kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

新自由主義批判の書としても読めるジョージ・オーウェル『一九八四年』

ジョージ・オーウェル『一九八四年』を28年ぶりに再読 - kojitakenの日記 の続き。


一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)


ジョージ・オーウェルの『1984年』を初めて読んだ1984年当時は、冷戦時代の末期だった。この小説がアメリカで反共プロパガンダに利用されていることは知っていたので、そういう色眼鏡で読んだのは確かだ。

当時を覚えている私が隔世の感を抱くのは、今や『1984年』を右翼が「反共」の観点からこの小説を引用する機会がぐんと減ったことだ。代わって、「左」側からの全体主義批判に援用される機会が増えているように思われる。

一例として、今年3月16日の『しんぶん赤旗』のコラム「きょうの潮流」を挙げておく。


きょうの潮流 2012年3月16日(金)

 「テレスクリーン」は、双方向じかけです。情報をテレビのように受信でき、こちらから発信もできます▼ただし、自分の考えで伝える発信ではありません。装置がこちらのようすを写し撮り、音声ともども勝手に送信するのです。テレスクリーンは、イギリスの作家オーウェルの63年前の小説『1984年』にでてきます▼テレスクリーンの前で政府の発表が信じられないような顔をすれば、「表情罪」に問われます。聞き取れないささやき以外は、盗聴されます。なにしろ、送信先は思想警察ですから。監視される小説の主人公は、政府の役人です▼大阪の府立高校の卒業式で、校長が教職員の口元を監視していました。本当に「君が代」を歌っているのか。口が動いていないとみなした3人を、校長室によびだしました。校長は、橋下大阪市長の友人です。橋下氏は、「そこまでやっていない方がおかしい」と、校長をたたえています▼勝手に先回りすれば、次は口を動かせるが声は出さない“口パク”の監視でしょうか。あるいは、いやいや歌う人の表情の監視でしょうか。職員の思想・良心の自由を侵すアンケート調査でもあきたりないようすの橋下氏と仲間たちに、テレスクリーンはいかが?▼橋下氏は、命令に従わないなら“辞めさせる”と脅します。『1984年』が描く独裁国の標語の一つが、「自由は屈従である」。なるほど大阪でも、屈せず良心の自由を守れば罰せられ、屈従すれば監視下の“自由”がある、というわけです。

(2012年3月16日付『しんぶん赤旗』掲載)


橋下徹は今や右翼や保守派にとって最大の「希望の星」。『1984年』をうかつに語ると橋下批判に直結してしまう。そんなこともあって保守派は『1984年』について語るのを止めてしまったのではないかと私は勘繰っている。


ところで、上記『しんぶん赤旗』のコラムにあるように、『1984年』のディストピアである独裁国の標語の一つは「自由は屈従である」*1であるが、標語は3つあって、他の2つは「戦争は平和である」、「無知は力である」*2である。

この3つの標語はそのまま作中作であるエマニュエル・ゴールドスタイン著「寡頭制集散主義の理論と実践」の章のタイトルになっている。但し、小説中では第2章の中身は示されない。この作中作はオセアニアの独裁者・ビッグブラザーの宿敵であるゴールドスタインによるオセアニア「イングソック(イギリス社会主義)」批判の体裁を取っているが、今回再読して、初めて読んだ時には何とも思わなかったに違いない部分に注意を引かれた。以下その一部を引用する。

 しかし富の増加は階級社会を破壊する恐れがある−−実際に、ある意味では破壊している−−ということもまたはっきりしていた。全ての人間が短時間だけ働き、食料には事欠かず、浴室と冷蔵庫のある家に住み、自動車や飛行機すら所有するような世界が実現していたならば、そこでは最も明白であり、また最も重要であるかもしれない不平等の形態は、既に消滅してしまっていただろう。そのような状態が一般的になれば、富は一切の差異を生み出さなくなるだろう。個人の財産や贅沢という意味でのは平等に分配され、一方で、権力は相変わらず少数の特権階級が握っているといった社会を想定することはもちろん可能である。しかし実際問題として、そのような社会が長きにわたって安定を保つことはありえない。なぜなら、もし万人が等しく余暇と安定を享受できるなら、普通であれば貧困のせいで麻痺状態に置かれている人口の大多数を占める大衆が、読み書きを習得し、自分で考えることを学ぶようになるだろう。そうなってしまえば、彼らは遅かれ早かれ、少数の特権階級が何の機能も果たしていないことを悟り、そうした階級を速やかに廃止してしまうだろう。結局のところ、階級社会は、貧困と無知を基盤にしない限り、成立しえないのだ。(中略)問題は、世界の実質的財産を増やさずに、如何にして産業の車輪を回し続けるかであった。物資は生産されなければならない。が、それらが分配されてはならないのである。これを実現するには、最終的に、絶えまなく戦争を行なうという手段に訴えるしかなかったのだ。

ジョージ・オーウェル著・高橋和久訳『一九八四年』(ハヤカワepi文庫, 2009年) 293-294頁)

今世紀の中頃に現れた新しい運動、即ちオセアニアのイングソック、ユーラシアにおけるネオ・ボルシェヴィズム、イースタシアで俗に「死の崇拝」と呼ばれている教義には、自由と平等を永続させるという意識的な狙いがあった。これらの運動は当然古い運動から育ってきたもので、古い名称を引き継ぎ、古いイデオロギーに口先だけの敬意を払う傾向にあった。しかしこの新しい運動は全て、時宜を選んで進歩を阻止し、歴史を凍結させる為のものだ。お馴染みの振り子運動がまた始まり、そして止まるという訳である。例によって、上層は中間層グループによって追い出され、そうすると中間層は上層の位置に繰り上がることになるだろう。だが今回は意図的な戦略によって、上層が自分たちの地位を永久に維持できることになるのだ。

(同前 312頁)


このあたりになると、何やら1970年代以降の新自由主義を予言しているかのようにも読める。そして、冒頭に引用した『しんぶん赤旗』のコラムにもあるように、監視や密告を偏愛する橋下徹のごときは、この小説には一度も姿を現さない「ビッグブラザー」そのものであるとしか思えないのである。

「テレスクリーン」などの技術を描いた未来図としては、もちろん現実のものとなった技術との違いは大きいけれど、人間社会が間違った道に足を踏み入れる可能性を警告した慧眼に関しては、1984年よりも21世紀初頭にさらによく当てはまっていることに感嘆するほかない。

*1:ハヤカワ文庫版の場合、新庄哲夫の旧訳では「自由は屈従である」、高橋和久の新訳では「自由は隷従なり」と訳されている。

*2:新庄哲夫の旧訳。高橋和久の新訳ではそれぞれ「戦争は平和なり」、「無知は力なり」。