kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

松本清張『溺れ谷』のモデルたち

最近、読書記録の記事をほとんど書いていないが、今年は松本清張を21冊も読んでしまった。年初以来今日までに読んだ本は103冊だが、その2割以上を占めている。今しがた読み終えた本は下記。



池田勇人内閣当時の1963年の砂糖の輸入自由化を題材にした小説。山前讓氏の解説をメモしておく。以下ネタバレ注意。

『溺れ谷』はもちろんあくまでもフィクションだが、そうした砂糖業界の流れのなかに、亜細亜製糖のモデルと思しき砂糖会社も存在している。また、物語を彩る亜細亜製糖の古川社長や是枝農相、あるいは鶴田甚三郎らの、モデルになったらしき人物の姿もまた、当時の政財界に垣間見ることができる。

松本清張『溺れ谷』(光文社文庫,2014)427-428頁、山前讓氏の解説より)


とりあえず簡単に調べた範囲でわかったことを書くと、是枝農相のボスである前農相山名市郎のモデルは、明らかに同じ「イチロー」である河野一郎だろう。で、河野の寵愛を受けた農林省の官僚の名前は安田善一郎だ。

また、是枝農相のモデルは、河野一郎(第2次池田第1次改造内閣の農相)の後任だった重政誠之(第2次池田第2次改造内閣)だろうか。重政の名前は私には馴染みがないが、Wikipediaによると、

農商務省時代に、当時朝日新聞記者だった河野一郎と親交を持ち、自民党では河野派(春秋会)に所属、派閥の金庫番あるいは代貸し的な存在となった。1962年、第2次池田内閣で農林大臣として入閣を果たし、米価問題では「米価は徳川時代から政治米価」と語るなど農政に力を発揮した。

とある。

また、同じWikipedia

1965年7月に河野が死去すると、旧河野派(春秋会)代表幹事・最高顧問格として派閥の実質的なトップとなるが、社長と親交のあった共和製糖に、農相時代に払い下げた国有林を担保に、同社が農林中央金庫から不正融資を受けていた事件が発覚し(共和製糖事件)、事件への関与が疑われ秘書が政治資金規正法違反で逮捕されたことも影響して指導力が失われた。

とある。共和製糖事件の概略は、これまたWikipediaによると次の通り。

共和製糖事件

1966年9月27日に共和製糖が重政誠之農林大臣時代に払下を受けた国有林を担保に農林中央金庫から不正融資を受けていた事件が発覚。社会党参議院決算委員会で共和製糖への不当融資について政府を追及。

1967年2月8日、東京地検特捜部、共和精糖事件、菅貞人前社長ら同社幹部6人を業務上横領などの容疑で逮捕。

3月17日、重政誠之の秘書が代議士後援会「政誠会」の代表兼会計性人舎だったが政治資金規正法9条の会計名簿を備えていなかった政治資金規正法違反容疑で逮捕。

3月18日、共和製糖事件に関連し相沢重明社会党参議院議員に国会質問に絡む収賄容疑(同社に対する不正追及をめぐり同社及び対立する業界団体「日本ぶどう糖工業会」双方から現金を受取った疑惑)が発覚、東京地検が相沢議員を取り調べ。

3月20日社会党は相沢議員を除名処分。3月23日、東京地検特捜部、共和製糖事件で相沢参議院議員を在宅起訴。

事件の捜査の結果、共和製糖が融資金の中から政界人に金が渡っていたことが明らかになった。事件の背景に砂糖の輸入自由化に伴う国内砂糖業界の経営不振を背景に業界保護のための甘味資源特別措置法や糖価安定法の立法があったとされ、「アリのように砂糖に群がった政治家たち」と批判を浴びたが、職務権限の壁に阻まれて政治家は相沢参議院議員以外は立件できなかった。

その後、9人に有罪判決。相沢は懲役2年追徴金150万円となり、上告中に死亡して公訴棄却となった。菅は懲役4年6ヶ月の有罪判決となった。

してみると、亜細亜製糖のモデルは共和製糖、市川社長のモデルは菅直人ならぬ菅貞人である可能性が高い。

松本清張が『溺れ谷』を「週刊新潮」に連載したのは1964年から65年にかけてで、単行本の出版(新潮社)は1966年とのことだから、小説の登場人物になった財界人が、単行本発売の翌年に逮捕されたことになる。その効果もあってか、『溺れ谷』は1968年に早くも「新潮小説文庫」として文庫化されたらしい(その後1974年にカッパ・ノベルス、1976年に新潮文庫入りした。私が読んだのは2014年の光文社文庫版)。

安田善一郎については、下記のブログ記事が検索に引っかかった。但し、ともに安田善一郎への言及はほんのわずかしかない。このあたりの官僚については、省は違うが「下町のケネディ」とか「自由の戦士カキーン」とか言っていたらしい、現在ドラ息子が民進党の右派議員をやっているあいつ(故人)あたりが詳しかったんじゃなかろうか。いや、あいつよりもう少し上の世代だろうな(と思って調べてみたらあいつは1933年生まれだった。世代がだいぶ違うようだ)。


また、共和製糖と菅貞人については、大学の研究レポートで集めた資料のメモと思われる下記サイトが引っかかった。


この菅貞人は、共和製糖事件で逮捕されたわずか1年後の1968年、経営の行き詰まった人物往来社の経営を引き継いだらしい。

 だいたいですよ、八谷政行さんが困り果てて、時の有名人・菅貞人さんがその経営を引き継いだあたりなんかに、物語になりそうな雰囲気がぷんぷん漂っているんですよね。昭和43年/1968年の出版界のできごとといえや、河出書房新社の倒産、いわゆる「河出ショック」が強烈すぎて、新人物往来社のことはその影に隠れている感があるんですけど、だって、なにせ菅貞人さんですよ。ほんの1年前に、共和製糖事件で詐欺・私文書偽造行使の容疑で逮捕されて、その前後にはマスコミからよってたかって悪人よばわりされた、あの菅貞人さんですよ。

「酒もタバコものまず、“ただ金もうけ”だけが生き甲斐と豪語し、共和グループの総帥として文字通りワンマン振りを発揮していた菅貞人も、昭和四十二年二月八日、東京地検特捜部によりついに逮捕されることとなるのであるが、その前身は、多くの謎につつまれている。」(『共和製糖事件』昭和42年/1967年4月・東邦出版社刊、大森創造[参議院議員]監修、栗田勝広[大森の秘書]著、「怪物菅貞人とその周辺」より)

 まあまあ、“怪物”菅さんのことですから、新人物往来社がはじめての出版事業じゃなかったらしいです。前掲の『共和製糖事件』には、戦後まもなく「吉昌社」なる出版社をやっていたことが書かれています。

「韓は(引用者注:菅貞人の旧名・韓吉昌のこと)、昭和二十三年四月、明治大学商学部夜間部に入学、二十六年三月に卒業したことになっているが、菅の真面目は、学業より商才の方にあった。上京するや間もなく、怪しげなブローカー仕事に精を出し、小金をためてから、昭和二十一年には、「吉昌社」という出版社をつくり「桃源」という雑誌や「心敬集」という単行本を発刊するとともに、同じ事務所の一角には「中日貿易」の看板をかけて、ここでもっぱらヤミ商売をするといういっぱしの虚業家になっていたという。この「桃源」という雑誌は何回か出されてから廃刊となるのであるが、その執筆者には、江口換(原文ママ)、北条誠舟橋聖一草野心平などの文学者の名前がみられた。」


菅貞人とは、ずいぶんスケールの大きな、まさに「怪物」との形容にふさわしい悪人だったようだ。菅の生年月日が1926年1月5日生まれということまで突き止めた。訃報等の情報はないので、現在も健在なのであろうと推測する。

なお、松本清張がこの小説において、亜細亜製糖の社長の出自を匂わせる文章を、差別用語を用いて記述していたことを付記しておく*1共産党支持で知られた松本清張といえども、歴史的制約からくる差別思考から自由ではなかった。

*1:原文を引用すると、「いったい、古川恭太とは何者か。その前身は未だに謎になっている。或る者は戦時中に一介の軍需工場の工員だったと言い、或る者は第三国人でないかとさえ言う」(松本清張『溺れ谷』(光文社文庫版(2014) 112頁。巻末に「本作品中には、今日的な観点からすると差別的な用語・表現が含まれています」との、通例の断り書きが添えられている)。但し、本作において古川恭太の年齢は61歳であり、1963年当時37歳だった菅貞人とは年齢はだいぶ違う。清張は複数のモデルを融合させて古川恭太という人物を造形したのか、それとも古川恭太のモデルが菅貞人であろうという私の推測が間違っているのか、それはわからない。