kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

野田佳彦の論功行賞人事に呆れ返った

 いやあ、立民新代表・野田佳彦の執行部人事はすさまじかったな。自制しようと思っていた「野ダメ」の3文字が思い浮かんでしまった。

 私が思い出したのは2002年9月の代表選に勝った鳩山由紀夫の人事だったが、これを指摘する人はそんなにいないんじゃないかと思ってたら、最近Xで注目するようになった「まつもと」氏が指摘していた。私より相当に若い人だと認識しているが、さすがだ。但し私は「まつもと」氏のように「昭和50年代」のあとに「90年代」が続くというような時代感覚など全く持たないけれども。私が意識して元号を使わずに西暦を使うようにし始めたのは1977年の終わりから 1978年の初め頃にかけてのことだったからだ。この年の元旦に、毎日新聞の頁の一番上に表示される年数表記が「昭和(西暦)」から「西暦(昭和)」に変わった。それは私が西暦表記の使用を意識し始めたのとちょうど同じタイミングだった(私が意識した方が少し早かったから、別に毎日新聞に影響されたわけではない)から、大いに意を強くした。朝日はその2年前の1976年元旦から「西暦(昭和)」にしていたが、その他の新聞が両紙に追随したのはずっとあとのことで、他紙で一番早かったのが日経だった*1。そのタイミングはなんと1988年秋に昭和天皇の重体が報じられた直後で、経済紙だけに改元されると年数を計算する時に不便になるからだろうけれどもドライなもんだなあと感心した印象が強い。読売など多くの新聞は昭和天皇が死ぬ直前の1989年元旦から「西暦(元号)」に切り替えた。未だに「元号(西暦)」または元号オンリーの表記を使っているのはたぶん産経とか北國新聞くらいのものなのではないかと想像している。産経は間違いなくそうだが、北國新聞がどうかとか、他に同様の一般誌があるかどうかは知らない。あの四国新聞でさえずっと前から「西暦(元号)」表記になっている。私が高松に移住した2003年には既にそうなっていた。

 話がそれたが、「まつもと」氏の当該Xを以下にリンクする。

 

 

 民主党の補選敗北は覚えていなかった。論功行賞人事の他に鳩山の、というか民主党の支持率が暴落した要因がもう一つあって、それが小沢一郎自由党との合流を強引に推し進めようとしたことだった。結局補選の惨敗と政党支持率の低迷を受けて再度代表選が行われ、それには鳩山は出ないで菅直人岡田克也が立候補して菅が勝った。それで2003年衆院選で躍進したが、翌年に年金未納問題で辞任して岡田克也が後任代表になり、2004年参院選で50議席を獲得して自民党の49議席を1議席だけ上回った。だが当時の民主党は「カイカク」で小泉純一郎に靡いた新自由主義政党であって(中でも最悪だったのは2001年の国会で鳩山由紀夫小泉純一郎に「共闘」を申し出たことだった)、ネオリベイカクでは小泉・竹中の方が本家本元だったから2005年の衆院選民主党は木っ端微塵にされ、それを受けて代表になったのが前原誠司だった。その前原とコンビを組んで前原執行部を主導したのが野田佳彦だった。枝野幸男凌雲会所属だったから2005年代表選では前原に投票したと思われるが、2002年12月の菅直人岡田克也との代表選では枝野は菅の推薦人になっていた。つまり凌雲会の縛りがない限りにおいては菅と岡田との比較であれば菅をとる程度の立ち位置ではあったようだ。とはいえこの時点では私は枝野については「ワンオブ凌雲会政治家」の認識しかなかった。むしろ、私が住んでいた選挙区(香川1区)の小川淳也の方が、凌雲会とは思えないリベラル色のある(リベラル色が強いとまでは言わない)政治家だなという印象を持っていた。その小川が前回衆院選では開票日に敗戦の弁を述べている枝野が維新を「自公の補完勢力!」と決めつけた時に色をなして反論したために代表選ではせっかく潜り込んだサンクチュアリに梯子を外された(当たり前だ!)。つまり、小川の方が枝野より「右」になってしまったわけだ。前回の代表選で小川の苦境を救ったのが野田佳彦であり(泉健太を応援する岡田克也は野田におかんむりだったらしい)、今回も自らは立候補せず野田を推した論功行賞で幹事長に抜擢された。私にはトンデモ人事だとしか思えないけれども。あと、重徳和彦政調会長就任もひどい。私はもともと「直諌の会」など大嫌いだったから、野田執行部にはお似合いだとは思うけれども。

 今回は補選どころか衆院選の本選が控えている。特に明後日に投開票日が迫った自民党総裁選で小泉進次郎が勝ったりしたら、臨時国会開会いきなりの解散総選挙だろうから、2002年の民主党と同じように今年の立民が二度の代表選を行う可能性も相当程度ある。もちろんそれは「まつもと」氏が書く通り、立民が前代表の泉健太が公約した150議席を獲れなかった場合の話だ。

 まつもと氏のXでは下記も味わい深い(笑)。

 

 

 しかし下記のXには異論がある。

 

 

 これは、NTYD氏の下記の一連のポストを受けた発信だ。

 

 

 

 

 「中谷さんが暴露した」とは、「直諌の会」の中谷一馬の下記ポストを指す。

 

 

 確かに、「直諌の会」、特にボスの重徳和彦が早い時期から野田佳彦を立てての泉健太追い落とし工作を行っていた蓋然性がきわめて高い。そもそも重徳は野田佳彦小池百合子というより細野豪志に「排除」された時に、野田とともに無所属からの出馬を選んで当選した人で、旧「希望の党」の泉に対する怨念は相当なものだったに違いない。

 しかしNTYDさんの想像は正しくない。最後のポストについた新選組支持者の観察の方が正しい。

 

 

 その通りだ。枝野幸男が昨年夏に発表した「枝野ビジョン2023」は、それまで自民党への「対案路線」に走ったり、日本維新の会にすり寄ったりしていた泉健太に対するみごとなアンチテーゼになっていた。私は元号新選組など党名に元号を冠しているだけでも大嫌いだし、「消費税減税真理教信者」を多数生み出した有害極まりない政党だと考えているが、その政党を支持するこの人の「岡目八目」が的を射ていると確信する。

 むしろ、野田こそラスボスだと遅くなって気づいた泉の方が代表選で枝野の立ち位置にすり寄ってきたとみるべきだ(泉は平時での権力工作には巧みだけれども、ガチンコの権力闘争はむしろ苦手な人のようだ)。だから下記立憲カジュアル党員氏のような感想が出てきた。

 

 

 上記Xの結びに「代表経験者としての視点がついてきた証でしょう」と書かれているが、これは甘い。野田との権力闘争ですっかり右側を押さえられてしまったので、自らの立ち位置を枝野に寄せざるを得なくなったと見なければならない。学生党員さんはまだ若いので、人間の権力欲のすさまじさをまだよくわかっておられないのではないかと思う。私はそれで痛い目に遭ったので、政党の運営にも立憲主義を導入せよと主張し続けているし、民民に行ったからといって井戸まさえ氏への同情心を失ったりはしない。

 学生党員さんと近い年齢であろう「きょんきょん」氏にもその甘さを感じる。

 

 

 私は、今回枝野が出たのは、これ以上泉に代表をやらせ続けたら立民の組織をガチガチに固められて代表選での勝ち目がなくなるからだと考えている。

 立民支持層の方のXにはそれを指摘した例には一度もお目にかかったことがないが、ベテランブロガーで私と年齢が近い(私の方が一歳上だろうか)宮武嶺さんにはご賛同いただいているので以下に引用する。

 

blog.goo.ne.jp

 

 しかし、古寺さんや私が指摘したのは実は枝野氏の敗因ではない気がします。

 我々は政策本位で政党を選んでいるから、以上のような意見になりますが、本当は政策なんてみんな二の次なんでしょう(-_-;)。

 今回の立民代表選の勝敗に限って言えば、これも古寺さんが再三指摘されてきたことですが、泉健太前代表が旧希望の党や国民民主党に近い人間を各支部支部長=衆院選の立候補予定者にシフトしてきたことが、枝野氏の敗因、野田氏の勝因だと思います。

 だって、泉氏は1回目の投票で全体で3位となったものの、候補予定者票では野田氏に次ぐ2位でしたもんね。

 もっと言えば、2017年に立党したときには旧民主党よりはるかにリベラルだった立憲民主党に、旧民主党の野田氏や小沢氏を入れたこと、そして旧希望の党の泉氏らを入れてさらに国民民主党の大半を合流させたこと。

 この立民の拡大路線が枝野氏の最大の失敗であって、泉氏に続いて野田氏と、見事に軒先を貸して母屋を乗っ取られたわけです。

 国民民主党などが合流する前の旧立憲民主党の魅力は、鳩山由紀夫氏と小沢氏という元自民党の大物と市民派菅直人氏で作った旧民主党よりリベラルなところにありました。

 立民はその純化路線を貫き、元民主党の泉氏や小沢氏らには国民民主党、野田氏や岡田氏には「無所属の会」にいてもらって、立民の中に入れずに「外側」の存在のまま、選挙協力などをすればよかったと思います。

 

URL: 

 

 私の意見は宮武さんに近いけれども少し違っていて、それは包括政党化を必ずしも全否定しないところにあります。

 私は2020年の旧国民民主党の一部などとの合流(社民党の一部の合流しましたが)よりも、旧立民が発足した最初の年に当時バリバリの新自由主義者だった蓮舫や強硬な右翼の山尾(現菅野)志桜里らの入党を簡単に認めたことにあったと思います。当時ブログ記事で私はそれを批判しました。下記は2017年12月28日の記事。

 

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 政党の「純化」は発足当初にこそもっとも強く求められるというのが一貫した私の意見です。その後、政権獲得を狙えるような規模になって初めて「ウチはこんな理念の政党だけれどもそれでも構わなければどうぞ」という態度で入党社を受け入れれば良い。議席数が敵を上回らなければ政権は取れず、自らの理念を現実の政治に反映させなければならないのですから、数合わせは政権を狙えるような規模になった政党にとっては必要悪でしょう。しかし、そんな規模に達していない結党最初の年から蓮舫や、ことに山尾志桜里のようにアクの強い新自由主義者や右翼を入れたら、乗っ取られるリスクが高まることは必定です。

 もちろん2020年に枝野が小沢一郎泉健太、特に小沢を受け入れたのは大大大失策ではありました。この点については、小沢をもはや「終わった政治家」と馬鹿にしていた私も大甘でした。まさか3年前には泉を、そして今回は野田を代表に押し上げる「剛腕」が選挙区当選もできなくなった小沢に残っていようとは想像していませんでした。

 でもやっぱり最初の年に門戸を広げすぎたのが枝野幸男最大の失敗だったと思います。

 なお、泉健太の党内多数派については2023年1月8日付記事で論じた。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 特に上記記事からリンクした都道府県連代表人事を色分けした「立憲ナビ」のXがわかりやすいと思う。

 

 

 ただ、上記記事を書いた頃にはまだよくわかっていなかったが、都道府県の最高実力者は必ずしも都道府県連の代表ではない。たとえば東京都連では代表の長妻昭ではなく野田Gの手塚仁雄広島県連では代表の佐藤公治ではなく泉Gの森本真治が独裁しているようだ。ただ総支部長に初回投票では泉健太、決選投票では野田佳彦を選んだ人が多かったことは事実で、それを泉や野田が彼らに信頼されていると見るのが間違いで、泉や野田のグループの人間がそういう人たちを選んだとみなければならない。

 なお最後に、野田に対する寸評としては年若き「きょんきょん」氏がいいところをついていると思った。それを紹介して締める。

 

 

 

 

 野田が「絶望的に政局のわからない人」だというのは本当にその通りで、私が反射的に思い出すのは「偽メール事件」で党員から自殺者を出してしまったことだ。

 立民に入っても野田はまた「やらかしてしまう」のだろうか。

*1:とはいえ朝日も毎日も、記事の本文ではずっと「六十三年」などと「昭和」を省略した年数表記をしていて、私にはそれが目障りでならなかった。現在のように本格的に西暦表記をするようになったのは、昭和天皇が死んで「平成」に改元されたあとのことだった。