた阪神に弱いとの定評もあり、1985年の開幕戦の阪神戦ではそのために開幕投手大野豊に奪われ、2戦目の先発も川口和久であって北別府は阪神2連戦の先発から外された。その北別府が面目を一新したのは、バースを抑える制球力を武器にして、自ら決勝本塁打を打って阪神を完封した試合を契機に、それまでの定評を一転させてリーグで唯一猛虎打線を封じることができる阪神キラーという新たな看板を獲得したことにあるだろう。そして9月にはそれまで足掛け3年にわたって5連敗していた読売戦でも延長12回だったかを1失点に抑えて完投勝利を収めて、それ以降は読売にも勝てる投手になった。とはいえ1986年も北別府は読売戦の成績が2勝1敗止まりで、後半戦唯一の黒星は後楽園での江川との対戦で早い回にKOされた試合だったが、その6日後の9月1日に広島市民球場で再び江川と対戦した試合では2対0で完封勝ちした。この試合でペナントレースの流れが変わったと私は確信した。なぜなら、前週の後楽園2戦目に槙原が広島打線を抑えた試合でついた5.5ゲーム差が、たった5試合で1.5ゲーム差にまで縮まったからだ(その間広島は4勝1分け、読売は4敗1分け)。北別府は読売との最後の3連戦(後楽園)には先発せず、ローテーション通りにその前の大洋戦に先発して勝ったが、王監督が登板日をずらして広島に当ててきた江川は広島との3連戦の初戦で惨めに打ち込まれて負けた(勝利投手は長富)。無理に後楽園での試合に北別府を当てなかったことには、古葉監督以下首脳陣の北別府への信頼度がそこまではなかったという可能性もあるが、9月だけで5勝を挙げた北別府の活躍がなければカープの逆転優勝はなかったことはいうまでもない。

 北別府は苦手としていた日本シリーズにも勝利にあと一歩までこぎ着けた。西武球場での第5戦がその試合で、延長12回途中まで1対1だったが、リリーフの津田恒実が投手の工藤公康にまさかのサヨナラ二塁打を浴びて北別府に負けがつき、シリーズもそのあとの広島市民球場での3試合に西武が全勝して3勝4敗1引き分けで広島は敗退した。最後の第8戦に東尾が先発したのに北別府は出てこなかったが、これは第5戦の延長12回で投球数が多すぎたためだろう。その後の1991年の第3戦でも北別府は0対0の8回表に西武の秋山に決勝ホームランを打たれて渡辺久信に投げ負けたが、86年の第5戦と合わせてこの2試合の好投があったから「日本シリーズではからっきしダメだった」との悪評から免れたともいえる。1984年の第5戦、北別府が西宮球場で阪急打線につかまった時には、テレビ中継のゲストで来ていた近鉄鈴木啓示が「(1979年と80年の日本シリーズで)近鉄ベンチは北別府を与し易しと見ていた。阪急ベンチも同じではないか」と北別府を軽侮するコメントを発した。事実、1984年までの北別府にはそう言われても仕方がない面は確かにあった。私なども、北別府は山本浩二や衣笠に助けられて成績を上げている投手だよなあ、まるでONに助けられまくった読売の堀内恒夫みたいだよな、と正直思っていたものだ。しかしその印象は、北別府が貧打のチームをリーグ優勝に導いた1986年に一掃された。

 そんなわけで、北別府はまあ野球選手としては文句なしの名選手だとは思うのだが、その反面私がどうしても引っ掛かっていたのは、早世した津田恒実が長幼の序にうるさい北別府を煙たがっていたとの話だった。権威主義的な人ではないかとの疑念があったのだ。

 また北別府という人は野球以外ではどんな人だったのかがほとんどわからない。「長幼の序にうるさい」というと、とんでもなく保守的な人だったのではないかとも想像されるが、北別府が政治の話をしたなどとは聞いたこともなかった。たとえば元カープ監督の古葉竹識(毅)などは秋葉忠利社民党系)の対立候補として2003年の広島市長選に出馬したり、自民党公認で2004年の参院選比例区に出馬するなどして晩節を汚したが、北別府の場合はその当時の古葉の年齢に達する前に発病したためかもしれないけれどもそういう話は知らない。

 私の印象は、北別府とはとにかく勝つことへの執着が強い人だったということだ。昨年37年ぶりに見た1985年10月12日の阪神戦の動画を見てその印象はさらに強まった。それは阪神が21年ぶりの優勝に向けてマジックを「5」とした試合だったが、見たかったのはバースが大野豊から放った決勝ホームランだった。その動画を見た頃、スワローズ・村上宗隆のホームラン記録が騒がれていたので、先人・バースがシーズン終盤戦でどんな打撃をしていたのかを確かめたかったのだ。

 その試合では北別府の球は高めに浮き、阪神打線に痛打を浴びていたが、4回表にバースが北別府から放った打球は、打った瞬間ホームランと思わせたのにフェンス際で失速してセンターフライに終わった。試合は5回裏に高橋慶彦が逆転2ランを打って広島が3対2でリードしたが、NHKのアナウンサーは北別府を「打たれても勝つ投手」と評していた。するとその言葉に反して6回表に真弓明信が2点二塁打で再逆転し、その裏に北別府は代打を出されたものの広島がすぐ同点に追いつき、審判が阪神の佐藤投手のボークを見逃さなければ北別府に勝利投手の権利が転がり込むところだった。結局ここは審判の見逃しもあって同点止まりで、7回表からリリーフした大野豊がその代わりっぱなにバースにホームランを浴びたが、解説の川上哲治はバースの当たりは「真っ芯ではない」と言っていた。バースは大野の投球を真っ芯で捉えることができなかったのに、川上の表現を借りれば「力で」スタンドまで持って行ったのだった。バースは北別府には微妙にタイミングを外され、大野には真っ芯では捉えられなかったもののタイミングは合っていたということなのだろうが、この「微妙にタイミングを外す」テクニックに北別府の執念が込められていたのではないかと思った。試合は7回表のバースのホームランが決勝点となって阪神がマジックを「3」として優勝争いに事実上の決着をつけた。

 このように「とことん勝つことにこだわる」北別府の姿勢は家庭生活にも及んだらしい。今回の北別府の訃報を受けたネット検索で一番印象に残ったのは、2021年にデイリースポーツに掲載された下記記事だった。

 

www.daily.co.jp

 

 上記は北別府が一時テレビ出演に復帰した2021年3月の記事だ。

 北別府が罹患した病気は「成人T細胞白血病」という。私は2008年頃に「血液のがん」(白血病及び悪性リンパ腫)についてかなり調べたことがあるので、2009年に前宮城県知事にして2007年に石原慎太郎を相手に東京都知事選を戦ったこともある浅野史郎氏がこの病気に罹患したことが報じられた時に下記記事を公開した。といっても読売新聞の記事をリンクしてごく短いコメントをつけただけの記事だ。

 成人T細胞白血病は、発症した場合には予後が良くないことが多いことは知っていた。だから最近の北別府ブログに広美夫人が書いている内容から察して、どうやら先は長くないだろうなとは思っていた。その点では一昨年の大島康徳の場合と同様だ。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 浅野氏は現在ではウェブサイト「夢らいん」の更新も止めてしまわれたようだがどうやら現在も健在らしい。2022年秋には河北新報に下記記事が掲載された。

 

kahoku.news

 

浅野史郎前知事が証人として出廷 宮城・強制不妊訴訟控訴審

20221012 6:00

 

 旧優生保護法(1948~96年)下で不妊手術を強制された宮城県の60、70代の女性2人が国に計7150万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審口頭弁論が11日、仙台高裁であった。浅野史郎前知事が証人として出廷し、国の賠償責任が認められるべきだと訴えた。石栗正子裁判長は1月16日の次回弁論で結審する方針を示した。

 浅野氏は旧厚生省で障害者福祉に関わった立場で出廷。障害福祉課長だった1987~89年、法改正の検討に関する情報を知らされていなかったことを挙げて、旧法の被害について「(省内で)情報共有されていなかった」と強調した。

 自身が被害を認識したのは原告が仙台地裁に提訴した2018年1月だったとも証言。「手術自体が適法と解されていた中で、当事者や親が訴訟を起こすのは困難だった」と述べて、不法行為から20年で賠償請求権が消滅する「除斥期間」を適用するべきではないと訴えた。

 原告の飯塚淳子さん(70代、活動名)は尋問で「県が手術記録を処分したせいで証拠を得られず、長年訴訟を起こせなかった。手術が原因で結婚生活が破綻した。人生を奪われた」と語った。

 19年5月の一審仙台地裁判決は旧法を違憲としたが、除斥期間の規定を適用して原告側の請求を棄却した。

 

河北新報より)

 

URL: https://kahoku.news/articles/20221011khn000044.html

 

 浅野史郎北別府学の運命を分けたのは、あるいは前記デイリースポーツの記事に書かれた下記の理由からかもしれない。

 

 ところが、造血幹細胞移植へと移行した5月以降、過酷な現実が待っていた。

 移植は白血球の型の適合率が高い次男の俊貴さんがドナーになった。

 骨髄バンクのドナー登録者には100パーセント一致する人がいたが、移植には至らなかった。緊急事態宣言の対象が全都道府県にまで拡大された新型コロナウイルス感染症が足かせになった。

 そのため適合率が100パーセントではない息子からの提供という形を取らざるを得なかった。

 感染の拡大を防ぐため家族との面会も許されなかった。不運が重なった。

 しばらくすると、拒絶反応が起き、闘病生活は想像を絶する苦しみをともない始めた。

 ひどい口内炎で水分すら満足に取れず、腸炎を発症して一時は意識もなくなり、予断を許さない状況に陥った。

 広美夫人は当時の様子を克明に記憶している。

 移植後の状態は芳しくなかった。

 医師が「あと一週間、様子を見ましょう」と伝えてくる。

 一週間後、「あともう少し…」と。

 その顔が徐々に暗くなっていくのが分かった。

 病室に持ち込めていた携帯電話に既読がつかなくなったとき、広美夫人の不安はピークに達した。

 「パニックになって先生に詰め寄ってしまうこともありました。七転八倒し、意識まで失っているのに会えないのですかと。それまでは、家族で乗り切ろうねと話していましたが、初めて主人の辛さが分かりました」

 

(デイリースポーツ 2021年3月26日)

 

URL: https://www.daily.co.jp/opinion-d/2021/03/26/0014182109.shtml

 

 広美夫人の北別府への深い愛情が感じられるが、そんな広美夫人にも同郷(鹿児島県出身)で見合い結婚で結ばれた夫に対する疑念を強く持った時期がかなり長くあったようだ。以下にデイリースポーツの記事から再び引用する。

 

 チームのために勝つ。自身の成績が上がれば家族の暮らしも楽になる。だから勝たなければならない。

 勝つための努力は怠らなかった。相手球団選手との接触は極力避けた。

 「親しくなると厳しいボールが投げられなくなる」

 死球も辞さないケンカ腰の投球スタイルは、繊細な性格の裏返しでもあった。ロッカールームの中でも余計な会話は控えた。

 「ベラベラしゃべると気が抜けてしまう。あのころは、すべてにおいて野球優先、ピッチング優先だった。一度でも気持ちが抜けると、シーズンが終わってしまうような恐怖感があった」

 気を張り続けることで、北別府は輝かしい記録を積み上げた。

 最多勝2回、最優秀防御率1回、最高勝率3回など野球選手の勲章といえるタイトルを6回も獲得。シーズンで最も活躍した先発完投型の投手に贈られる沢村賞を2回、最優秀選手賞(MVP)も1回受賞した。

 通算勝利数は213。20世紀最後の名球会投手…。

 だが、広美夫人はこうも振り返る。

 「ピリピリした状態が、現役を引退した後も続いてました」

 野球人北別府には周囲に人を寄せつけない雰囲気があった。

 気を緩めない。登板に集中したい。その張り詰めた空気は家族にも伝わった。

 夜、子どもがグズり出すと、広美夫人が連れだし、車の中で泣き止むのを待った。

 「負けたら大変で、パパが帰ると家が凍りついてました」

 自宅から見下ろせた当時の広島市民球場。ナイター証明の灯りが消えるのが怖かった。

 勝った日は大勢の人を自宅へ集めて快哉を叫び、しこたま飲む。

 シーズンオフも自分の好きなことをした。

 「それがエースである夫の仕事」と理解はしても、気の休まる暇はなかった。「野球はまったく分からなかった」が、夫の体の手入れのためにマッサージの施術まで習った。

 そんな生活を送るうちにこう思えてきた。

 「この人は仕事の面では尊敬できても、人としてどこか欠落しているところがあるんじゃないか」

 

(デイリースポーツ 2021年3月26日)

 

URL: https://www.daily.co.jp/opinion-d/2021/03/26/0014182109.shtml

 

 上記最後の赤字ボールドの部分は、正直言って私が持っていた北別府に対する先入観に近い。

 しかし、そんな広美夫人の疑念を払拭する出来事があった。以下、三たびデイリースポーツの記事を引用する。

 

 本格的な治療が始まる直前、家族で写真を撮った。

 「もうこんな時間を過ごすことはできなくなるかもしれない」

 そんな思いが、家族みんなの頭をよぎったからだ。

 その1枚に写った家族は、みんなで前を、同じ方向を向いている。

 思いはひとつだった。

 かつてのように「人として欠落している」夫に、父にすべてをささげるのではない。家族みんなで、一緒に乗り越える。そう思えたからこそ、試練に打ち勝つことができた。

 そのきっかけは、7年前にあった。

 2014年8月20日。

 広島市北部の安佐北区安佐南区の住宅地などで、大規模な土砂災害が発生した。

 災害関連死3人を含む死者77人を出した記録的集中豪雨。北別府は「何ができるか分からないけど、とにかく行こう」と広美夫人を伴い、家にあった家庭菜園用のシャベルやスコップを手に現場へ向かった。

 何かに取り憑かれたように、それから2カ月間、必死で汗を流した。土砂が流れ込んだ家々から泥を掻き出し、重い石をいくつも運び出した。狭い場所の泥は小さなスコップですくい取るしかない。何十回、何百回。気が遠くなるほどの作業を黙々と繰り返した。

 マスクをし、帽子姿の北別府に気づく人はほとんどいなかった。ボランティア登録もしなかった。

 「自分に置き換えたらどう思うか。それがすべてだった。とにかく人の手が必要だと感じた。どこから手をつけたらいいのかと。助けがなければ、きっと心が折れると思った」

 残暑の厳しいころ。最初の一週間はぶっ通しで、朝から日が暮れるまで働いたが、不思議に疲れなかった。「充実感だけ」が残った。

 「一緒にいて、心から楽しいと思えるようになったのは、このボランティアをしたころからです」

 広美夫人は表情を和らげてそう語る。

 「主人は野球と同じく私生活でも“針の穴を通す”ように細かいんです。大ざっぱな性格の私は馬の耳に念仏タイプで、お茶の温度も適当。もっと気がつく性格なら、主人もイライラせずにすんだのでしょうね」

 北別府は当時の心境をこう明かす。

 「家でも野球に集中していたかった。切り替えがヘタというか、切り替えるのが怖かった。エンジンが冷めて再始動するのに時間がかかることがあるのと一緒で、ずっと緊張を保っていたかった」

 すべてのわだかまりを解いたのが、災害ボランティア活動への参加だった。北別府という名前に関係なく地域の人たちが喜んでくれた。隣人の役に立てたことがうれしく新鮮でもあった。

 広美夫人は振り返る。

 「根本的に人が変わり、これで主人と一緒に前を向いていけると思いました」

 退院こそした北別府だが、その後も移植による苦しみは繰り返し襲ってきた。

 「息子の細胞が生着する過程で、私の身体で暴れているからとのことでした。何度かそういうことを繰り返して定着するようです」

 12月に医師から寛解を告げられたが、年末になり、移植した人にみられるGVHD(移植片対宿主病)という新たな拒絶反応が起こって再入院した。

 激しい嘔吐や下痢の症状が出たが、なんとか大晦日に退院。その後は通院で検査を続けている。そんな中で励みになったのは、同じように闘病生活を送る人々の姿だった。

 厳しい症状が出たタイミングで北斗晶さんからメッセージが届いた。

 「『どう?頑張ってる?』『また仕事一緒にするよ』とLINEが来た。ご自身、がんを克服されているので、その言葉は心強かった」

 病名は違うが、同じ白血病で苦しむ水泳の池江璃花子さんやアナウンサーの笠井信輔さんが、元気な姿を取り戻しているのも見た。

 「オレも治るかも」と気持ちを強く持つことができた。

 家には北別府が「命を救われたもの同士」という5歳になる猫の華ちゃんもいる。

 長女の優さんの第一子、孝祐君が生まれるときに引き取った。脊椎の病気で自力での排泄も難しく、獣医師に「先は長くない」と宣告されていた。

 それでも生き続け、少しずつだが体重が増え、歩けるようにもなってきた。

 しばらくの間は遊んでやれないが、小さな華ちゃんの生きる意思と生命力に力をもらっている。

 仕事仲間や野球関係者、ファンの人たち、友人とその家族、病院の先生。

 励ましてくれたすべての人たちに北別府は頭を下げる。そして家族にも。

 「息子にはコロナで動きが取りにくい中、血小板をもらって、今こうして生活できている。家内は大変だったろうし、苦労かけたなと。私以上に心配してくれて」

 感染症が拡大するにつれ、マスク不足を憂いていた広美夫人は大量の布マスクを自ら縫いだした。

 全国から寄せられた夫への激励に応えるため、また夫に対する治癒の祈りを込めて、必要とする人たちに配り、養護施設の子どもたちへも届けた。

 北別府は言う。

 「振り返ってみると、心に思っていても口にできない性分だったけど、心の底からありがたいと思ってます」

 澱のようにたまっていた家族への感謝の気持ちが、素直な言葉になってどっと出てきた。(後略)

 

(デイリースポーツ 2021年3月26日)

 

URL: https://www.daily.co.jp/opinion-d/2021/03/26/0014182109.shtml

 

 これまで北別府に対して長年持っていた疑念が、このデイリースポーツの記事によって多少なりとも取り除かれたことは本当に良かった。故人の訃報に接して、心よりお悔やみ申し上げます。

*1:1986年の北別府の残り2敗は甲子園での阪神戦と後楽園での読売戦だったので、この年に広島で北別府に土をつけた球団はスワローズだけだった。

*2:もっとも、1986年にはまだ松園オーナーが病に倒れる前だったので、読売戦最終戦での逆転2ランが「読売ファン疑惑」を持たれていたオーナーの逆鱗に触れたものかどうか、ブロハードは翌年のシーズン中だったかに解雇されてしまった。