kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

佐野眞一『巨怪伝』を読み終えた

読み終えた本。


巨怪伝〈上〉―正力松太郎と影武者たちの一世紀 (文春文庫)

巨怪伝〈上〉―正力松太郎と影武者たちの一世紀 (文春文庫)


巨怪伝〈下〉―正力松太郎と影武者たちの一世紀 (文春文庫)

巨怪伝〈下〉―正力松太郎と影武者たちの一世紀 (文春文庫)


読み始めたのが8月7日で、上巻を読み終えて3日間ほど他の本に浮気したあと、下巻を読み終えたのが8月19日。


この本は、東電原発事故を受けて正力松太郎が注目されたために、文春が急遽増刷したものだろう。佐野眞一がこの本の元になる雑誌記事を書き始めたのがチェルノブイリ原発事故の起きた1986年で、本を書き終えたのが長嶋ジャイアンツが初の日本一になった1994年。後者は、ナゴヤ球場で行なわれた、中日ドラゴンズとの優勝を賭けたシーズン最終戦で、読売監督の長嶋茂雄が試合前のミーティングで「勝つ、勝つ、勝ーつ!」と選手たちに喝を入れ、何が何でも勝つという執念を見せたのに対し、当時中日の高木守道監督は、普通の負け試合の選手起用をして負けた。同じ状況で10度試合をやっても9度までは読売が勝ったに違いない*1、しかしこの試合によって日本プロ野球は10年は遅れることになるなあ。試合をテレビで見た私はそう思った。そして、読売と西武が戦った日本シリーズの第6戦。東京ドームのスコアボードには西武の森祇晶監督の辞任を伝える「読売新聞ニュース」が何分間もの間表示されていたという。読売は、こういう場外戦までも駆使して難敵・西武との日本シリーズを制したのだった。

1994年は、サッカーJリーグ発足2年目にも当たる。2年連続でJリーグを制したのはヴェルディ川崎。そのヴェルディを読売新聞は紙面で「読売ヴェルディ川崎」と表記していた。Jリーグの試合では、なぜかヴェルディびいきの判定が横行し、鹿島アントラーズの選手だったジーコは、ヴェルディを相手に戦った第1回チャンピオンシップで判定に怒ってボールに唾を吐きかけた。この事件は当時たいへんな話題になったが、現在では日本プロサッカー史上の「黒歴史」にされているらしい。

以上の話は、本には出てこない。この本が書かれた当時の読売絡みのスポーツの話題を紹介した次第だ。

それから6年後の2000年に本書は文庫化されたが、その頃が読売新聞の絶頂期だったに違いない*2。読売新聞会長の渡邉恒雄ナベツネ)は、自自連立、自自公連立の仕掛人とされた。小沢一郎はヒョイヒョイとナベツネの仕掛けた罠に自らはまっていき、1999年には自自公連立政権下でガイドライン法案、国家・国旗法、通信傍受法などを次々と成立させた。政治の世界はナベツネの思うがままに進んでいった。

しかし、ナベツネ流の「権力と一体となったジャーナリズム」は正力松太郎の目指したものではなかった。正力は、国会議員になった時、自民党総裁の座を目指して読売新聞社主の座を一時退いた(のちに復帰)。あくまで政治の世界で頂点に立とうとしたのだった。

佐野眞一の本を読んでもっとも意外だったのは、松岡正剛も本書の書評*3で指摘しているように、

正力は国家主義に与したこともなく、またほとんど私服を肥やさなかった

ことだ。警視庁在職時代の関東大震災(1923年)で朝鮮人が暴動を起こしているとのデマをばら撒いて朝鮮人虐殺の原因を作り、のちにはA級戦犯容疑で逮捕・投獄された正力に対して私が持っていたイメージとはずいぶん違っていた。

ここで私は、何も正力松太郎が清廉潔白な人間だったと言いたいのではない。むしろ逆で、正力ほど強欲な人間、自分勝手な人間はいなかった。だが、正力の欲は底知れない「事業」への貪欲であり、それに全精力をつぎ込んでいたから私生活は質素なものだったらしいのだ。事業に賭ける正力の貪欲と我執はまことにすさまじく、他人がなした業績を「なかったこと」(いわゆる「黒歴史」)にして、自分がナンバーワンだ、創始者だと言い張るのが正力の得意技だった。正力が創設した「大日本東京野球倶楽部」(読売巨人軍の前身)が、日本で4番目にできたプロ野球チームに過ぎないことは、佐野眞一の同じ本を引用した沢村投手を殺した読売巨人軍 - kojitakenの日記にも書いた。プロ野球セントラルリーグにおけるジャイアンツの順位など4位がお似合いだという憎まれ口はともかく、なんでも「自分が一番」でなければ済まない正力は、1963年、読売系のスポーツ紙『報知新聞』(現『スポーツ報知』)の部数を急伸させた社長の竹内四郎が心筋梗塞で急死した時、通夜に現れて報知新聞の記者には「惜しい人物を失った」と形通りの談話を発表したものの、その舌の根も乾かぬうちにオフレコで「しかしな、本当のことをいえば、報知が伸びたのは竹内の功績ではないぞ。巨人軍が勝っているから報知は伸びたんだ。竹内は運がよかっただけだ」と放言した。その夜、報知新聞の記者たちは街に繰り出して、「くたばれジャイアンツ、くたばれ正力」とわめきまくったという*4。これを読んで私が思い出したのは、日本テレビジャイアンツ戦中継を担当しているアナウンサーには「アンチジャイアンツファン」が異常なまでに多いという話だった。ある者は大洋(現横浜)ファン、ある者は阪神ファンだったりした。彼らも読売の横暴に辟易することが多かったのだろうか。一方、読売の横暴とは無縁だったに違いない、「阪神タイガース優勝架空実況中継」で有名な大阪・朝日放送植草貞夫は熱心なジャイアンツファンだったと言われている*5


さて、「天覧試合」を大成功させて、正力の死去(1969年)をちょうど真ん中に挟んだ読売巨人軍の9連覇(1965〜73年)や、やはり正力死去の年に将来のプロ化を見据えて設立された読売サッカークラブと、正力が「自民党総裁への道」の切り札として心血を注いだ原発の推進は、正力にとっては同じ意味合いしか持たなかった。政治マニアはよく「政治をプロ野球やサッカーと同じに扱うな」と言うが、原発をその黎明期に推進したほかならぬ正力松太郎自身にとっては、原発プロ野球も同じだったのである。原発推進は、大人物であり将来の総理大臣である正力にふさわしい「スケールの大きな事業」でしかなかった。そのことは、佐野眞一が繰り返し何度も書いている。

そして、最初に物事を動かすのも難しいが、いったん始まった事業が惰性で動くようになると、その事業の周りにいろんな事業が付加され、利権もまとわりついて、いってみれば事業という物体の周りにいろんな付着物がどんどんくっついていって質量が増加していくために、惰性で動く力を止めるのはきわめて難しくなってしまうのだ。

サッカーの場合は、ようやくアマチュアのチームを読売が作った段階で正力松太郎が亡くなったから、その後Jリーグナベツネが横車を押そうとしても、日本サッカー協会はそれを止めることができた。しかし、既に巨大事業になっていたプロ野球はそうもいかず、正力亨オーナー時代に次第に影響力を縮小させてきたところにナベツネが乗り込み(1992年)、プロ野球機構の制度改革によってプロ野球を歪めまくったあげく、本書刊行の10年後にナベツネ宮内義彦堤義明らが球界再編騒動(2004年)を起こして世論の批判を浴びまくるという経緯を経て、やっとこさ地上波のゴールデンタイム枠からプロ野球中継が追い出された。

プロ野球以上にどうにもならないのが原発だったことはいうまでもない。ついに、東電原発事故で最悪のメルトダウン炉心溶融)を起こしてしまった。事故の重大さを思い知った時の首相・菅直人*6原発を止めようとしたが、それでも止まらない。菅は中部電力浜岡原発を一時停止させ、九州電力玄海原発の再稼働は阻止したが、北海道電力泊原発の営業運転再開を阻止することはできなかった。原発はもはや総理大臣にも止められないのだ。


こんなとんでもない原発を推進した正力松太郎とは無教養な男で、戦前には「新聞の生命はグロチックと、エロテスクとセセーションだ」と語って失笑を買ったが、その通り戦前の読売の編集方針は、徹底した大衆迎合路線、もっと言えばイエローペーパーづくりにあったと佐野眞一は言い切っている*7。正力の読売にとっては大衆迎合がすべてだったから、正力は「国家主義」には与しなかったのである。あの1923年の関東大震災における「朝鮮人暴動の噂」の流布も、それが大衆を煽ることを知っていたから正力がばら撒いたものだったのかもしれない*8

正力が原発について持っていた知識も「小指の先ほどもなかった」*9。後年原子力委員会委員長に就任した正力だが、就任前の科学技術行政協議会副会長第に国会で「核燃料」を「ガイ燃料」と読み、当時社会党成田知巳にこれを訂正されるという恥をかいた。この件は議事録に残っているとのことだ*10朝日新聞の大熊由紀子元記者なら正力を鼻で笑うところだろう。

ちなみに政界で原発創始者というと中曽根康弘だが、中曽根は当初正力に接近したものの、のち得意の「風見鶏」ぶりを発揮して正力から離反した。この中曽根にも人がやったことを横取りする性癖があった。もっとも、そのせいで中曽根らが日本初の原子力予算2億3千5百万円(この金額は「ウラン235」にちなんだとされる)をとった時の有名な「学者が居眠りをしているから、札束でほっぺたをひっぱたいて目を覚まさせた」いう言葉は、本当は稲葉修が言ったものだったのに中曽根が言ったことにされたとのことだ*11。もっともこれも中曽根自身の言い分だから本当かどうかはわからない。

正力はというと、さすがは元特高警察の嗅覚で、早くからこの中曽根康弘には警戒し、配下の読売新聞記者たちに中曽根を監視させていたらしい。しかし皮肉にも、その正力の「ミイラ捕り」が「ミイラ」になってしまった。それが中曽根の盟友としてあまりにも悪名の高いあの渡邉恒雄ナベツネ)だった*12。本を読んでいる大半の間、「正力め、この野郎」といまいましく思いながら正力の狡猾さに舌を巻き続けていた私だが、このくだりを読んだ時だけは、「正力、何やってたんだ、この間抜け」と叫びそうになってしまった。

主に本の後半に描かれている正力松太郎と務台光雄、正力松太郎と柴田秀利の確執もすさまじい。特に正力と務台の関係はすごくて、晩年、読売新聞の社会面の一部に、正力を個人崇拝する「正力コーナー」を設けさせ、読売新聞の社史も「正力松太郎史観」にしてしまった正力に対し、正力死後の翌年にそれまで長年空位だった読売新聞社長に就任した務台光雄は、正力の十三回忌(1981年)までは沈黙を保っていたものの、十三回忌が過ぎるとすさまじい正力批判を始めた*13。そして、1987年に新たに編まれた社史『読売新聞発展史』には、今度は務台による正力批判が延々70頁にもわたって掲載されたという*14。正力にせよ務台にせよ、これほどの執念を持つ人間でなくては権力者は務まらないのかと暗然とさせられる。


本書は、読売新聞の「大正力」の物語だから、読売のライバル朝日・毎日の話もずいぶん出てくる。いずれも大阪を発祥の地とする朝日・毎日はともに大阪商人らしい「えげつない」商売が特色で、昔は大阪から東京に新聞が出てくることはできても、その逆は不可能だ、朝日・毎日の牙城に阻まれると言われていたらしい。その大阪への進出を成功させたのは務台光雄だが、務台の能力に嫉妬する正力は生涯それを過小評価していたとのことだ。務台の大阪進出の話は本書のほか魚住昭の『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社、2000年)にも出てくるが、そういえば務台の評伝はまだ読んだことがない。本書にはほとんど触れられていないが、その務台でさえ名古屋進出はうまくいかなかった。正力松太郎は富山の出身で、出生地に近い高岡に支局があれば名古屋進出など不要だと考えていたらしい。務台は大阪進出は成功させたが、名古屋進出の際には「不当廉売」を叩かれ、そのせいか名古屋にも拠点を持つ今でも名古屋では読売新聞はほとんど売れていない。名古屋にもジャイアンツファンは結構多いが、そのジャイアンツファンでさえ中日新聞をとらなければ名古屋ではやっていけないとはよく聞く話だ。トヨタなどの地元企業に関する情報量が中日とその他では格段に違うかららしい。

朝日・毎日の話に戻ると、プロ野球阪神タイガースにも似て戦前から「お家騒動」を繰り返してきた両社だが、その結果謀反者が現れて新たに新聞社を設立したりすると、普段は犬猿の仲の両社が結託して徹底的に反逆者を潰したらしい。なにしろ、四国への新聞の輸送を妨害するために新参紙の梱包を海に沈めたりしたらしいからやることが徹底している。これは、大阪朝日新聞のお家騒動で追い出された記者たちが作った『大正日日新聞』の話だが*15、リベラル派の多かった同紙の大朝上がりの記者たちの多くはのち読売新聞に迎えられ、そのため正力が読売入りする前の読売新聞はリベラルな論調を特色としていたそうだ。

朝日・毎日は関東大震災で在京各紙が大打撃を受けた隙をついて拡販に成功した。朝日は東京の社屋はやられたが、大阪から東京に新聞を輸送した。また大阪毎日が買収していた東京日日新聞は、悪運強くも震災でたいした被害を受けなかったので、それと大阪資本の力が相俟って昔からの東京各紙をなぎ倒していった。

その朝日・毎日の怒濤の進撃のあおりを食って、その頃リベラルな紙面で知られていた読売が没落したが、読売は皇太子(のちの昭和天皇)に対するテロ未遂事件の責任をとらされて警視庁をクビになっていた正力*16を迎え入れて「エロ・グロ・ナンセンス」ならぬ「エロ・グロ・センセーション」の路線に転換することで朝・毎を追いつけ追い越せの快(怪?)進撃を果たしたのだった。富山の薬売りは大阪商人よりさらに一枚上手だったということなのか。

戦前の新聞はやることなすことがまことにすさまじく、早くも東京では読売の後塵を拝するようになった東京日日新聞(のちの毎日新聞東京本社)は、正力暗殺計画を企て、これを実行して正力に重傷を負わせたのだった。かつては、新聞社自体がテロを実行したという恐るべき歴史があるということだ。

正力に対するテロ事件が起きたのは1935年だが、その前年には時事新報社社長の武藤山治が暗殺される事件が起きた。この2つの事件は、1932年の「5.15事件」と1936年の「2.26事件」に挟まれる期間に起きた。今また、同じような時代が目前に迫っているのではないかという気がする。


最後に読売の話に戻る。正力、務台ときたら誰しもナベツネの名前を思い浮かべるだろう。戦国時代には信長、秀吉、家康がいた。しかし、正力松太郎はどう見ても信長タイプではない。次々と事業を興した正力は、明らかに豊臣秀吉タイプだ。

正力が秀吉なら務台は家康だろう。読売新聞の部数が1000万部を超えたのも、正力の後を襲ったのが務台だったからだ。正力が没して13年後、ようやく務台が正力批判の本音をむき出しにしたのは1982年だったが、その時務台は実に86歳だった。用意周到なその性格といい、死の前年に豊臣家を滅ぼした徳川家康を思わせる。

そして、読売が江戸幕府と違って長続きはしないだろうと思わせるのは、正力、務台のあとに織田信長タイプであるナベツネが現れたことだ。「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」を地で行くナベツネは、たとえば大阪読売の生みの親・務台が大目に見てきた反権力色の強い大阪読売社会部、通称「黒田軍団」を潰した*17。しかしそのナベツネは正力とは違って特筆すべき事業は何も始めていないし、務台と違って読売の部数を拡大することもできなかった。次々とライバルを蹴落としたナベツネの冷酷非情さは信長そのものだが、群雄割拠の戦国時代をのし上がっていった信長と違って、ナベツネは読売の組織力を最大限に利用したものの、勢力の拡張はついにできなかった*18。現在のナベツネは、正力と務台が築いた巨大な居城でふんぞり返っている。ナベツネは、せっかく正力が種をまいたサッカーの遺産をとっくに食いつぶしたあげくにこれを放棄してしまったし、長年権勢をふるってきたプロ野球でも、とうとう正力の遺産を食い尽くそうとしている。原発憲法改正に執念を燃やした政治でも、2000年頃までは思い通りに影響力を発揮していたが、近年は神通力が失せてきている。1999年には自自連立、自自公連立に軽々しく乗った小沢一郎だが、2007年の同じような局面では、小沢一郎こそ二度同じ誤りを犯そうとしたものの、民主党の政治家たちがこぞって「大連立」に反対し、これを潰した。

そして今年、2011年には東京電力福島第一原発が、世界の原発事故史上でも他にチェルノブイリとしか比較できない大事故を起こしてしまった。


以下、佐野眞一が17年前に書いた本の結びの部分を引用する*19

 今日われわれは、原発から送られてきた電力でテレビを見、ブラウン管から流れるプロ野球Jリーグの結果に一喜一憂し、翌日、スポーツ紙でその結果を再確認するような日々を送っている。

 死してなお読売グループを支配する正力の鬼神のごとき荒魂(あらたま)は、大衆という名前で呼ばれて一世紀あまりたったわれわれのなかにも、また、生霊(いきりょう)のように深々としのび入っている。


私が思うのは、「生霊」にもまた、「寿命」というものがあるのだなあ、ということだ。正力松太郎に「ミイラ捕り」ナベツネが「ミイラ」になることを見抜く眼力があれば、生霊の寿命ももう少し延びたかも知れなかったが、歴史とはそこまで正力松太郎にとって都合の良いものではなかった。

*1:あとの1度くらいは「運だけで」中日が勝ったかもしれない。野球とは運に大きく左右されるスポーツだから。

*2:2000年には、プロ野球でも長嶋茂雄率いるジャイアンツが日本シリーズ王貞治率いる福岡ダイエーホークスを4勝2敗で破って長嶋ジャイアンツ二度目の日本一を達成した。

*3:http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0769.html

*4:佐野眞一『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文春文庫、2000年)下巻375-376頁

*5:評論家時代の野村克也はこの架空中継を酷評したという。長年関西におけるタイガース人気に対抗意識を燃やしていた南海ホークス出身の野村には我慢できなかったのだろう。なお、植草貞夫は「読売ファン」との噂について朝日放送の女性社員に問い質されたところ、肯定も否定もしなかったという。なお植草は王貞治と同じ東京都墨田区出身であり、読売ファンであっても不思議はない。蛇足だが植草というと最近ではミラーマン一秀が思い浮かぶが、植草一秀は東京都江戸川区の出身。植草貞夫と親戚関係にあるかどうかは知らないが、「植草」とは東京の下町に多い姓なのだろうか。

*6:これを書いている現時点でも菅直人は首相だけれど、もうすぐしたら「時の首相」の表現が当てはまるようになるので、先取りしてこう書いておく。

*7:前掲書上巻200頁

*8:もっとも、さすがの正力も後年にこの件で自らが犯した誤りを認めたとのことだ。

*9:前掲書下巻239頁

*10:前掲書下巻240頁

*11:前掲書下巻213頁

*12:前掲書下巻220-222頁

*13:前掲書下巻369頁

*14:前掲書下巻418-419頁

*15:大阪朝日と大阪毎日の妨害を受けた『大正日日新聞』は、創刊からわずか8か月で廃刊の憂き目を見た。

*16:昭和天皇に対するテロ未遂事件で警視庁を追われた正力松太郎が、当の昭和天皇を迎えた「天覧試合」で生涯の頂点を迎えた、という部分(第14章)が本書のクライマックスになっている。

*17:本書文庫版巻末の解説文は、そのナベツネに潰された読売新聞大阪社会部出身の大谷昭宏が書いている。

*18:最近は朝日、毎日、産経などがこぞって部数を減らしているので、読売は相対的には今なおシェアを拡大しているといえるかもしれないが、何より今年(2011年)に読売は、この新聞のシンボルともいえる発行部数の「1000万部」をついに割り込んだ。

*19:前掲書下巻434頁