kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

阪神の巨人戦サヨナラ勝ちに思う

最近すっかりプロ野球を見なくなったが、結果だけはそれなりに気にしていて、スポーツニュースで確認している。昔、好んでプロ野球を見ていた頃を思い出しながら、YouTubeの動画を見たりするのだが、意外に思うのはスタンドに空席が多いことで、巨人が出た後楽園での日本シリーズでも、空席が目立ったりする(1981年の対日本ハム第5戦など)。阪神も、レギュラーシーズンの甲子園球場など、巨人戦以外はガラガラで、江夏がノーヒットノーランを自らのサヨナラホームランで決めた試合(1973年8月30日、対中日戦)など、観客数は公式発表で9000人だった。神戸のサンテレビに残る最古の阪神戦中継VTRはこの試合だそうで、その昔に見たサンテレビの中継はもう全部消えてしまってるんだなあと思う。

その江夏が、マジック「1」で迎えた同じ中日戦の前に、球団代表から「勝たないでくれ」だか「勝たなくても良い」と言われた話は今も有名だが、一種の都市伝説と化しているようだ。この話は、当時から「阪神らしさ」を象徴するエピソードとして語り草になっていたが、実際には中日球場の試合で優勝を決めると、甲子園で行われる巨人との最終戦が盛り上がらず、客が入らないのではないかくらいに思った球団代表が、選手の気持ちを逆なでする軽口を叩いたのが真相ではないか。いくらなんでも、優勝したら選手の給料が上がるから嫌だとか、そんなことは考えてなかったと思う。当時は、消化試合の平日のデーゲームであれば、巨人が相手でも数千人しか客が入らないのが甲子園だった。

プロ野球人気の頂点は、1983年から92年までくらいだったと思う。1992年に神宮球場で行われたヤクルトと西武の日本シリーズは超満員で、立錐の余地もなかった。この年のペナントレースでは、ヤクルトと阪神が終盤デッドヒートを展開し、これに敗れた阪神ファンの暴走が一段とひどくなったのもこの頃である。東京ドームのスタンドに阪神ファンがラジカセを投げ入れる事件などが起きた。

ところが、翌1993年からプロ野球人気が低下していく。それは、1992年のシーズン終了後の巨人・長嶋監督復帰及びナベツネのオーナー就任と軌を一にしている。ナベツネは、オーナー就任早々、自らの主導でドラフトの逆指名制度とFA制の導入させプロ野球を弱肉強食にした。当時、プロ野球ファンの間に「経営努力」という言葉をはやらせたのもナベツネである。しかし、日本経済でも同じことだが、格差が拡大すると活力は失われる。ナベツネのオーナー就任当時から、ナベツネによるカイカクが確実にプロ野球人気を落とすことを予想していた私は、アンチ巨人ということもあって、一貫してナベツネを批判し続けてきたが、阪神ナベツネに取り込まれた。阪神は2002年にナベツネと親しい星野仙一が監督に就任して4年連続最下位を脱却し、2003年と岡田監督下の2005年にリーグ優勝した。その後も星野は阪神のシニア・ディレクターを務めて、阪神球団に害毒を流し続けている。私が甲子園球場に行ったのは、その星野が監督に就任した2002年が最後で、この時にはダフ屋がチケットが売れなくて頭を抱えていた。試合はヤクルト戦で、藪がペタジーニに2ランを2発浴びて阪神が負けたが、そのペタジーニはその後巨人に移籍した。ヤクルトはさらにラミレスやグライシンガーも巨人に流出させており、これでは優勝争いなどできるはずがない。

昨日、阪神が巨人にサヨナラ勝ちしたが、巨人と互角に戦えるのはセ・リーグでは今や阪神だけで、いや、それだけなら70年代前半と同じなのかもしれないが、違うのは選手の給料であり、阪神の選手の平均年俸は、何年か前から12球団で一番高い。巨人は、長嶋茂雄堀内恒夫が監督の頃には巨大戦力だけで勝とうとしたが、原辰徳は選手の育成にも熱心であり、ラミレス・小笠原ら他球団から獲った巨大戦力に、自前で育てた若手が絡むのだからこれは強いに決まっている。その巨人に対抗できるのが巨大戦力の阪神だけというところが、同じ「伝統の一戦」主導のペナントレースでも昔と全然違うなあと思うのだ。

広島(1975年)やヤクルト(1978年)の優勝で、セ・リーグは人気を拡大したのだが、70年代前半はその揺籃期だった。逆に2000年代は、これらの球団が優勝争いに絡めなくなる時期だったといえる。「巨人・阪神」と「広島・ヤクルト・横浜」の中間に位置するのが、昔も今も中日で、1974年に巨人のV10を止めたのが中日なら、2000年代半ばに2度のリーグ優勝と53年ぶり日本一で「伝統の一戦」主導時代の再現を遅らせたのも中日だった。「伝統の一戦(巨人・阪神)」時代と戦国時代の中間期に、決まって中日の強い時期が現れるのが面白い。地理的にも金の力でも順位でも、すべて中くらいというのが中日というチームカラーではないだろうか。そういえば昔中日の中心選手に中(なか)という人がいて、ポジションがなんと中堅手(センター)だった。これを初めて知った時、そのあまりのマッチングに笑ってしまった。しかし、中が監督を務めた頃の中日は弱く、順位も中くらいとは行かず、最下位に転落してクビになったはずである。