kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

村上春樹『辺境・近境』を読む(前編)

私は村上春樹の本をこれまでほとんど読んでこなかったのだが、村上が私と同じく阪神間に育った人だということは知っていた*1。あとヤクルトファンだということも。村上春樹が作家になろうと志したのは、1978年4月1日に神宮球場で行われたヤクルト対広島の開幕戦をスタンドで観戦していた時だった。これを知ったのは「東京紅團」というサイト(http://www.tokyo-kurenaidan.com/index.htm)に載っている下記の記事によってだった。


村上春樹の千駄ヶ谷を歩く より。

イアン・ブルマの「日本探訪」のなかに村上春樹とのインタビューが掲載されています。特にその中で村上春樹が作家になろうとおもったときのことをインタビューしています。

「…僕は作家になるんだ」と悟って体がふるえた時のことを村上はありありと思い出す。早春の午後の東京だった。日差しは優しく、そよ風が吹き、焼きイカの臭いがしていた。そして、野球ファンの応援の声が聞こえていた。一九七八年四月、村上は二九歳だった。彼は神宮球場の外野席に座って、ヤクルト・スワローズと広島カープの試合を観戦していた。アメリカ人デーヴ・ヒルトンの来日初打席だった。彼は二塁打を打った。その瞬間村上は、僕は小説を書けると悟った。なぜだかはいまだに分からない。ただ悟ったのだ。その当時、彼は妻の陽子と一緒に東京でジャズバーを経営していた。バーの名は「ピーターキャット」。毎晩店を閉めたあと、村上は台所のテーブルに向かって一時間か二時間書いていた。彼が英語で書きはじめた小説は『風の歌を聴け』だった。…」。

 昭和53年(1978)4月は、もっと正確にいうと昭和53年(1978)4月2日(日)のセリーグの開幕戦でした。ここに書かれているデーヴ・ヒルトンは一番バッターで初回に広島の高橋投手から二塁打を放っています。ですから村上春樹は試合が始まった瞬間に悟ったわけです。ちなみに入場者は43千人でヤクルトはこの日ピッチャー安田で3−1で勝利しています。昨年ヤクルトが優勝したとき、毎日新聞10月12日夕刊に「神宮球場の外野席で」というお祝いを書いています。


上記は2002年に書かれた記事で、「昨年ヤクルトが優勝したとき」というのは2001年のヤクルト最後の優勝(今のところ)を指す。現時点で昨年(2011年)といえば、「ヤクルトが優勝し損ねた年」(笑)だ。なお、上記記事で、昭和53年(1978)4月2日(日)とあるが、正しくは4月1日(土)である。

1978年といえばヤクルト初優勝の年だが、この年の開幕直前に、私は「今年はヤクルトが優勝する」と予言したのだった。この年のヤクルトは、読売に対抗できるとすればヤクルトか、という程度には注目されていたことが背景にある。私はそれまでヤクルトファンでも何でもなかったのだが、そんな予言をしたこともあってこの年はヤクルトに注目していた。そのヤクルトが日本一になったのだから、気分が良かったことは間違いない。但し私がヤクルトを本格的に応援するようになったのは、野村克也が監督に就任した1990年以降のことだ。それ以前にも、1986年に読売の優勝を吹っ飛ばしたブロハードの逆転2ラン(投手・槙原)などの忘れがたい試合もあるけれども。


さて、村上春樹阪神大震災2年後の1997年、震災で傷を負った阪神間を歩いているが、その途中、甲子園球場に立ち寄って阪神対ヤクルト戦を見に行っている。このことも同じサイトの記事に出ている。


村上春樹の世界を歩く(芦屋を歩く) より。

 村上春樹は「辺境・近境」ではほとんど芦屋について書いていません。

「小さな川を越えて芦屋市に入る。かつて通っていた中学校の前を通り過ぎ、かつて住んでいた家の前を通り、阪神芦屋駅まで歩く。駅のポスターを見ると、日曜日(今日だ)の二時から甲子園球場で「阪神・ヤクルト」のデーゲームがおこなわれるとある。それを見ていると急に甲子園球場に行きたくなってきた。」

とあり、この日は結局、阪神芦屋駅からそのまま甲子園球場に行ってしまいます。


とある。実は私もその1年前、村上とは逆に三宮から西宮に向かって被災地を訪れたことがあり、その最後に甲子園球場で、日曜日ではなく土曜日の午後2時から行われた「阪神・ヤクルトのデーゲーム」を見たのだった。スコアは阪神ファンが作っているサイトで確認することができる*2阪神戦に関する情報は、ネットでは他球団の群を抜いて多く、阪神ファンの熱心さにはいつも感心させられるが、このサイトから当該試合の結果を転記する。

1996年5月25日(土) 対ヤクルト7回戦 ●阪神1勝6敗  甲子園  通算13勝27敗 順位:6位
     1 2 3 4 5 6 7 8 9  R  H
ヤクルト 0 0 0 0 4 2 0 1 0  7  13
阪神   0 2 0 0 0 0 0 3 0  5  12
【勝】吉井3勝3敗 【S】高津1勝9S 【敗】郭李1勝4敗
本塁打】和田2号(2)2回、オマリー8号(4)5回、古田3号(2)6回、新庄10号(1)8回、グレン4号(2)8回
【独断寸評】5度目の3連敗、40試合時点で昨年(16勝24敗)以下、しかし新庄復活でかすかな光も

この頃は阪神の「暗黒時代」のさなかだったが、この試合に限っては阪神打線も結構活発で、なかなか見応えのある打撃戦だった。現阪神監督の和田や新庄のホームランは実はもう覚えていないのだが、スタンドの阪神ファンは大いに沸いたはずだ。阪神からヤクルトに移籍していたオマリーのホームランには、阪神ファンはおかんむりだったに違いない。ヤクルトファン的には、故障から3年ぶりに復帰していた伊藤智仁の登板がうれしかったが、制球が悪くて投球内容は今一つだった。8回に阪神打線につかまった投手は誰だったか忘れたが、最後は高津が締めるお決まりの継投だった。

では、村上春樹が見た試合はどうだったか。『辺境・近境』から直接引用する。


辺境・近境 (新潮文庫)

辺境・近境 (新潮文庫)

 試合は川尻と高津の投げ合いで、結局1対0で阪神が勝つ。一点差とはいっても、とくにスリリングな試合ではない。どちらかといえば見せ場のほとんどない試合だ。もっと極端にいえば、べつに見なくてもいいような試合だ。とくに外野席の観客にとっては。


この記述と前記阪神ファンのサイトから試合日とスコアがわかる*3。1997年5月18日の試合だ。

1997年5月18日(日) 対ヤクルト9回戦 ○阪神3勝6敗 甲子園 通算16勝18敗 順位:5位
     1 2 3 4 5 6 7 8 9  R  H
ヤクルト 0 0 0 0 0 0 0 0 0  0  8
阪神   1 0 0 0 0 0 0 0 X  1  6
【投 手】 阪神: 川尻9         【勝】川尻2勝4敗(完封)
     ヤクルト: 高津6、岡林1、加藤1 【敗】高津3敗
本塁打】 新庄4号(1)1回
【寸 評】 川尻の好投で勝つには勝ったが、相変わらずの貧打病、今後が心配。

なるほど、阪神ファンも「相変わらずの貧打病、今後が心配」と書いている。なお、ヤクルト全盛期を支えたリリーフエースの高津が先発しているのは、この年前記の伊藤智仁がクローザーを任されていた関係だろう。村上春樹が観戦した試合こそヤクルトは阪神に敗れたが、この年は野村采配が冴えに冴えた、ヤクルト球団の史上でももっとも輝かしい成績を残した年だった。逆に、1年前に私が勝ち試合を観戦した年は、読売が「メイクドラマ」をやらかした最悪の年で、ヤクルトはその読売に大量の星を献上した。「メイクドラマ」で直接読売の逆転を許した広島・中日よりある意味では罪が重かったかもしれない。


さて、長々と続いたプロ野球(ヤクルト)の話はこれくらいにする。以前からそのうち読んでおかなきゃなあと思っていた村上春樹の『辺境・近境』を読んだのは今年8月末のことだった。驚いたことに、1990年に村上春樹は「讃岐・超ディープうどん紀行」を敢行していた。阪神間の紀行文の存在を上記サイトで知った時、私は香川県民だったが、村上春樹讃岐うどん食べ歩きをしていたのは知らなかったのだ。灯台もと暗しである。この文章を書くために手元にある麺通団編『恐るべきさぬきうどん』の新潮OH!文庫版(2000年10月10日発行)を参照すると、村上春樹がうどんを食べに香川を訪れたことが書かれているが、そんな文章は記憶からすっ飛んでいた。


恐るべきさぬきうどん―麺地創造の巻 (新潮OH!文庫)

恐るべきさぬきうどん―麺地創造の巻 (新潮OH!文庫)


村上春樹が訪れたうどん屋は、小縣家、中村うどん、山下うどん、がもううどん、久保うどん。こういった店のうどんに関するうんちくは、ここでは垂れない。私の大嫌いな勝谷誠彦麺通団にすり寄って以来、讃岐うどんブーム(って今どのくらい続いているのか知らないが)から距離を置いていたからである*4。ここでは、村上の文章を読んだ麺通団員の反応を紹介しておくにとどめる。

「今出てる『ハイファッション』という雑誌、読みました?」
「知らんわ、そんな本」
「ほな、買うてください。村上春樹が香川へ来てうどん食うて記事書いとんですよ」
「誰やそれ。トーク番組やっとるおっさんか?」
「そら村上龍ですがな。あの『ノルウェイの森』書いた村上春樹ですよ」
「そんなん、普通のこと書いとんやろ。都会人がちょっと香川来たぐらいでうどんの本質がわかるかい」
「ところがですね、どこの店行っとると思います?」
「『わら屋』か、『かな泉』か、百歩譲って『小縣家』か?」
「いや、小縣家は行っとんですけどね、あとの店聞いて驚いたらいかんですよ。『中村』! あの飯山の。さらに坂出の『山下』、『がもう』。高松の『久保』」
「ちょっとあなどれんな……」
「ホンマ、血液中を駆け巡りますよ」
「そらアドレナリンや!」
麺通団編『恐るべきさぬきうどん 麺地創造の巻』(新潮OH!文庫, 2000年)306-307頁)

ブームになってから尻馬に乗った勝谷と、ブームになる前に香川県民をうならせた村上春樹の違いが、そのまま「パクリとデマ拡散」を処世術とする*5「コラムニスト」とノーベル賞候補の作家の差だと言ってしまっては皮相的に過ぎるだろうか。


さて、村上春樹の『辺境・近境』で本当に面白かったのは、上記の2編(「神戸まで歩く」、「讃岐・超ディープうどん紀行」)ではなく他にあって、実はそちらの方が本論だったりするのだが、ここまでであまりに長くなったので、以上で「前編」ということにして一区切りつけることにする。「後編」は今日はもう書かない。

*1:村上春樹は京都、私は大阪の出身で、ともに小学校に上がる前に阪神間に移り、高校を卒業するまでを過ごした。

*2:http://www.tigers-fan.net/96/sc9605.htm

*3:http://www.tigers-fan.net/97/sc9705.htm

*4:勝谷は大阪に近い尼崎の出身なら、大阪の柔らかい麺のうどんの良さをアピールすべきではないかと思う。私の記憶では、大阪人は自分たちのうどんに誇りを持っていたはずだ。

*5:http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20121028/1351386790