kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

松本清張『眼の壁』と長野県の部落差別問題

松本清張はつい最近まで食わず嫌いして全く読まなかったが、昨年秋に『Dの複合』(1968年)を読んで以来はまってしまって、暇を見て読んでいる。清張作品は、推理小説としてはトリックはずさんだったり実行不可能だったりするし、刑事は呆れるほど無能だし、ストーリー展開はご都合主義だしと、欠点が多いのだが、読者を引きつけて一気に読ませてしまう技量がすごい。それに、隠し味として権力批判や差別批判が込められているのが良い。

だが、松本清張には駄作も多そうだ。先日読んだ『影の地帯』(1961年)はひどい駄作であった。『点と線』(1958年)と並行して書かれた清張最初期の推理小説『眼の壁』(1958年)の劣化コピーだったのだ。どこが「劣化」かというと、『眼の壁』にあった、「反差別」の隠し味がない上、ストーリー展開のご都合主義が度を超えているのである。しかも、この作品では、ストーリーに引きつけられるというよりは、あまりに内容がスカスカで、文庫本で700頁を超える分厚さなのに、あっという間に読めてしまう。読み終えて、「なんじゃこりゃ」と肩すかしを食った気分になった。


影の地帯 (新潮文庫)

影の地帯 (新潮文庫)


文庫本の解説を見ると、『影の地帯』を書いた頃の松本清張は、同時に並行して多数の推理小説を書いていた時期で、どのくらい多く書けるか限界に挑んでいたらしい。そのせいか、並行して書かれた『歪んだ複写』(1961年)と内容がダブるところもある。巻末の増刷数を見ると、『影の地帯』は『歪んだ複写』より増刷の頻度が多いが、『歪んだ複写』はこれまでに読んだ清張作品では2番目につまらなく、『影の地帯』が一番つまらないと思った。これらの作品は、連載開始時には『ゼロの焦点』(1959年)、完結時には『砂の器』(1961年)と並行して書かれたが、それら有名作とは明らかに著者・松本清張の力の入れ方が違う。

ところで、『影の地帯』と似た趣向の松本清張の初期推理作品『眼の壁』について、東京(中日)新聞のコラム「筆洗」が、最近の村上春樹の小説『ドライブ・マイ・カー』と絡めた文章を書いていたらしい*1。コラムが掲載されたのは今年(2014年)2月9日であり、リンクは既に切られているが、コラムを転載した下記ブログ記事から参照できる。

http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11768429697.html(2014年2月9日)

 松本清張さんにも失敗はあった。一九五七年、週刊誌に連載した『眼の壁』。ある場所の描写で筆が滑った▼岐阜県瑞浪市を流れる土岐川を「町の中を清流が」と書いた。事実ではない▼陶器の生産地。川の水は当時、陶土で白く濁っていたのだ。忙しい清張さんは地図上の想像で描写することもあったという。読者の指摘でただちに「水は真白く濁っていた」と、訂正した▼これとは異なるが、村上春樹さんの『ドライブ・マイ・カー』が騒動になっている。北海道中頓別(なかとんべつ)町出身の二十四歳の「みさき」が運転中、煙草(たばこ)を窓の外に弾(はじ)き捨てる。「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」。ここに町議が反発した▼町議の気持ちも分かるが、事実の誤りではなく、主人公の「主観」の問題である。「みさき」が煙草を投げたのは主人公への同情や好意の表れか。問題の文章はその好意にあえて気付かないふりをする主人公の思いと読める。自分への好意ではなく「中頓別町ではみんなやっているのだろう」と思い込もうとする。あくまで解釈だが、本気ではない気さえする▼村上さんは名前は変えるというが、中頓別町に後悔はないか。「みさき」は魅力的でさえある。『坊っちゃん』で夏目漱石は松山の悪口をさんざん書いたが、作品は松山の自慢であろう。何か知恵はなかったか。瑞浪育ちは思う。

岐阜県瑞浪市は名古屋から中央本線中央西線)で快速電車で50分くらいのところにある。コラム子は、岐阜県出身で名古屋の中日新聞に勤務する、人生の多くの時間を中京文化圏で生活してこられた記者なのであろう。瑞浪を舞台にした小説は、『眼の壁』くらいしかないようだが、なにせ清張作品だからおどろおどろしい殺人事件の舞台になっている。詳細はネタバレになるから書かないが、そんな小説であっても小説に取り上げられたことは、地元の人にとっても嬉しいということか。


眼の壁 (新潮文庫)

眼の壁 (新潮文庫)


ところで、『眼の壁』の舞台はもう一つあって、それは長野県佐久郡である。ここには被差別部落がある。松本清張は、それが「被差別部落」であることを明記していない。しかし、地域、職業、登場人物の言葉などから被差別部落であることは容易に読み取れる。現に、『眼の壁』が映画化された時、部落解放同盟から抗議を受けた事実がある。しかも清張は朝鮮人差別問題をも絡めている。映画化された『眼の壁』は、原作では「隠し味」として用いられたに過ぎなかったハンセン氏病差別を主要なモチーフに転換した映画作品を持つ『砂の器』とは対照的に、映像作品に恵まれず損をしている作品といえるのではないかと、両方の映画とも見たことのない私は勝手に想像している。

長野県佐久郡の部落差別問題は、朝日新聞主筆若宮啓文が駆け出しの記者として長野支局に配属された時、ずいぶん取材し、連載記事も書いたらしい。若い人に向けて書かれたちくまプリマー新書の第2章「『差別』の中を歩く − 長野で体験したこと」に詳しく書かれている。



たとえば首都圏で生まれ育った方々など、部落差別問題を意識することなく過ごしてこられた方が『眼の壁』を字面だけ読んだ場合、作品に部落差別への批判と怒りが込められていることに気づかれないこともあろうかと想像するが、この作品には上記のような「隠し味」がある。しかし、その少しあとに書かれた『影の地帯』にはそのような要素はない。それが、私が『眼の壁』を評価するけれども『影の地帯』は全く評価しない理由である。