kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

小沢一郎と菅直人が語るオーラルヒストリー

小沢一郎が2005年、菅直人が2007年に、それぞれ朝日新聞社(のち朝日新聞出版)が出していた月刊論壇誌論座』(2008年に休刊)の企画で、五百旗頭真伊藤元重薬師寺克行の3人からインタビューを受けた。これらが朝日新聞出版から「90年代の証言」シリーズとして刊行されている。


90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論

90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論


菅直人 市民運動から政治闘争へ 90年代の証言

菅直人 市民運動から政治闘争へ 90年代の証言


いずれも、雑誌掲載時に割愛された部分も掲載されており、興味深い読み物である。

菅直人については、雑誌掲載時に読んだし、数か月前(6月の民主党代表選の頃だったか?)に書籍でも読んだが、未読だった小沢一郎の方も読んでみた。先の民主党代表選で戦ったこの2人は、その軌跡を振り返る限り、きわめて対照的な政治家である。

1946年生まれ、現在64歳の菅直人は、市民運動出身ではあるが、現在でもよく口にするように、学生時代から永井陽之助に影響を受けたというから、革新系とはいえない。政界入り後、社会党にとって代わろうとする政治家になった。

1942年生まれ、現在68歳の小沢一郎の方は、自民党代議士・小沢佐重喜の倅だが、小沢一郎いわく、小沢佐重喜は財界や官僚とのつながりのないプロレタリアートであり、小沢一郎は高校時代には左翼の書物を読みあさったという。但し、学生運動はやらなかったそうだ。

菅直人社会党にとって代わろうとした政治家なら、小沢一郎は、小泉純一郎よりもっと過激に「自民党をぶっ壊そうとした」政治家だったことが、インタビューを読むとはっきりわかる。私は、90年代初頭に、それまで「金竹小」(こんちくしょう)と呼ばれて金丸信竹下登とともに「三悪人」のように報じられていた小沢一郎が、突如として「政治改革の旗手」扱いされるようになったことに、非常に驚いたものだが、上記書籍の巻末に掲載されている「解題」*1で、五百旗頭真が、時系列で中曽根康弘の後にして小泉純一郎の前に位置づける、「保守内の革新政治」の担い手としての自覚を、小沢一郎は政界入りした頃から確固として持っていたことを知った。ここまで小沢一郎の信念が堅いものだったとは、私は認識していなかった。小沢一郎は、思っていたよりずっと剛直な保守政治家だった。だが、あくまで小沢一郎は、五百旗頭真の言葉を借りれば「小さくとも強い政府を樹立して、流動的な国際環境への対応力を高めつつ、日本の活力と主体性を回復せんとする保守による革新的政治」*2の担い手である。間違っても、リベラル、革新、あるいは左派という言葉で表現される政治家ではない。

少し驚いたのは、幕末の志士たちでもっとも惹かれるのは誰かときかれた小沢一郎が、「思想的にも行動的にも素晴らしいと思うのは坂本龍馬ですね」*3と答えていることだ。『日本改造計画』などで小沢が大久保利通に心酔していることはよく知られているが、坂本龍馬とは意外だった。『論座』のインタビューは、2005年の郵政総選挙を受けて、前原誠司民主党代表に就任した後の時期に行われているから、鳩山邦夫城内実のように、NHK大河ドラマ龍馬伝」に便乗して龍馬の名を出したわけではない。龍馬の次には、なんと高杉晋作の名を挙げているが、高杉は長州生まれの菅直人が心酔していることで知られる。大久保利通の名前は、3番目にやっと挙がり、小沢は同時に西郷隆盛の名を挙げている。

小沢一郎は、「おやじがエスタブリッシュメント層に反感を持っていましたから、僕もそれを引き継いでいましたね」*4と語る。このあたりがネット左翼に熱狂的に支持される理由なのだろうか。

父・佐重喜の急逝に伴い、世襲候補として27歳で初めて衆院選に出馬して当選した1969年の選挙公報に、小沢一郎は公約に「官僚政治打破」を掲げ、3回目の当選を果たした1976年には、政治献金の禁止、政治資金の国庫負担、衆院への比例代表を加味した小選挙区制導入を公約に打ち出している*5。つまり、その頃から小沢一郎の信念は変わっていない。

菅直人も、「基本的に私は2大政党論です」、「かなり積極的な小選挙区導入論者です」と自ら語っているが*6、政治改革に関してより強い言葉を発しているのは、やはり小沢一郎の方だ。小沢一郎は「基本的に」とか「かなり積極的な」などという言葉は用いない。それでも1976年にはまだ「比例代表を加味」していた小沢の思想は、次第に過激さを増し、90年代の「政治改革」の頃には、500議席の完全小選挙区制を理想とするようになった。1998年に行われた、自自連立政権の政策合意に向けての協議でも、小沢一郎衆院の比例定数50削減を強硬に主張して、これを渋る自民党との交渉の結果、衆院の比例定数は20削減に落ち着いた*7

現在、小沢一郎菅直人がともに衆議院の「比例定数の削減」を打ち出しているのは、昔からの主義主張に基づく。特に小沢一郎の場合、強い信念から発している政策といえる。

小沢一郎のインタビューを読んで驚くのは、小沢があけすけに先輩や同僚政治家たちの論評をしていることだ。なんと田中角栄金丸信竹下登という、小沢一郎の大先輩の三政治家を、「私に言わせるとみんな反面教師ですね」と切り捨てている*8。これには腰を抜かした。小沢に言わせれば、彼らはいずれも「足して二で割る『日本的コンセンサス社会』の中で生きていく典型的な達人」だったという*9

前記の「解題」で、五百旗頭真は下記のように論評している*10

 田中・竹下・金丸に従い、そのパワーを摂取しつつ、内側からその政治を爆破する立場に、小沢が傾いていくプロセスは誠に興味深い。小沢の話を聞くと、田中には醒めており、竹下には嫌悪すら感じられ、金丸には愛惜があふれる。けれども、この三者は、いずれも自民党政治の主人公であり、誰も政治改革を望んでいなかったと、小沢は冷ややかに突き放す。ただ金丸は自分を幹事長にし、選んだ以上任せてくれたと、小沢は言う。


このあたりの歯に衣着せぬ小沢一郎の言葉には、確かに冷徹なまでの歯切れの良さを感じた。概してこのインタビューで小沢一郎は饒舌である。先の民主党代表選で一部のテレビキャスターが「小沢さんがこんなによくしゃべる人だとは」と驚いていたことを思い出す。小沢一郎は、かつてテレビで田原総一朗と議論した時の印象からいうと、討論は必ずしも得意としないように見えるが、自説を滔々と述べるのは結構得意なのかもしれない。先の代表選の演説でも、多くの人が持っていたであろうイメージに反して、小沢一郎は演説がうまく、菅直人はへたくそだったと(必ずしも小沢信者にばかりでなく)論評されていたし、私も同感だった。

この小沢インタビューが行われたのは、2005年に「郵政総選挙」で自民党が圧勝、民主党が惨敗して、民主党代表に前原誠司が就任した時期である*11。つまり、小沢一郎が2006年4月の民主党代表選に勝って、「国民の生活が第一」をスローガンに掲げる直前に当たる。しかし、このスローガンはもちろん、その後民主党が打ち出した「農業者戸別所得補償制度」、「高校無償化」、「子ども手当」などの「国民の生活が第一」路線に沿った主張が、この小沢一郎のインタビューには全く出てこないことに驚かされる。菅直人の方は、「(社会党的なものが)1つのベースになって、もうちょっとリベラルな、保守的なものも含めた、ロシア型や中国型の社会主義ではない、ヨーロッパ型の社会民主主義政党というものをイメージしていた」と言っている*12。だが、現在その菅直人松下政経塾、旧民社、経団連、大企業御用労組などにがんじがらめにされて新自由主義路線を走ろうとしているかに見える。

一方、小沢一郎には昔からずっと一貫している主張も多い。たとえば、集団的自衛権の政府解釈を変更すべしという小沢一郎の主張は、これでもか、これでもかというほど出てくる。また、税制の議論では、竹下内閣下で税率3%の消費税を創設した時、当時竹下内閣の官房副長官だった小沢一郎は、「消費税率は5%にすべきだ」と主張していたし*13、細川内閣時代の1994年には消費税に代えて、税率7%の福祉目的税創設を打ち出したものの、「内容をよく把握していなかった」という細川首相が、「腰だめの数字だ」と発言して猛批判を受けた*14。よく知られている通り、福祉目的税創設の政策を主導したのは小沢一郎だったわけである。

小沢一郎は、「僕は以前から『所得税の大幅減税と同時に消費税の税率を上げるべきだ』と言っていました」と語っている*15。先の民主党代表選で小沢一郎が持ち出そうとしながら強くは訴えなかった「所得税と住民税の大幅な減税を考えている」という言葉も、以前からの小沢の主張の一環としてとらえるべきだろう。そして、先の代表選の論戦で、小沢一郎菅直人の消費税増税路線を強く批判することもなかった。

笑えるのは、細川連立内閣が発足した1993年の年末に、小沢一郎官房長官武村正義を切れと細川首相に迫った時、困惑した細川首相が「小沢さんに会いたいのに連絡がとれない」などとぼやいていたというくだりであり、*16、似たようなことをつい最近言っていた総理大臣がいた(笑)。

小沢一郎が代表選で争点にしようとした「一括交付金」についても、小沢一郎はインタビューで「個別補助金は官僚の力の源泉だから、廃止して一括交付金として地方自治体の自主財源にすべきだ」と主張している*17。但し、代表選で「小泉・竹中の『三位一体改革』の再現で、社会保障切り捨てだ」として小沢一郎が批判を浴びた、3割、4割の削減による財源捻出の話は、ここではしていない。

全般的に、民主党代表就任以前の小沢一郎インタビューを読むと、例の「民のかまど」のたとえ話*18こそしていないけれども、典型的な「小さな政府」志向の保守政治家だな、という印象を受ける。五百旗頭真はそんな小沢一郎に肯定的であり、「解題」に下記のように書いている*19

 政策路線の面から言えば、新自由主義的改革がひたすらに叫ばれる状況ではなくなった。それがもたらした弊害を意識しつつ「較差の是正」が説かれる局面も生じている。ただ国際競争に敗れて沈むことの悲惨さを「失われた10年」に痛い程知った日本が、不採算部門を抱き続けることはできまい。セーフティネットをめぐらす配慮を講じつつも、新自由主義的改革の推進により活力を高めることを基軸とし続ける他はあるまい。それは小沢には不都合な境遇ではないであろう。課題はむしろ小沢の政治的人格に関わると思われる。


小沢一郎のインタビューをまとめた前掲書が出版されたのは2006年6月だが、その直前に民主党代表選があり、小沢一郎が「国民の生活が第一」を掲げ、それまでの小沢一郎の主張にはなかった社民主義的な政策を取り入れたことは周知である。しかし、その基軸はあくまで新自由主義的改革の推進であることは、小沢一郎が今なお「小さな政府」を目指していることから明らかである。

つまり、小沢一郎は、五百旗頭真の望むような方向に進路をとったといえるが、前掲書の出版後、「ワーキングプア」の問題や派遣村、「秋葉原事件」が注目され、そのさなかにリーマンショックとそれに伴う世界金融危機が生じ、9年連続の民間給与所得減少からようやく少し改善したと思ったところでさらに急激に労働環境は悪化した。1998年に3万人を超えた自殺者は、今なお高止まりしたままである。ことここに至っては「新自由主義的改革の推進を基軸とした」政策では対応しきれないのではないか。

小沢一郎は、インタビューの末尾で、「(郵政総選挙の)次の総選挙では全く逆の結果もある」、「今の連立政権は(2005年時点から見て)4年はもたない」と言っていた*20。これは小沢の言う通りになったのだが、時代は、小沢一郎が思い描くような所得税大幅減税による、主に地方在住富裕層の活力を刺激する政策や、菅直人が支持基盤とする、東京に本社を持つ大企業の男性正社員にフォーカスした政策ではもはや立ちゆかないほど、貧困や格差の問題が深刻化していると思われる。

小沢一郎菅直人の語るオーラルヒストリーは、それぞれに興味深いが、急激な時代の変化には、彼らの政策では対応しきれないように私には思われる。もっと思い切って「サービスの大きな政府」に舵を切る政策が必要ではないかと考える次第である。

*1:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 203〜215頁

*2:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 205頁

*3:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 13〜14頁

*4:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 14頁

*5:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 46頁

*6:『90年代の証言 菅直人 市民運動から政治闘争へ』 72頁

*7:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 165〜168頁。特に注(23)=167頁記載

*8:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 52頁

*9:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 52〜53頁

*10:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 209頁

*11:小沢一郎に対するインタビューは計3度行われ、『論座』には2005年10月号から12月号までの3号に連続して掲載された。

*12:『90年代の証言 菅直人 市民運動から政治闘争へ』 102頁

*13:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 132頁

*14:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 131〜134頁

*15:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 132頁

*16:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 130頁

*17:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 183頁

*18:http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20100922/1285155919

*19:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 214〜215頁

*20:『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 202頁