kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「『上級国民』家族が背負う十字架 バッシングを激化させた情報とは?」(佐々木央)

 昨日(10/14)注目したのは、下記共同通信の佐々木央編集委員の署名記事。リンクは共同通信Yahoo! JAPANの2つがあるが、内容は同じ。

 

www.47news.jp

 

news.yahoo.co.jp

 

 この日記でも先日取り上げた阿部恭子氏が「現代ビジネス」に発表した記事を引用しつつ、佐々木記者は感想を述べている。以下引用する。

 

(前略)事件事故を担当する社会部記者として仕事をしてきて、こういう事態を知らないわけではなかったが、目を背けてきた。いや、加担してきたと認めるべきか。だが、阿部さんのリポートを読んで、メディアや個々の記者にできることはあると感じた。

 

 ■対象への接近という基本

 

 大事件や大事故の発生直後、現場は混乱し、不確かな情報も氾濫する。それに惑わされたり、拡散してしまったりしないためにどうするか。あるいはそうしてしまったとして、その後、どうするか。

 

 阿部さんを通じて加害者家族が訴える“誤情報”について、具体的な対応を考えてみた。それは対象への接近という、記者にとってはとても基本的なことだ。

 

 まず、加害者が息子に電話をかけた時刻を厳密に確認する。警察だけでなく、飯塚元院長や息子にも聞きたい。予約したという店を訪ねる。どんな店なのか。行けば、来店時の元院長の様子も聞くことができるだろう。

 

 運転を控えるよう指示したと報じられる医師にも会いたい。患者のプライバシーに関わるからハードルは高いと思うけれど、元院長や息子が許したら、話してくれるかもしれない。  そして何より、懲罰的な気持ちを捨てて、元院長や家族に話を聞きたい。

 

 本稿の最初の方で「2種類の弱者」と書いた。しかし、重大な事件が起きたときに傷つくのは被害者側と加害者側だけではない。それに比べれば、はるかに小さいけれど、社会もまた傷つき、おののく。そして、その集積は強い力を持つ。このたびの池袋事故の被告への厳しい反応もその現れだろう。

 

 加害者側の真摯な応答は、そうした傷を癒やすのに役立つと、私は信じる。  この原稿を書き終えたら、元院長や家族に会えないか、阿部恭子さんに頼んでみるつもりだ。

 

(佐々木央「『上級国民』家族が背負う十字架 バッシングを激化させた情報とは?」=47NEWS 2020/10/14 07:00; 10/14 19:34 updated)

 

出典:https://www.47news.jp/47reporters/5370514.html

 

  ところがこのような問題になると、「はてな民」も「ムラ社会」、あるいは「世間」ぶりをむき出しにする。ブックマークの多いYahoo! JAPANの方から、数少ないまともなブコメを下記に示す。

 

「上級国民」家族が背負う十字架 バッシング激化させた情報とは?(47NEWS) - Yahoo!ニュース

メディアが本来為すべき仕事を冷静に綴った良記事。大袈裟に情感たっぷりでお涙頂戴の記事を撒き散らして大衆を扇動するのはメディアの仕事じゃない。そして相変わらずブコメ欄は醜悪。

2020/10/14 16:03

b.hatena.ne.jp

 

「上級国民」家族が背負う十字架 バッシング激化させた情報とは?(47NEWS) - Yahoo!ニュース

未だに事件初期に出た「怪情報」を真実として、加害者家族を叩いてる連中がいるのが本当に救えない。同乗者がICU行きだったってこの記事にすら書いてあるのに、目に入ってないらしい。

2020/10/14 23:25

b.hatena.ne.jp

 

 

 加害者家族の問題といえば、これを題材とした東野圭吾の小説『手紙』にもこのところ繰り返してこの日記で言及しているが、作者の東野圭吾自身が「加害者家族は差別されて当然だ」と認識しているとの情報を下記読書ブログの記事のコメント欄にお寄せいただいたので、以下に紹介する。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 オーウェル

 

初めまして。ブログをいつも拝見させていただいております。
「手紙」に込められた東野圭吾の意図ですが、「加害者家族が差別されるのは当然である」というものであったと記憶しております。平野社長こそ、著者の忠実な代弁者ではないかと。
なぜ、著者の意図についていえるかと言いますと、「手紙」の初の映画化の際に、記事の中で、本人がはっきりと言っておりました。どの雑誌や書籍に乗っていたのかは、失念してしまいましたが・・・。
また、下記の2005年5月の中央公論の記事にも、大体同趣旨の内容が書かれていたはずです。
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7307150-00
わざわざこのような事を書かせていただいたのは。同人が加害者家族などの問題に理解がある、差別に反対している、という誤解が、定説として定着しつつあるように思えるからです。

 

 東野圭吾の小説で時々思うのは、これまでにも何度か指摘したと思いますが、作中に労働問題などが取り上げられても、そのテーマが深まっていかず、その点で松本清張の小説と強い対照をなすことです。

 たとえば一般には知名度が低いであろう清張の『湖底の光芒』は、途中までドタバタを演じていた小説後半のヒロインが、最後下請けの労働者たちに思いを致すようになって印象的な結末を迎えますが、逆に東野作品では労働問題がいつの間にか雲散霧消してしまう。そのあたりの「怪しさ」がいつもつきまといます。また、『容疑者Xの献身』では、愛する人のためにあろうことか無辜のホームレスを殺すという外道もいいところの犯罪を犯しておいて「純愛」もへったくれもあるものか、あんなのに「感動」する人の気が知れないと思いました。だから、ご指摘のようなこともあり得るんじゃないかとはうすうす思っていましたが、やはりそうでしたか。

 残念に思いますし、この点は批判していなければならないでしょう。

欧米では田舎にしか残っていない「世間」が日本では「リベラル」界隈でも政権与党でも大手を振る(呆)

 阿部謹也の『「世間」とは何か』(講談社現代新書,1995)を読んだのはいつだっけと思って、2009年1月1日からずっとExcelファイルにつけている読書記録(感想文はつけていない)を参照すると、2009年5月だった。なお記録をつけ始めた2009年元旦に読んだのが阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)だった。『「世間」とは何か』をまた読み返してみたくなった。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 下記記事のコメント欄より。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

蛇にペディキュア

 

コロナが社会の矛盾を顕在化させた、とかいうよな言説がありますが…
「世間」=「ムラ社会」=個人が確立されていない封建的社会、日本はまだまだそうだと実感していて、今回のことで日本ではこれまで水面下にあった様々な(本当は知ってる人はよく知っていた)社会の不公平・不正がようやく暴露されるようになりましたが、その是正を議論するのではなく、違う方にいってしまった日本…
一例として、医療関係者、介護関係者や保育関係者が「コロナ」差別を受けたり、少し前に「自粛警察」なる言葉がメディアでも飛び交ったり、と…オルテガ(私は好きではないですが)の「大衆」そのまんまかな(元そのまんま東を「政治評論家」扱いするTV(名古屋のテレビ局制作番組…愚の骨頂)やら橋下…日本は悪いことで最先端だなと…余談ですいません)、最近はTVの”ニュース”で刑事事件を長々と大きく取り扱って、「犯人」を悪魔扱いしたりと…総花的にもっといえば消費として「世間」から「悪者」として、そして浪費的に「悪者」に関係があるものなら叩いてしまえ!…というのがあるのでしょうか。
これこそ、権力にとって、権力の悪から目をそらさせる絶好の「餌」だと思います。
「歴史は繰り返す」か…ファシズムは「世間」、「大衆」が育て(て最終的には破滅に至)る…暗澹たる思いです。
長々と書いてしまいましたが、なんとかこの状況が少しでもよくなってくれることを祈って(祈るしかないのか(涙))…

 

 要するに、「個人」として元高級官僚だのを批判して対峙すれば良いのに、個人が確立できていないから「世間」として集団で「悪者」を叩き、その際に「『悪者』に関係があるものなら叩いてしまえ!」とばかりに加害者家族に対する差別を行う。そういったことを問題視してブログ記事を公開しているのに、議論をすり替えて「『上級国民』に対する特別扱いはある。だからネットが反応したのだ」という頓珍漢なコメントを寄越す。だから私は大いに苛立つのだ。

 先日からしばしば引用している鴻上尚史佐藤直樹の『同調圧力 - 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書,2020)において、かつて阿部謹也らと「日本世間学会」の設立総会を開催したという佐藤直樹は、当然ながら阿部謹也の議論を踏まえていると思われる。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 その佐藤は、「基本的に個人がいない『世間』みたいな関係、今、僕たちが持っている人間関係と同じようなものは、昔は世界中のどこにでもあったと思うんです。ただ、特にヨーロッパの場合は、12世紀ルネサンスなどと言われるように、今から800年、900年前に、インディビジュアルが形成され社会ができてくるんですね」(前掲書43頁)と語っている。

 日本は欧州の900年遅れかよ、と唖然とするが、この本には、ポーランドアメリカの田舎にも「世間」はあるとか、韓国にも「世間」はあるけれども日本語の「世間様」に当たる言葉はない(日本の方が韓国よりも後進的だというわけだ)という話も出てくる。

 そして、欧米では田舎にしか「世間」が残っておらず、韓国も日本と比べれば「世間」の克服へと向かっているというのに、日本では政権与党である自民党が個人を排して「世間」を正当化するイデオロギーを持っている。それをよく示すのが2012年に自民党が発表した第2次憲法改正草案だ。以下に前掲書から佐藤直樹の発言を引用する。

 

(前略)日本人は個人が嫌いなんですよ。2012年に自民党がまとめた「日本国憲法改正草案」のなかでも、これは幸福追求権と言われる部分ですが、現行憲法で「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)と書いてあるところを、草案では「全て国民は、人として尊重される」と書きかえています。自民党も個人が大嫌いなんでしょうね。

 

鴻上尚史佐藤直樹同調圧力 - 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書,2020)46頁)

 

 自民党の中でも特に2012年の第2次改憲草案に強く固執しているのが、一部「リベラル」が大好きであるらしい石破茂であることを付言しておく。

田中角栄は手錠を掛けられたし、「逮捕即呼び捨て」だった

 失礼ながら、id:hkawai69さんも「世間」の住人でいらっしゃるようですね。

 

 下記記事のコメント欄より。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

hkawai69

 

 社会的地位が高いとされる人が特別扱いされることはよくあると思います。橋下徹がホンの少しの熱でPCR検査をしてもらえたとか。
 古いところでは田中角栄は逮捕される際に手錠を掛けられなかったとか。「逮捕即呼び捨て」がなくなったのもこのときからかと。
 エライ人に対しては「氏」、そうでない人に対しては「さん」なんて。

 

 まず、田中角栄に関しては二点とも誤りです。

 

 田中角栄は逮捕された時に手錠を掛けられました。

 

kobaalbum.blog.fc2.com

 

 また、角栄は「逮捕即呼び捨て」でした。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

36年前の今日、1976年7月27日に、当時の「前首相」田中角栄が逮捕された。あの日も関西はくそ暑かった。中学生の私は夏休みで家にいた。たまたまその日に電気工事に来たおっちゃんが、田中が逮捕されたと言っていたので、正午のNHKニュースを見たら、本当に逮捕されていた。当時は逮捕された人間は呼び捨てで報道された。「田中は」「田中は」とテレビのアナウンサーは言っていたものだ。

 

出典:https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20120727/1343399953

 

 1976年当時、私の家では毎日新聞をとっていましたが、毎日新聞夕刊は見出しこそ「田中前首相を逮捕」だったものの、1面記事のリードに「金権政治の象徴、前首相田中角栄がついに逮捕された」と書いていました。

 嘘だと思うなら、国会図書館ででも毎日新聞縮刷版を当たってみて下さい。

 なお、逮捕された人に「容疑者」をつけるようになったのは1989年です。その直前にリクルート事件で財界人の大物らが多数逮捕されましたが、当時の朝日新聞は「呼び捨てできる今のうちに」とばかりに、1面トップの大見出しでも容疑者を呼び捨てにしていました。私は全く感心しませんでしたが。

 

 「田中角栄が逮捕された時手錠を掛けられなかった」と、「『逮捕即呼び捨て』がなくなったのも田中角栄逮捕の時から」という2つの言説をファクトチェックするなら、2件とも「誤り」です。

 こういうフェイクが事実であるかのように流布するあたりも、典型的な「世間」のあり方だと私は考えます。

 それにそもそも、今朝公開した最初のリンクの記事のテーマは、「社会的地位が高いとされる人が特別扱いされることがあるかどうか」ではありません。

 その程度のことさえおわかりいただけませんか。残念至極です。

「上級国民」バッシングは「世間」が仕掛けた

 こんな一件があったそうだ。

 

 

 私は、ことに昨年春以降の山本太郎が大嫌いだし、元号を冠した彼の政党を全く支持しないが、これは大阪府経を批判し、山本太郎を擁護すべき件だろう。

 しかし、下記ツイートによれば、この件で警察側に「理解」を示す、反山本太郎にして立憲民主党びいき(というより「立民信者」というべきか)の御仁たちが少なからずいるらしい。

 

 

 そういう「リベラル」がどの程度いるのか私にはわからないが、ある程度はいても不思議ではないと思う。逆の側の例でいえば、立民(あるいは旧民主時代でいえば「反小沢系」)憎さのあまり、「希望の党」騒動の時には前原誠司枝野幸男との民進党代表選で前原に軍配を上げ、最近では玉木雄一郎に傾斜している御仁もいる。実名を挙げれば山岸飛鳥という人だ。

 山本太郎を弾圧しようとした「リベラル」たちも、オザシンの山岸飛鳥氏も、ともに「世間」の人なのだと思う。かたや「『リベラル』村」あるいは「立民信者村」の住民と、「オザシン村」の住民。双方の住民とも、私は友達には絶対になれない。

 以上は前振り。一昨日以来続けている「世間」の話が本論。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 上記記事から引用する。

 

「上級国民」という言葉が流行したとき、とても嫌な感じがした。所謂〈法の下の平等〉というのは民主社会の存立にとっては不可欠な建前だろう。しかし、その信憑性(plausibility)はあからさまに低下している。少なからぬ人が「上級国民」なる特権層を仮構して、自らを二級市民であるかのように思い込んでいる。本国にいながら、殖民地の先住民の如くであるようだ。
まあ、上からの煽りによる差別や排除というのは、殆ど常に、架空の特権(層)を構築して、劣等感などをフックとしつつ、妬み(envy)のような劣情を煽るという仕方で行わる。「在日特権」なるデマはまさにその例である。生保バッシングも然り。最近では、日本学術会議への政治介入スキャンダル*3を、かつての公務員バッシングと同様の仕方での学者バッシングで乗り切ろうという動きがある。
さて、「上級国民」バッシングは上から仕掛けられたものでもないし、特定の政治勢力によって操作されているわけでもない。謂わば自然発生的に沸き起こったものだ。或いは、「世間」が仕掛けたと言えるだろうか。さらに、質が悪いことに、この「上級国民」バッシングは、政治的スペクトラムの何処にいる人にも、右翼にも左翼にも、権威主義者にもリベラルにも、共鳴を惹き起こしてしまったということだろう。そのため、このエコー・チャンバーから抜け出すのはとても困難だ。

 

出典:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/10/12/150801

 

 引用文中、赤字ボールドにした部分は本当に鋭いと思った。

 私も「上級国民」バッシングが始まって、多くの人がそれに乗っかった頃、なんともいえず嫌な気持ちがした。「上級国民」の検索語で自ブログ内検索をかけると、公開したばかりの記事を除くと下記の1件だけが引っかかった。昨年5月に公開した記事だ。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

 「上級国民」の件は、「リベラル」のみならず右翼からも憤激を買っており、リテラなどは人々のルサンチマンを煽りまくっている*1。だが、私はこの流れに同調する気など全く起きない。

 その理由は、下記『週刊朝日』の記事が指摘しているのと同じだ。

 

dot.asahi.com

 

 この記事で、橋本健二早稲田大学教授が

社会活動家の声など一時期よりは建設的な意見が増えてきたが、ほとんどは意味がない。政策の変更を求めることもなく、社会的な公平性を実現するのに役に立っていない。

とコメントしている。また、田中将介記者は記事の終わりの方で

 「上級国民だから逮捕されない」といったようなことをネットでつぶやいても始まらない。

と書いている。その通りだと思う。

 

出典:https://kojitaken.hatenablog.com/entry/2019/05/12/104126

  

 だが、上記の文章は私が当時感じた「この流れに同調する気など全く起きない」理由を語り尽くしてはいない。今にして思えば、「『世間』が仕掛けた」バッシングだったからこそ、言いようのない嫌悪を感じたのではなかったか。

 sumita-mさんの記事からの引用を続ける。

 

「「加害者家族バッシング」は日本特有の現象」https://kojitaken.hatenablog.com/entry/2020/10/12/085434

 

このエントリーを読んで、思い出したのは発達障害の息子を殺した元農林事務次官熊沢英昭のこと。熊沢の娘は兄のことを口実にして縁談が破談となり、自殺している*4。私は「破談」や「自殺」のことよりも、(熊沢を含めて)みんなこの「破談」や「自殺」について疑問を感じたり憤ったりしていないということの方が不思議だった。

 

出典:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/10/12/150801

  

 「加害者家族への差別」をテーマにした東野圭吾の小説『手紙』にも、兄のことを口実にして恋人との仲を引き裂かれる箇所がある。小説の中盤に当たる第三章で描かれているが、小説の中でも最も長いこの第三章は、本当に読むのが辛かったし、自分がこんな目に遭ったら立ち直れないだろうなと思った。しかし、これに類したことが実際に起きているのだ。

 小説への言及を続けると、その後主人公は白石由実子という女性と結婚することになる。彼女は、読者にとっては主人公の失恋を埋め合わせしてくれる存在なのだが、私にとっては平野社長とともにあまり好感を持てないキャラクターだった。なぜなら、主人公あるいは物語にとって都合が良すぎて、リアリティが感じられなかったからだ。「読書メーター」の感想文を見ると、白石由実子は平野社長と並んで人気の高いキャラクターだが、私の感想は彼らとは大いに異なっていたのだった。「読書メーター」あるいはアマゾンカスタマーレビューにも「世間」があるのかもしれない。

 もちろんもっと深刻なのは、おそらくは「世間」によって熊沢英明の娘が「破談」と「自殺」に追い込まれたことであるのは言うまでもない。

「加害者家族バッシング」は日本特有の現象

 昨日、下記記事を公開したあと、鴻上尚史佐藤直樹の対談本『同調圧力 - 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書)を読了した。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 この本の後半に、昨日の記事で引用した阿部恭子氏に、加害者家族バッシングの問題と絡めて佐藤直樹氏が言及している箇所があったので、以下に引用する。

 

なぜ世間に謝罪するのか――加害者家族へのバッシング

 

鴻上 コロナ禍において、世間はさまざまな「敵」をつくりあげました。同調圧力によって、まさに「世間様に顔向けできない」人びとを生み出してきたのですが、そのメカニズムを考える際に重要だと思ったのは、対談の冒頭で佐藤さんが触れた加害者家族の問題です。犯罪者だけではなく、その家族がバッシングされるという話。佐藤さんはこの問題を追いかけていますね。そこで聞きたいのですが、欧米でもこうした問題は起きているのでしょうか。

 

佐藤 ないです。少なくとも日本のように家族が誹謗中傷を受けるといった陰湿なバッシングは聞いたことがありません。例えば、加害者家族支援をやっている阿部恭子さん(NPO法人「World Open Heart」理事長)が、アメリカの加害者家族と支援団体のメンバーや研究者などで構成される学会に出席したそうです。するとね。向こうではみんなスマホで写真を撮り合っていて、そのままSNSに載せるというんです。阿部さんは「活動に対する抗議はないのか」と聞いたそうなのですが、「そのような経験はほとんどない」と。そうした問題よりも、むしろ身内から犯罪者を出してしまった家族の苦しみや罪悪感を社会に理解してもらうほうが大切だというわけです。だから社会が全然無関心なのが問題なんだと、そういうことを言われたというので、阿部さんもカルチャーショックだったと著書『息子が人を殺しました』(幻冬舎新書)に書いていました。

 

鴻上尚史佐藤直樹同調圧力 - 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書,2002)112-113頁)

 

 最後に読書ブログに書いたことをここでも繰り返すが、日本ではあまり注目されてこなかった加害者家族の問題をテーマにして2001年から翌2002年にかけて毎日新聞日曜版に連載されたのが東野圭吾の長篇小説『手紙』だった。

 ところが、この長篇にはある問題人物が登場する。それは、音楽活動から排除され、恋人との仲も引き裂かれた主人公が就職した、東京の江戸川区西葛西にある家電量販店の「平野社長」だ。

 この平野社長が差別を受けて苦しむ主人公に「差別はね、当然なんだよ」と言い放つ場面があるのだ。それは主人公に対して「事実を直視しろ」という励ましでもあるのだろうが、反面、差別を正当化することによって、使用者が労働者に対して都合の良い言い分を押しつけたともいえる。ところがアマゾンカスタマーレビューや「読書メーター」を参照する限り、読者の多くは主人公に対する激励の意味のみに気をとられてか、「平野社長、ありがとうございます」などと、平野社長の言葉に「感動」していたのだ。私はこれに大いに腹を立てたので、読書ブログの記事に

平野社長の言葉には、私自身を含む『手紙』の読者の大部分である「差別する側の人間」が決して軽々しく「感動」などしてはならないと私は強く思うのだ。

と書いた。それどころか記事のタイトルにも

平野社長の言葉に「感動」した人とは友達になれない

 と書いたのだった。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 平野社長の言葉は、日本の「世間」や「同調圧力」を肯定する有害な言説に過ぎない。作者・東野圭吾の意図が奈辺にあったのかは知る由もないが。ただ、小説では主人公は結局その家電量販店を辞めるし(そのきっかけも近所に越してきた同僚夫妻に兄の犯罪を言いふらされたからだった)、平野社長も主人公の退社を引き留めもしなかった。上記記事にいただいた下記コメントに記されている通りだ。

 

F-name

 

「手紙」の平野社長についての感想につき共感します。彼には悪意はないのかもしれませんが、それでも主人公は退社することを決め、彼は引き留めていないのですから。Amazonのreviewは見ていませんが、平野社長礼賛のものばかりあるなら近付かない方が良いかもしれないですね。

 

 昨日批判したオザシンが属している「世間」についていえば、安倍晋三の前に「忖度」がネットで取り沙汰されたのが小沢一派(リアル、ネットとも)だったことが思い出される。「忖度」批判は前記鴻上・佐藤の対談本『同調圧力』にも出てくる。佐藤直樹は70年安保安保で敗れた全共闘の人たちについて、下記のように喝破している。

 

佐藤 あの人たち、負けたんですよ。何に負けたかと言えば。警察や国家権力じゃなくて「世間」に。全共闘の敗北は「世間」に対する敗北です。それをかれらは全然自覚していないですよ。で、負けた後に自ら「世間」になってしまった。「世間」に飲み込まれたというよりは、自ら「世間」になった。だから抑圧してくるんです。僕も学生時代に無党派で活動していたことがありますが、官僚主義に染まった人たちがたくさんいました。ああ、こいつら「世間」なんだなあと思いました。

 

鴻上 だから、どんなに理想とか革命とか○○イズムなどを語っていても、結局日本人の根っこは「世間」なんですよね。ましてや党派なんてのは結局、組織という「世間」を守ることが至上命令になったりしますからね。

 

佐藤 連合赤軍なんか、日本軍と同じ体質でしたよね。欲しがりません、勝つまではの世界を生きていた。

 

鴻上尚史佐藤直樹同調圧力 - 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書,2002)168-169頁)

 

 山本太郎のブレーンに新左翼の斎藤まさし(毛沢東主義者にして、長くポル・ポトを肯定していた)がいるし、それ以前にオザシンに新左翼あがりが多いことはよく知られている。だからオザシンやヤマシンには特に「世間」の弊害が強く表れているのかもしれない。昨日も、さるヤマシンが嘘を拡散して中西なおみ逗子市議会議員から強い抗議を受けていた。

 

 

 このように、「世間」の弊害が強まると、平気で人の道を外れた言動をやるようになってしまう。今のヤマシンは、もはやその域に達してしまっている。

 なお、「世間」といえば阿部謹也だが、佐藤直樹は1999年にその阿部謹也たちと「日本世間学会」の設立総会を開催したとのこと*1

*1:前掲書の「あとがき」(177頁)より。

あっ、キクマコ(菊池誠)を忘れていた!w

 昨日公開した下記記事のコメント欄より。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

urinarazuke

 

阪大が排出(笑)するトンデモ教授といえば、キクマコ様もお忘れなく(爆笑)。

さて、猿倉氏のように無教養を恥と思わない「理系バカ」を見て、真っ先に思い浮かんだのは青色ダイオード発明者でノーベル物理学賞受賞者の中村修二氏。
ブログ主も以前の記事で、“技術開発にかけては天才的だと思うけれども、物事の考え方については「俗物」以外の何者でもない”と中村氏を評していたが、筆者も同感。
筆者は『21世紀の絶対温度』を読んだが、子供の頃から芸術や古典など自分の興味関心と合わない科目の履修を強制させるのが嫌で仕方がなかったと延々と語り、それだけなら個人的な感想で済むところ、無理矢理一般化して、こんな役に立たない科目を全員必修にするのは無駄だと論理を飛躍させるのにはついていけない。
そういえば猿倉氏も、大学の公開シンポジウムで古典不要論を語っていたっけ。

もっと言えば、猿倉氏や中村氏のように単に無教養な者よりも、キクマコのように己が教養人だと勘違いしている輩の方がはるかに有害。
ああいう方々はくれぐれも、天下国家や社会のあり方を公に論じてはいけない。
なぜソクラテスが「無知の知」を唱えたのかよく考え、身の程をわきまえてもらいたい。

 

 キクマコ、すっかり失念していました。

 なんたる不覚!(笑)

 

加害者家族を苦しめているのは「世間」の人たちだよ

 昨日公開した下記読書ブログ記事に直接関連する事例があった。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 それは、安倍恭子氏が下記「現代ビジネス」の記事に書いた件だ。

 

news.livedoor.com

 

 以下引用する。

 

【阿部恭子】「上級国民」大批判のウラで、池袋暴走事故の「加害者家族」に起きていたこと 家族は「逮捕してもらいたかった」と話す

 

2020年10月9日 6時0分
現代ビジネス

 

加害者家族の人生も激変


10月8日、東京地裁。2019年4月19日、東京・東池袋で当時87歳の被告人が運転していた車が暴走し、2名が死亡、9名が負傷する大惨事となった「池袋暴走事故」の初公判が開かれた。

 

「はじめに、今回の事故により奥様とお嬢様をなくされた松永様とご親族の皆様に心からお詫び申し上げます。最愛のお二人を突然失った悲しみとご心痛を思うと言葉もございません。また、お怪我をされ苦しまれた方々とご親族の皆様にも深くお詫び申し上げます。起訴状の内容については、アクセルペダルを踏み続けたことはないと記憶しており、暴走したのは車に何らかの異常が生じたため暴走したと思っております。ただ暴走を止められなかったことは悔やまれ、大変申し訳なく思っております」
被告人は罪状認否でこのように述べ、過失を否定した。

 

「なぜこんなことになったのか、これからどうしたら良いのか……」

 

2019年4月下旬、筆者が代表を務めるNPO法人WorldOpenHeartの「加害者家族ホットライン」に、父親が運転していた車が事故を起こし、多数の被害者を出してしまったという家族から電話が入る。

 

被害者の方々の容態が心配で、車に同乗していた母親も生死にかかわる重傷だという。何日も食事が喉を通らず全く眠れていない。言葉は少なく、憔悴しきっている様子が伝わってきた。

 

精神的に相当追い詰められている相談者に対し、筆者は精神科に行くよう促し、無事を確認するため何度か電話を入れていた。相談は匿名で、事件の詳細をあれこれ聞くことはしない。相談者が、「池袋暴走事故」の加害者家族だと判明したのはだいぶ後のことだった。


バッシングに苦しむ日々

 

「正直、逮捕してもらいたかったです……」

家族はそう話す。

 

被告人が逮捕されなかったのは、旧通産省の官僚だったからだという「上級国民」バッシングが始まった。ネット上では、「死刑にすべき」といった厳しい批判や被告人への罵詈雑言で溢れ、被告人の自宅には嫌がらせの電話や手紙が届くようになった。バッシングは被告人だけにとどまらず、「家族も同罪」「家族も死刑」といった書き込みもあった。

 

危険なのは塀の中より社会である。家族にとっては、被告人が警察署内に拘束されている方がよほど安全で気が楽なのだ。

 

ところが、ネット上では加害者の不逮捕に家族も関係した可能性があるという憶測が飛び交っていた。被告人は事故発生直後、「救急車が到着する前」に息子に携帯電話をかけていたと報道された。

 

しかし、実際、息子が電話を受けたのは事故から55分後だった。この報道によって、被告人が息子に揉み消しや不逮捕を依頼したのではないかという疑惑が生じたようである。

 

本件を報じるテレビ番組では、「フレンチに遅れる」といった「上級国民」を強調するテロップが使われバッシングは過熱したが、被告人が向かっていたのは、遅れても構わない馴染みのごく普通の小レストランであり、「フレンチ」という表現には違和感があるという。

 

「医師から運転を止めるように言われていたにもかかわらず運転していた」など、悪質性を裏付ける報道が続いたが、そのような事実はなく、車を擦ったりぶつけたりといった家族が不安になるような問題も起きてはいなかった。

 

それでも加害者家族は、罪を犯しても逮捕されない卑怯な「上級国民」として形成されつつある世論に抗う術はなかった。報道陣は家族のところも来たが、加害者家族の立場で発言しても揚げ足を取られ、さらにバッシングが酷くなるとしか考えられず沈黙を貫くほかなかったのである。

 

行き場のない処罰感情の犠牲になる家族

 

「被害者やそのご家族の気持ちを思うと居たたまれない」

 

本件の加害者家族と話をするにあたって、被害者を気遣う言葉が出なかったことはない。親子を見るたび事故のことが思い出され、胸が詰まる思いだという。

 

車に同乗していた母親は、ICU20日間入る大怪我を負った。命はとりとめたものの自らを責め続け、悲嘆にくれる毎日を過ごしている。

 

母の様子を見るたびに、事故で怪我をされた被害者とその家族も、相当に辛い思いをされていると思い心が苦しくなるという。

 

「あの事故を忘れた日はありませんし、これからも永遠に忘れることはありません」
加害者家族もまた人生を狂わされ、重い十字架を背負うことになってしまった。家族として、事故を起こした父親に対して怒りが抑えられなくなる瞬間もあるという。

 

2018年1月9日、車の暴走によって高校生一人が死亡、一人が重傷を負った事故の一審・前橋地裁で無罪判決を受けた当時85歳の男性が、家族の意向により、控訴審で有罪を主張するという異例のケースも報道されている。

 

この背景には、加害者家族に向けられる終わりなき社会的制裁が少なからず影響している。

 

加害者が高齢者で被害者が若年者であった場合は特に、世間の処罰感情は強く、加害者が厳罰を逃れるならば、代わりに家族が制裁を受けるべきというようにその矛先は家族へと向けられる。

 

甚大な被害に対して、誰かが相応の責任を取らなければ収まらない世間の処罰感情に応えるように、加害者家族が自ら命を絶つケースもあり、世の中は事件の幕引きを図ってきたのだ。

 

しかし、加害者家族が代わりに罪を引き受け犠牲になることは、一時的な世間の処罰感情を満たすだけであって事件の本質的な解決にはならない。
本件において、被告人の子どもたちは被告人に対して、影響力を有する関係にはなかった。被告人は一般的には高齢であるものの自立した生活を送っており、子どもたちがコントロールできるような親ではない。したがって、被告人の言動に対して子どもたちにまで責任があるというには無理がある。


「上級国民」バッシングは、近年、加速しているように見える格差社会の間で無力感に苛まれている人々の復讐であり、不満の捌け口にもなっている。

 

しかし、家族も含む加害者側への行き過ぎた制裁は、「被告人はすでに社会的制裁を受けている」という減刑の材料にもなり、厳罰化の主張に対して逆効果を招くことさえあるのだ。


再発防止に向けて何ができるか

 

近年、高齢者ドライバーによる死亡事故が社会問題化し、メディアも大きく取り上げる機会が増えたことから、高齢者と暮らす家族の緊張感も高まっている。事故が起こると必ず、「家族はなぜ止めなかったのか」という議論になり、家族に社会的制裁が及ぶからである。


しかし、家族連帯責任によって事故抑止を図ろうとするならば、家族関係は悪くなり家族間の暴力や虐待といった別の問題が生じるリスクを伴う。現実として、家族が日常生活のすべてを管理することは不可能に近いのである。

「何度言っても親は運転をやめない」

という悩みを抱える家族は少なくないが、子どもの言うことを素直に聞く親など稀である。医師から助言してもらうか、一定の年齢以上運転免許を停止する法律を制定するほかない。公共交通機関が未発達で、タクシーもほとんど通らないような地域もあることから、全国一律ではなく地域の実情に即した政策が求められる。

 

事件を風化させることなく、再発防止に向けた教訓を導くこと――それが今、社会に求められている役割である。

 

出典:https://news.livedoor.com/article/detail/19026987/

 

 下記はこの記事を江川紹子氏が論評したツイート。

 

 

 上記江川氏のツイートに下記の反応があった。

 

 

 さらなる反応に東野圭吾の『手紙』が言及されている。

 

 

 ところが、江川氏のツイートに噛みついた人がいた。

 

 

 これに江川氏が反論している。

 

 

 江川氏は「社会」と書いているが、私が昨日公開した前述のブログ記事で言及した佐藤直樹氏の流儀に倣うと「世間」が加害者の家族を苦しめている、ということになろう。

 

 ところが、この江川氏の反論を気に入らない某オザシンがいた。

 

 

 ああ、やっぱりこのオザシンも「世間」の人なんだなあとつくづく思う。

 私が2009年にブログの反自公の「ムラ社会」からパージされた時に、憎んでも憎み足りない首謀者の「喜八」に加担したのがこのオザシンであったことを苦々しく思い出す。

 そんな私怨はともかく、東野圭吾の『手紙』に当てはめると、確かに強盗殺人犯である主人公の兄からの手紙は、主人公の足を散々引っ張った。「加害者の家族を苦しめているのは加害者本人」だというのは前記のオザシンが言う通りだ。

 しかし、「世間」の人たちもまた、さんざん主人公を苦しめてきた。このように、「加害者の家族を苦しめているのは加害者本人」であることは、「世間」(江川氏の表記では「社会」)の人々が加害者の家族を苦しめていることと矛盾せず両立するのだから、上記オザシンの寝言は江川氏のツイートの反論になどなり得ないのである。

 やはり何年経ってもオザシンとは進歩しないものなんだなあと改めて呆れた次第。

 まあ一度『手紙』を読んでみることだな。もっとも、「世間」の人間なら平野社長の言葉に「感動」してしまうかもしれないが(笑)。

 

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