kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

宮武嶺さんのブログ記事で白井邦彦教授の「徹底した非軍事の思想」に接して、森嶋通夫の名前を思い出した

 宮武嶺さんの下記ブログ記事を読んで思い出したことがあった。

 

blog.goo.ne.jp

 

 以下引用する。

 

 ご存じ、ウクライナ戦争に対してウクライナに即時停戦を求め、ウクライナへの軍事支援を否定する青山学院大学経済学部教授の白井邦彦先生が本日更新されたnote

「パレスチナ問題」の「和平交渉・平和的解決」主張は批判されないのに、「ロシア・ウクライナ戦争」でそれを主張すると、批判されるのはなぜか?

を拝見して、思わず「え!?」と声が出てしまい、そして先生と私とでウクライナ戦争に対する態度が全く違うのはなぜかという疑問が氷解した思いでした。

 白井先生は、イスラエル政府によって蛮行の限りを尽くされているパレスチナ市民に思いを寄せる原稿も多数書いておられるのですが、今回の冒頭で

 

イスラエルによる長期にわたり今なお続く国際法違反・数えきれない蛮行は決してゆるされない、しかし「武力には武力」でという方法は支持できない、それがどんなに困難なものであろうとも、「和平交渉・平和的解決」を望みます。

 

 以下に示されるように、パレスチナ市民の過半数以上が「武装闘争」支持、「交渉での解決支持」はわずか20%、であろうと、やはり、「和平交渉・平和的解決」を主張します。

 

オスロ合意から30年、「合意前より悪化」64% パレスチナ人調査:朝日新聞デジタル (asahi.com)(9/15)』

 

とおっしゃるのです。

 

URL: https://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/486e9566cc6abd83ea25c991be56e1bf

 

 このくだりを読んで思い出したのは森嶋通夫(1923-2004)の名前だった。

 氏は「日本がソ連に侵略されたら降伏する」と主張して1979年初頭に関嘉彦(1912-2006)、同年春には都留重人(1912-2006)とそれぞれ論争した。このうち関嘉彦との論争は論点が明確で、当時高校生だった私は何を隠そう森嶋を支持した。だから白井邦彦教授式の立論も心情としては結構わかるのだ。なお都留重人との論争もネット検索では「防衛論争」となっているが当時からいまいちピンとこなかった。これは都留が朝日新聞の論説顧問を1975年から1985年まで務めた「進歩的文化人」だったからだろう。ただ都留重人に対しては私にはいろいろとわからないところがあった。今回ネット検索をかけても有用な情報はほとんど得られなかったから、当時の論壇でも困惑したという反応が多かったのかもしれないと勝手に想像した。

 つまり高校生当時の私には、侵略者に対して生命を賭けて抵抗する行為が理解できなかったということだ。現在では時間が経つのがどんどん早くなることが実感されて残り時間が目に見えて少なくなる現実を直視せざるを得ないためもあってか、侵略に直面したら命がけの抵抗をするかもしれないと思う。かくして、自分の残り時間の長短というまことに身勝手な理由によって、下記宮武氏の文章を支持する次第だ。

 

 パレスチナ市民の20%が交渉での解決を支持しているのみで過半数武装闘争を支持していることを前提にしながら、それでも白井先生がパレスチナ市民に和平交渉と平和的解決を求めるその趣旨は徹底した非軍事の思想なのだと思います。

 

 しかし、世界で一番非軍事を押し進めた憲法である日本国憲法第9条でも、侵略された時の市民の抵抗を禁じてはいません。

 

 憲法9条は第1項で

 

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

 

と規定して、「国権の発動たる戦争・武力による威嚇・武力の行使」は禁止しています。

 

 しかしそれは日本国が戦争や武力行使をする権利を放棄しただけで、他国の軍隊に侵略されたときに市民が武器を手に取って抵抗する権利まで放棄したものではありません。

 

 また、だから憲法9条はその2項で

 

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。」

 

としていますが、それは国が戦力を持つこと、国が交戦権を保持し行使することを禁止しただけで、市民の抵抗権については何も言っておらず、奪っていません。

 

 それは、立憲主義憲法は市民の基本的人権を保障するために国家の権力を抑制するものであって、国民に義務を課するものではないのですから当然と言えば当然です(納税の義務、教育を受けさせる義務、勤労の義務はいずれも法的義務ではなく、税法などの法律で初めて法的義務となる)。

 

 ですので、白井先生がパレスチナ市民にもウクライナ市民にも、いくらイスラエル軍に蹂躙されロシア軍に侵略されても、とにかく武力闘争はするな、平和的解決をしろというのは、それは一定の要件で自衛権の行使を認める国連憲章どころか、国の自衛権を放棄した憲法9条さえ超える非軍事主義を両市民に押し付けるものです。

 

 いわば、ガンジー流の非暴力抵抗主義をパレスチナウクライナの民に求めるもので、それは白井先生の生き方としては素晴らしいのですが、実際には非現実的で無茶です。

 

 また、私が日中15年戦争で日本軍に侵略されている蒋介石の国民党に連合国側が軍事支援をしたのを私は肯定し、白井先生は否定した意味も分かりました。

 

 白井先生は軍事支援どころか、そもそも大日本帝国に侵略され、傀儡国家の満州国まででっちあげられた中国人民にも武力を持って抵抗するな、平和的な解決をしろということなのですから、それではもちろん他国が中国市民に武器を提供することなど反対に決まっています。

 

 しかし本当にそれでいいのでしょうか?

 

 それではパレスチナ人もウクライナ人も中国人も、イスラエルやロシアや大日本帝国専制支配されても「和平協議」をして「平和的解決」を求めるだけということになります。

 

 そんなのが通用する相手ですか?

 

URL: https://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/486e9566cc6abd83ea25c991be56e1bf

 

 そんな私でも高校生時代から今に至るまで変わらない心情が一つある。それは徹底的な「権力に対する不信」だ。少し前に共産党山下芳生だったかが「志位さんには権力がない」とか言ったらしいがとんでもない。私は高校生時代に起きたプロ野球の「江川事件」に激怒して徹底的な「アンチ読売」になった人間だが、30代の頃には組織内権力の放恣な行使を受けたことから、40代初めにその組織内権力者に「立つ鳥跡を濁しまくる」捨て台詞を投げつける暴挙をもって一部上場企業を辞めた。聞くところによるとその元上司はおそらくたいへんなショックを受けたらしい。しかし彼は岸田文雄や和泉健太も顔負けの権力工作の巧者で、その後別の大会社の取締役に焼け太りしやがった。なお私の退職に対して、本来ならもっと年長者にしか適用されないはずの希望退職制度を例外的に適用する措置を会社にとってもらったことも書いておく。大企業から見てもそのくらいの事情ではあったのだ。その後の私は少年時代からの権力に対する批判をさらに強めた。だから組織防衛の心理機制など私にとっては唾棄すべき以外の何物でもない。そんなことなどもあったから、侵略者に対して暴力的な手段に訴えてでも命がけの抵抗をする心理がわかるようになった。

 なお私は今に至るもさすがに「アッパー」はつかないだろうがおそらく「ミドル」階級には属するであろう人間だ。だから岸田文雄がアッパーミドルを取り込もうと繰り出す魔手に対して怒り心頭に発するのかもしれない。「四十にして惑わず」ととはよく言ったもので、私は30代までの生き方には多くの後悔があるが、40歳以降の生き方で後悔したことはほとんどない。その数少ない例外の一つが、2008年に一度ブログで同調圧力に負けて植草一秀に「謝罪」してしまったことだ。あんなことをしてはならなかった。結局「喜八」らの奸計が功を奏した。最後には私の方から敵方の中心人物の一人に非公開の三行半(みくだりはん)を突きつけて出て行った。政権交代選挙の少し前、2009年初夏のことだったと記憶する。

 なお、以上の文章だけでは森嶋道夫の当時の主張がわかりづらいだろうから、それが記載されている下記ブログ記事から引用する。2022年8月7日に書かれた記事だ。

 

kokoro2016.cocolog-nifty.com

 

ウクライナ戦争による悲惨な声や映像が「リアル・タイム」で伝えられていることで、私たちは大きなショックを受けています。子どもたち、女性、そして老人の死を目の前で見せられ、住宅や学校、病院やショッピング・センターがミサイルや爆弾の標的になっている様子が毎日届くのですから当然です。ウクライナの人々が避難民となって自分の国を離れる悲劇も胸を打ちます。

 

そして連日伝えられる衝撃的な報道から、私たちは戦争の全てを知っていると結論付けてしまうことにもなり兼ねません。民心扇動政治家たちは、このような同情心が作る心の隙間に入り込み、フェーク・ニュースや危険なシナリオを吹き込んでいます。

 

戦争を知らない世代に拙速な議論を吹き込み、誤った結論を流布しているのです。「核共有」、「敵基地攻撃能力」、「日本を強い国にする」、軍事費の「倍増」、改憲による戦争と軍隊の「合憲化」等です。

 

それに対する反論は様々な形でできるのですが、86日を機に、経済学者、森嶋通夫氏の名著『日本の選択』を読んでいます。昭和の名著の中でも特筆に値する一書です。このブログでも西日本豪雨の後、防衛省を防災省に看板替えするようにという論考中に紹介していますが、皆さんにも是非、読んで頂ければと思います。気分が爽快になること請け合いです。

 

《概要》

 

森嶋通夫氏は、1923年に生まれ、2004年に亡くなりましたが、晩年は1988年の定年まで、世界的に有名なロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSEと略されることが多い) の教授として「レオン・ワルラスカール・マルクスデヴィッド・リカード等の理論の動学的定式化に業績を残している」のですが、世俗的にはノーベル経済学賞の候補として何度も名前が挙っていたことでも知られています。

 

『日本の選択』は、19789月に森嶋氏がロンドンから東京に帰る日航機の中で読んだ関嘉彦氏 (早大客員教授) のエッセイを読んでショックを受け、その反論として翌1979年に北海道新聞に書いた反論が元になっています。

 

それに対する関氏の再反論、さらには、この論争に加わった猪木正道福田恆存氏とのやり取りも採録されています。森嶋氏の立派なところは、自らの主張に批判的な関、猪木、福田という三氏の言い分もきちんと取り上げて、真正面からの論争にしていることです。ラベル張りもされていますし、福田氏からは「大嘘つき」とまで言われながら相手が逃げられないようなリングに引っ張り出した上で、胸の空くような論破をしています。その力量とフェアな態度には、ただただ感心するばかりです。

 

ごく簡潔に森嶋氏の主張をまとめておきましょう。

 

森嶋氏が展開する「国防論」は、関氏が「ハードウェア」つまり、軍備を主軸に論じているのに対して、「ソフトウェア」つまり非軍事の外交、経済、文化、そして明示的には示していませんが、災害救助等を中心にした国防論です。

 

 さらに、自分の主張通りのシナリオにならなかった場合、つまり「最悪のシナリオ」ではどう対処すべきなのかという点を、議論の大切な一部として取り上げていることからも説得力が抜群に増しています。

 

 少しセンセーショナルに、森嶋氏の「Worst Case Scenario」をまとめると、もしソ連軍が日本に攻め入って来たら、毅然とそして冷静に降伏して被害を最小限にした上で、ソ連の占領下でも日本社会の強みを生かした、許容範囲の社会を作るということです。もしそうしなければ失われるであろう数十万から数百万の生命を考え、国土の荒廃や財産の逸失を考えると、より損失の少ない選択肢を選ぶべきだ、という結論です。

 

URL: https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2022/08/post-3a2a41.html

 

 また森嶋と関の論争に関する下記「はてなブログ」の記事も引用する。

 

kakutsuu.hatenablog.com

 

 1980年前後に行われたそうで、いずれ詳しい書誌情報を調べ、自分なりに読むことにします。

 今確実に言えるのは、私は白旗赤旗論には断固反対です。しかし関嘉彦(河合栄治郎の弟子で、社会思想社の設立にも関わっているそうです。妙なご縁を感じはしますが)の反対論のような、対米同盟と軍事力強化という路線が「現実的」かというと・・・・・・どうも異論があります。

 要するに、私はジレンマに陥っているわけです。軍事独裁国家への安易な降伏論は侵略戦争を誘発しかねないからダメ。しかし防衛力(という名の攻撃力)増強は、必然的に軍拡競争を招き、いずれは必ず戦争に至るからこれもダメ。

 となると私に残された道は、自らは暴力・軍事力を手にすることなく、軍事独裁国家の侵略意図を食い止め、戦争を止める道しかなさそうです。ばかげて見えるほど困難な道ではありますが、前二者(白旗赤旗論、軍備防衛論)よりはまだ望みのある道と考えています。

 思えば過去の平和主義者たちも、上記のジレンマに悩まされてきました。ある者は平和優先主義から正戦論にすべりやすい坂を落ち込み(矢野龍渓を念頭に置いています)、反対方向の者は宗教的な無抵抗主義に走りました(トルストイを念頭に置いています)。どちらも避けるべき道です。

 第三の道(前述の「私に残された道」)を選んだ平和主義者もいます。当ブログがたびたび引き合いに出す村井弦斎は、通常兵器の廃絶を訴える一方、ソ連軍の日本人虐殺を非難しており、白旗赤旗論のような無抵抗主義とは無縁でした。今刊行を考えている『戦争の止め方』では、大々的に彼ら第三の道を選んだ絶対平和主義者たちを論じたいものだと思います。

 

URL: https://kakutsuu.hatenablog.com/entry/2023/06/03/042842

 

 上記のような平和論・抵抗論に対する立場はさまざまだろうが、私が絶対に必要だと考えているのは権力(者)を縛るシステムだ。保守思想には「立憲主義」があり、おそらくこれが保守思想における唯一の取り柄だろうと私は考えている。しかし自民党安倍晋三菅義偉岸田文雄らが権力を放恣に行使していることからも明らかな通り、自民党立憲主義に立つ政党ではない。それどころか、東大法学部で立憲主義の権威に学びながら「立憲主義なんて聞いたこともない」と放言した元国会議員(現在落選中)までいる。

 また共産党も「志位さんには権力がない」という幹部議員の発言から権力を縛る思想が党にはないと解される。某新選組には組の規約に独裁条項まである。「立憲」を党名に冠する立民でさえ党内権力工作を大の得意とする人間が党代表にのし上がり*1、支持者に蔓延する組織防衛の心理機制に党執行部が支えられている。どの党をとってもとんでもない惨状だとしか思えない。

 ところで現在、関・森嶋論争に言及したがるのはネット検索で見る限り産経やアゴラなどの右派が多いが、彼らの共通点として「権力を縛る」観点が完全に脱落していることが挙げられる。だから彼らは自民党や故安倍晋三らを決して批判しない。

 ウクライナ戦争に言及する時に「ロシアにはプーチンのような独裁権力(者)を縛るシステムがない」という認識を欠かしてはならない。この視点がないとトンデモな意見にしかならないと確信する次第。

*1:比較少数政党出身の人間が党首にのし上がるためには相当程度の権力工作を必要とする程度の想像力が立民の支持者たちには求められると私は考えている。組内でそれなりに出世した某新選組櫛渕万里についても同様のことがいえるだろう。