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古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

中日ドラゴンズの山本昌投手が現役引退へ

この記事を合わせて、直近4本の記事のうち3本までがプロ野球関連記事になってしまったが、中日ドラゴンズ山本昌投手が現役引退の意向を表明したニュースを取り上げる。

http://www.asahi.com/articles/ASH9V2D6YH9VOIPE001.html

中日・山本昌が引退へ 50歳 昨季、最年長勝利を更新
2015年9月26日08時30分

 プロ野球の最年長勝利記録を持つ中日・山本昌(本名、山本昌広)投手(50)が26日、今季限りで引退する意向を明らかにした。49歳11カ月の8月9日に今季初登板、初先発を果たしたが、左手人さし指を負傷。回復が思わしくなく、以後の1軍登板はなかった。

 山本昌は神奈川・日大藤沢高からドラフト5位で1984年に中日入り。入団後4年間は勝てなかったが、1988年の米国留学をきっかけに才能が開花。得意球のスクリューボールを武器に、投手陣の柱に成長した。

 06年9月の阪神戦では、41歳1カ月のプロ最年長でノーヒットノーランを達成。08年には通算200勝に到達した。昨季は9月の阪神戦で49歳0カ月で先発勝利し、故浜崎真二氏(阪急)が50年に打ち立てた48歳4カ月の最年長勝利のプロ野球記録を64年ぶりに更新した。

朝日新聞デジタルより)


山本昌は言わずと知れた「球界のレジェンド」。プロ初勝利はまだ「昭和」時代の1988年(昭和63年)だった。この人のプロ入り初勝利はナゴヤ球場での広島戦のリリーフだったが、初完封勝利は1988年9月に神宮球場で行われたヤクルト戦だった。この試合を私は、会社の同僚が運転する車のカーラジオで聴いていたが、山本昌はヤクルト打線から三振の山を築いていた。

山本昌は「阪神キラー」「読売(巨人)キラー」などと言われており、事実、40代になってからの最年長記録や通算200勝などの大半を阪神戦または読売戦で記録しているが、若い頃は阪神や読売にはどちらかといえば相性が良くなく、広島とヤクルトに強かった。歳をとってから広島戦の相性が悪化したため、生涯成績でもっとも成績が良いのはヤクルト戦に違いないと勝手に思い続けてきた。ネット検索をかけても山本昌の球団別勝利数や防御率はなかなか出てこないが、下記「Yahoo! 知恵袋」を参照すると、2013年までの各年度の相手球団別勝敗数がわかる。2014年は1勝1敗(阪神戦1勝、読売戦1敗)で2015年は勝敗関係なしだから、球団別の通算防御率はわからないが、勝敗数はわかるので計算してみた。

http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n196043

すると、同一リーグ相手の勝率順で下記のようになる。

  1. 対ヤクルト 45勝23敗 勝率 .662
  2. 阪神 48勝26敗 勝率 .649
  3. 対広島 44勝33敗 勝率 .571
  4. 対大洋・横浜・DeNA 35勝27敗 勝率 .565
  5. 対読売 43勝45敗 勝率 .489


やはり山本昌最大の「お得意さん」はわがヤクルトだった。勝ち星の数では阪神戦が最多だが、勝率はヤクルト戦がもっとも高い。なんといっても、ヤクルト打線が池山、広沢、ハウエル、古田を擁して球団史上最強だった(と思っている)1993年、ヤクルト相手に負けなしの7連勝をした印象が強烈だ。ヤクルト球団史上唯一のリーグ2連覇と15年ぶりの日本シリーズ優勝を果たしたこの年、ヤクルトは山本昌今中慎二という中日の二枚看板に勝ちなしの11連敗を喫し、おかげで秋口まで優勝争いがもつれたのだった。この年9月に山本昌が怪我をして戦線を離脱したが、彼の故障がなければ中日に優勝をさらわれていたかも知れなかった。1994年の終盤戦で中日が読売を猛追し、最終戦決戦に持ち込んだのにも、山本昌が調子を上げて7連勝した貢献が大きかった。山本昌はこの2年で連続最多勝を記録した*1。さらに1997年にも最多勝を記録したが、この年の中日は最下位だった。

しかし山本昌は1998年から成績が下降した。覚えているのは、2000年5月の連休に東京ドームで山本昌が読売打線にメッタ打ちを食った試合を解説していた元読売の江川卓が、山本昌はもう限界だと言ったことだ。だが江川の目は節穴だった。この年と翌2001年、山本昌は再び2桁勝利を挙げた。その後2年間は1桁勝利だったが、2004年の阪神戦で完封したあと、中日の落合監督(というより森繁和投手コーチ)は山本昌を前年度優勝の阪神に集中的にぶつけるローテーションを組んで阪神を優勝争いから追い落とし(この年山本昌阪神戦7勝1敗、合計でも13勝を記録)、中日のリーグ優勝に結びつけた。山本昌阪神打線に打たれた2005年(阪神戦2勝2敗)には阪神が中日を抑えて優勝したが、2006年には首位攻防の阪神戦で史上最年長ノーヒットノーランの離れ業を演じたあと、それでもその次の試合から9連勝して追いすがった手負いの虎に、敵地・甲子園でとどめを刺して前年のリベンジを果たした。今年の開幕前だったか、サンデーモーニングに出演した山本昌は、もっとも思い出に残る試合として、ノーヒットノーランの試合ではなく、優勝争いに決着をつけた甲子園の試合を挙げていた。

山本昌のライバルといえば同じ球団の今中だったが、あるスポーツライター(誰だったか忘れた)は、今中はどんな試合展開でも同じように好投するが、山本昌は味方打線が8点を取ってくれたら7点までは許すと評していた。裏を返せば、競った試合では負けない無類の勝負強さを持っていたといえる。だから1993年のヤクルト戦や2006年の阪神戦など、優勝を争うライバル球団との直接対決には滅法強かった。

山本昌の気質が勝負師向きだと初めて気づいたのは、1989年にナゴヤ球場で行われた読売戦で、その年の初勝利を完封で挙げた時だ。前年度の終盤に5勝0敗でローテーションに入った山本昌だが、翌年は開幕から不振で、確か4連敗していた。その年、読売は中日連覇の下馬評を覆して首位を独走していたが、山本昌はその読売戦で桑田真澄を相手に投げ合い、1対0で完封勝ちした。試合終了時に山本昌は涙を流し、放送を実況していたNHKのアナウンサーもそれを指摘した。ところが、その後のヒーローインタビューでは一転して、山本昌は笑顔で快活に受け答えしていたので、アナウンサーもあっけにとられて「あれは汗だったんでしょうかねえ」などと言った。テレビを見ていた私も驚いた。しかし、そのあと中日ベンチのレポーターが「あれは汗ではなかったようですよ」と伝えたのだった。つまり山本昌とは、気持ちの切り替えの実に早い男なのだ。過ぎてしまったことはすぐに忘れて前を向いているといえる。もちろん体格に恵まれたから長く現役を続けられたのだろうが、この気持ちの切り替えの早さが勝負強さの最大の要因だったのではないかと私は思っている。その山本昌が、先日現役引退を表明した西武ライオンズ西口文也同様、日本シリーズではなぜか勝てなかったが(勝ち星なしの4連敗)、他にも北別府学(元広島=日本シリーズ0勝5敗)や斉藤和巳(元ソフトバンクポストシーズン0勝6敗)など、ポストシーズンではレギュラーシーズンでの勝負強さを発揮できなかった大投手がいる。

以上ずっと山本昌をほめてきたので、少しくらい批判しても許されるのではないかと思って失礼を承知で書くが、やはり山本昌は長くやり過ぎたと思う。山本昌は2013年に5勝を挙げているが、その後半の勝ち星の内容はほめられたものではなかった。5勝目は神宮球場のヤクルト戦だったが、それはヤクルト投手陣が序盤から崩れて10失点した試合だった。それなのに山本昌は5回までに5失点を喫し(確か5回裏に4失点)、勝利投手の権利をやっとこさ手にして降板した。これは、前述の「味方打線が8点を取ってくれたら7点までは許」していた頃とはわけが違う。それは押しも押されもしないエース級の投手にのみ許されることだ。2013年の山本昌はもはやそのような立場にはなく、一軍生き残りを賭けて争う選手だった。この試合で山本昌はもう限界だなと思ったし、事実この試合のあと山本昌は二軍に落ちた。

山本昌は翌2014年にはもう二軍でも通用しない投手になっていた。その山本昌が終盤に一軍登録されたのは、中日が優勝争いから完全に脱落し、Aクラス入りも難しくなったからだろう。そのワンチャンスをものにして、選手生活の後半にもっとも得意とした阪神を相手に5イニング無失点で史上最年長先発勝利を記録した集中力には恐れ入ったが、わずか5イニングの働きで次年度(つまり今年=2015年)の契約を勝ちとったようなものだな、とも思った。だから、ジェレミー・モイヤーの持つ50歳勝利記録の更新は難しいだろうと予測したのだった。果たして、山本昌は今年の開幕前の二軍オープン戦で、1球投げただけで故障して降板した。そんな選手が、朝日新聞の全面広告でレスリングの吉田沙保里と対談しているのを見て、一軍登録もされていないのに広告に出てくるなよと正直思った。

中日はもう本拠地最終戦を終えているので、山本昌の最後の登板は8月9日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)ということになるのだろう。この試合で山本昌は、今度は1球降板でこそなかったものの、突き指をして22球で降板した。さすがに長く現役をやり過ぎたと思った。同様の印象は、山本昌が目標にしていた工藤公康(現ソフトバンク監督)からも受けた。

とはいえ、こんなことも思い出す。私は1993年秋に2か月間アメリカに出張で滞在していたが、その頃にテキサス・レンジャーズノーラン・ライアン投手の引退が報じられた。Wikipediaを参照すると、

1993年9月22日のシアトル・マリナーズ戦で1死も取れずに2安打4四球5失点で降板。これが現役最後の登板となった。46歳にして速球は98mph(約157.7km/h)を記録した。

とのこと。このライアンが打たれた試合のスポーツニュースを見たのだ。当時、アメリカ人の暴飲暴食に呆れていた私は、日本人はアメリカ人より平均寿命が長いのに、なんでプロ野球選手の引退は早いのだろうかと悔しく思ったものだった。

それから22年。選手寿命でも日本プロ野球MLBに追いついた。山本昌の背番号は、奇しくもライアンの引退時と同じ「34」である。工藤にせよ山本昌にせよ、引退が遅すぎたきらいがあるとはいえ、道を切り開いた者にのみ許されるわがままだったのだろう。

本当に長い間、お疲れさまでした。

*1:1993年は今中及び横浜の野村弘樹と同数の17勝、1994年は自己最多の19勝。