kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

国民民主、乙武洋匡氏の推薦決定を見送る 衆院東京15区補選(毎日)

 昨日は衆院東京15区補選に出馬表明した酒井菜摘氏の選挙事務所が、3年前の衆院選で井戸まさえ氏の選挙事務所に使われた同じ場所に開設されようとしているのを見た。プレハブの建物で、以前は「甲浦(かんのうら)漁港 産地直送」と看板に銘打たれた居酒屋があったがコロナ禍で閉店した。甲浦といえば高知県徳島県との県境から入ってすぐのところにある漁港で、かつては甲浦村転じて甲浦町だったらしいが、1959年に自治体の合併によって東洋町に属するようになった。なんだ、東陽町ならぬ東洋町から木場への産地直送かよと、あのあたりの住民しかわからないネタでひそかにウケていたのだった(当時の居酒屋、現酒井菜摘選挙事務所は地下鉄木場駅近くにあり、東陽町に隣接している)。そういえば3年前の衆院選の時には事務所から出てきた井戸氏から声掛けされたこともあったのだった。こちらは急いでいたし、井戸氏もその日の出陣だったようで、二言三言聞いただけで終わってしまったけてども。昨年の区長選では大久保朋果現区長の事務所開きの日の夕方、区長選で酒井氏らを破って当選した大久保現区長本人と接近遭遇したこともある。このことは弊ブログに以前書いた。なお酒井氏の現選挙事務所は、その前にはダンスの練習場に使われていたようだが、あまり頻繁には使われていなかったのではないか。少なくとも建物から人が出入りしたのを見たことはなかった。

 結局民民(国民民主党)は乙武洋匡の推薦を見送った。自民が推薦するならうちは推薦しないなどとわけのわからないことを言っていたが、自民が何も決める前から推薦を見送ったのは、各党の中で一番早く乙武の推薦を仄めかしておきながらの翻意だ。

 

mainichi.jp

 

国民民主、乙武洋匡氏の推薦決定を見送る 衆院東京15区補選

毎日新聞 2024/4/10 17:01(最終更新 4/10 20:35)

 

 国民民主党は10日、国会内で両院議員総会を開いた。衆院東京15区補選(16日告示、28日投開票)に出馬予定の作家、乙武洋匡氏の推薦決定は見送った。総会後、舟山康江両院議員総会長は「乙武氏から推薦依頼が出されなければ推薦することはない」と語った。

 

 乙武氏は小池百合子東京都知事が主導して擁立し、8日の記者会見では各政党に対し、「推薦依頼を出している事実はない」と述べていた。国民民主は小池氏と選挙協力を進めてきたが、自民党乙武氏を推薦する可能性を懸念する意見がある。玉木雄一郎代表は「自民党との相乗りは想定できない」と説明している。【田中裕之】

 

URL: https://mainichi.jp/articles/20240410/k00/00m/010/222000c

 

 ところが玉木雄一郎らの懸念が解消される可能性が出てきた。

 

www.47news.jp

 

乙武氏の推薦見送り案が浮上 自民、東京15区補選で

2024年04月10日 18時54分

 

 衆院3補欠選挙(16日告示、28日投開票)の一つである東京15区補選に無所属で出馬する作家乙武洋匡氏を巡り、自民党内で推薦を見送る案が浮上した。推薦を検討していたが、乙武氏から正式な依頼がなく、関連の手続きを進められないと判断したためだ。過去に報道された乙武氏の女性問題に対し、自民内で反発が出ていることも影響しているとみられる。複数の関係者が10日、明らかにした。支援の在り方は引き続き協議する。

 

 乙武氏については、小池百合子東京都知事が特別顧問を務める地域政党が設立した「ファーストの会」が推薦する見込み。独自候補擁立を見送った自民は、小池氏が立てる候補に相乗りする算段だった。

 

共同通信より)

 

URL: https://www.47news.jp/10772709.html

 

 普通に考えれば、自民が推薦を止めるなら、もともと乙武に難色を示していた公明も止めるだろう。そうなると、ファ◻︎ストの会単独の推薦になるが、最大の頼みである公明の組織票が得られなければ乙武に勝ち目はない。そうなると、最初から負けがわかっている候補を推薦する必要などないからファ◻︎ストの会も推薦しない。これではどうしようもないから乙武が出馬を取り止める。こんな展開も見えてくるのだが、はてさてどうなることやら。

 ところで、あまり言われないことだが、私は今回の補選の行方を決定するのは、これまでの衆院選柿沢未途に投票していた人たちが誰に投票するかということだと思う。

 彼らこそ江東区政治勢力でもっとも多数を占める人たちだからだ。

 たとえば前回の衆院選では、柿沢は自民党都連が執着していた下村洋史、この極右人氏は立民から藤原規眞氏が立候補を予定している愛知10区から自民党公認で出ようとしてなかなか公認を受けられなかった弱小候補のようだが、その下村の3倍近い得票で圧勝した。私が投票した井戸まさえ氏も健闘したのだが、前回は維新の金沢結衣に反自民票をかなり食われて比例復活はならなかった。私が常に金沢を強く警戒するのは、この選挙で手痛い目に遭った印象が強いからだ。

 ところが柿沢は2014年衆院選では、維新の党という、日本維新の会(旧)と結いの党が合同してできた政党の公認を受けて当選した。つまり金沢とも一定の親和性がある。しかしその後維新の極右系と分化して民主党と合流した民進党に属したし、例の「ごまかすために雪を食った」酒気帯び運転で議員辞職した都議の頃には民主党に属していたから、旧民主系とのパイプもある。自身は希望の党に行ったものの、民民には行かずにしばらくは無所属で、2019年に酒井菜摘氏が初当選した区議選では、立民の候補にもしきりに接触していた。酒井氏とも一度会ったことがあるはずだ。当時私は、酒井氏はあんな奴には近づかない方が良いぞと、自分は立民でも共産でもない候補に投票することに決めていたくせに気を揉んだものだ。幸いにも酒井と柿沢は一度会っただけで終わったようだ。あの当時、柿沢は立民入りでも画策してやがるのかと強く警戒していたが、結局柿沢は立民には行かずに自民党に行った。でも以上の経緯があるから、柿沢の票は乙武にも酒井氏にも須藤元気にも流れ得る。しかし一番想定しにくいのは単なる極右系、つまり今回は出ないままに終わるのかもしれないけれども山崎一輝が属する自民党安倍派、頼山陽だか飯山満だか紛らわしい名前の人などといった極右系に流れることだ。

 でも、地元では「柿沢党」というらしいのだが、彼らの票がどういう配分で各候補に流れるかは全く読めない。だから、選挙結果がどうなるかは蓋を開けてみなければわからない。その意味でも、立民執行部だか都連だかの一定の人たちに、無所属で出る須藤元気に乗ろうとした動きがあったことは痛かった。

 しかし、小池が切ってきた乙武洋匡というカードは、立民系が結局切るのを踏みとどまった須藤元気以上の悪手中の悪手だった可能性がある。

 結局今回の衆院東京15区補選は、誰が勝っても「勝ちに不思議の勝ちあり」の選挙になると思う。裏を返せば、負けた場合には「負けに不思議の負けなし」である。たとえば金沢結衣が負ければ、それは維新が大阪万博固執して支持率を低落させたせいだということになる。現に江東区長選に維新は誰も予想できなかった大大大惨敗を喫しており、今回の補選にもその影響は残っているとみられる。酒井陣営及び自公ファ系については前述の通り。

 最後に、弊ブログにいただいた長いコメントを紹介する。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 こじこじ

>この国の人々は、あまりにも(身近な=つまり自らが支持する)権力に従順でありすぎるのではないか。言い換えれば、あまりにも権威主義が強すぎるのではないか。
>この状態からいかに脱却するかが、現在のような大きな変革の時代に生きる人々にとっての最大の課題の一つだ。私はそのように信じて疑わない。

もう本当に一言一句同意するところです。しかし同時に、この現実こそがこの国の絶望の深淵そのものではないでしょうか。

この国は、骨の髄まで権威主義に浸かり切っています。しかしそれは、ほとんどの権威主義的行動が無自覚の発露であることを意味しています。無自覚な悪癖を直すことにどれほどの苦労が伴うか、よくご存知のことと思います。そのような苦労を自発的にするように、変革を促すことは可能なのでしょうか? それもこれまで自発的な反抗などしたことがほとんどないような人々に、です。難しいのは、それを強要した時点で既に権威主義的との批判を免れないことです。それはアナーキズムのジレンマにも通じますし、党の体質批判を「反革命」と呼んで激しく糾弾する日本共産党の姿も重なりますが、権威に対抗するためには同じ方向を向いて一つにまとまらなくてはいけないが、それは完全に自発的な意志によるもので強制されてはいけない、という単純かつ当たり前のことを実現するのが洋の東西を問わずいかに難しいことか、いわんや西欧や米国と比較して個人主義の薄弱なこの国においてをや、と思います。

もっと難しいのは、自発的な連帯です。理不尽な権力の横暴に晒されることは、場所にやる濃淡はありますが、確率的な事象であって誰にでも起こりえます。そして本人が晴天の霹靂に怒り抗おうとするのは自然なことで、本人の意識変革次第で(或いはそんなものなくても)十分期待できますが、この国ではそういう虐げられた人を助け、連帯しようとする動きがとてもとても弱い。みんな人ごとだったり、何かあったときの報復が恐ろしいのでしょう。中には抵抗を批判し、嘲笑い、叩き折ろうとする権威主義の権化のような人も大勢いて、ブログ主の主要な批判対象は後者のような「輩」と推察しますが、そうした人、殊に無意識にそうした行動を取る人には自主的な変革など迫るだけ無駄でしょう。必要なのは、そういった個人を迫害する悪意を社会から叩き出すことです。それ自体が権威主義的行動に繋がってしまいうる自己撞着については既に述べましたが、それをさて措いたとても、そうした他人に向けられた悪意に立ち向かう勇気をどれだけの人が持ち合わせているでしょう? 60年・70年安保や全共闘などを引き合いに出さずとも、「反逆者は社会的に抹消される」というナラティブは、既にこの国に広範に敷衍しきっています。迫害を受けた人を助けるには、まずその周囲にいる人たちがこの思い込みを打破し、横に立ち、戦いを支えてやらなくてはいけません。しかし現実には、誰も助けない、或いは助け舟が少なくて、文字通り孤立無援のまま各個撃破されて負けてしまう。「誰も守ってくれない」「頼れるのは自分だけだ」という諦めが、周り回って絶望の社会を自己実現してしまっていることに、みながもっと自覚的でなければなりません。しかしこの思い込みはとても強固で、しかも日ごとに社会的現実がそれを補強し続けているという現状があります。普通の人にその恐怖を乗り越えて連帯せよ、と呼び掛けるのは少し虫が良すぎるでしょう。玉砕覚悟で権威に立ち向かえるような人は少数派です。普通は後に続いてくれる人がいると分かっているからこそ立ち上がれるわけですから。かと言って思い込みを頭ごなしに否定したりするのはあまり良い手段とは言えません。反逆者を体制が潰そうとするのは事実ですし、その危険かあるからこそ連帯しなければならないわけで、そういったごまかしには人はかなり敏感に反応します。結局、一人一人の思い込みを解きほぐし、根気よく説得しなければならないのですが、普段から政治的会話が忌避されることが当たり前になっているこの国で、そうした対話が社会を変えるまでに広がるのに、いったいいつまでかけたら良いのでしょうか。政治が変われば、といった次元ではなく、文字通り一人ひとりの意識変革が必要だからこそ、時間がかかります。世代が丸ごと入れ替わる方が早いのではないでしょうか。

他方、直接に関わらない領域からは、無関心の壁を越えなくてはいけません。インターネットやマスメディアはこの意味で有力なツールですが、既存メディアは完全に既存の権威に染まった対世論向け宣撫組織でしかなく、インターネット世界は現実と接続しない「ネット軍師」と陰謀論者の草刈場と化しています。彼らの権威に転んでしまえば、これまたネットに蔓延る逆張り体制擁護派とのネットバトルや「Twitterデモ」でガス抜きしては何かやった気分になるだけに終わるでしょう。そこから頭一つ抜け出すには現実と接続して、何か意味のある行動を組織するしかないですが、そうなればわっと群がってきた既存の組織にあれよあれよと絡め取られて取り込まれ、バラバラに解体されてから「組織の論理」という名の新たな権威主義で潰される。どこかの権威に潰されそうになっている時に別の権威から手を差し伸べられて、それを手に取らないのは難しいでしょう。ましてやその手の持ち主が良識ある個人主義者の集まりなのか権威的組織なのか見抜くことなど、どだい不可能な話です。まるでヤクザの手口ですが、この国には、個人の反逆を抑制し懐柔し、叩き潰す為の罠が、見渡す限りありとあらゆるところに仕掛けられているのです。そうした「内紛劇」を見せられた市井の人に、無関心に陥らず権威主義入れ子構造を踏まえて適切な反応を、というのは高望みが過ぎるでしょう。おまけに最近は「暇アノン」に代表されるようなネットの悪意をそのまま社会実装したような集団が顕現してきて、実相のレベルで社会運動を破壊してやろうと手ぐすねひいてるような時代です。「政治に関わる奴らはやっぱりうさんくさい」と言われないようにする為には、こうした罠に全く引っかからないように立ち回りつつ、社会的に影響のあるレベルまで活動の幅を広げていくしかありません。そんなこと果たして可能でしょうか。

唯一希望らしきものがあるとすれば、そうした社会的しがらみに囚われず、失敗経験による恐れを持たない若い人や海外出身者による発信や行動でしょう。しかし折からの少子化に加え、教育利権は清和会に連なる権力権威がみっちり詰まっており、外部からの意見も国民挙げての閉鎖志向、排外志向で、聞く耳どころか、そもそも人を入れない、意見は言わせず使い潰す、と徹底しています。体制の恐れの表れとも見えますが、高い期待を持てるような状況にはなく、「個人抑圧」の手段は増える一方になっています。

僕はこの国はもう一種の「技が極まった」ような、恋愛ADVなどでいうところの「ルートが固定された」状態にあって、抜け出せない、変更はもはや効かないものと考えています。「行く先はロシアかイスラエルか」と言っていた人がいましたが、僕は北朝鮮ではないかと思って……まあそんな行き先の違いはどうでもよくて、国の行く末を変えるのが難しいならば、個人のレベルで脱却するには国を出るのが一番簡単という話になります。僕はそこまでして生き残るほどの未練もないしいいや、ということで残りましたが、言ってしまえば世の中の人みな、その程度のこだわりしかないからこういう国こういう社会になっているわけで、社会を変えようなどとは考えず、「望む」通りに滅びに任せる(そして嫌な人は逃げる)ほうが、お互いのため。そういう状況に、もうこの国は来ていると思います。

僕自身もこんなことを言いながら目の前で苦しむ人に助けの手を差し伸べられず、あの時「見殺し」にしたのではないかという後悔がいくつもあります。人間に完璧はありませんが、そのように強く意識づけていなければ(意識していても)人助けもままならない社会になっている時点で、きっと何かがおかしいのです。まあこの場合、おかしいのは僕の方かもしれませんが。

一度文書が間違えてF5で飛んでしまい、記憶を頼りに書き直していたらこんな時間になってしまいました。長文で申し訳なく思います。

 

 特に、下記のご指摘はまさにその通りです。

 

もっと難しいのは、自発的な連帯です。理不尽な権力の横暴に晒されることは、場所にやる濃淡はありますが、確率的な事象であって誰にでも起こりえます。そして本人が晴天の霹靂に怒り抗おうとするのは自然なことで、本人の意識変革次第で(或いはそんなものなくても)十分期待できますが、この国ではそういう虐げられた人を助け、連帯しようとする動きがとてもとても弱い。みんな人ごとだったり、何かあったときの報復が恐ろしいのでしょう。中には抵抗を批判し、嘲笑い、叩き折ろうとする権威主義の権化のような人も大勢いて、ブログ主の主要な批判対象は後者のような「輩」と推察しますが(後略)

 

 いや本当にその通りで、私も「青天の霹靂」の人事をやられたことがあります。井戸まさえさんはそれを衆人環視の国政選挙でやられたわけで、それにも関わらず、次の政党執行部になったらいっこうに選挙区の総支部長に再任されないまま、今回結果的には立民公認候補の当選可能性も少なからずあり得る選挙に立候補できなかったわけです。

 そのことに思いを致すこともできず、かつてあれだけ井戸さんに同情していた人も、井戸さんよりも立民現執行部というか党代表を守るために(だろうと推測していますが)沈黙してしまいました。こういう状況が許せないわけです。

 先日、さるブログのコメント欄で、いやはっきり書いた方が良いですね、宮武嶺さんのブログのコメント欄で、最近のKojitaken氏はすっかり政局だけの人になったとかなんとか書かれていたのを見てブンむくれていたのですが、伝わる人には伝わるものですね。やはりXなんぞにかまけてないでブログを続けていて良かったと心から思います。

 コメント、どうもありがとうございました。