kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

復刊された渡邉恒雄『派閥 - 保守党の解剖』(1958)を読む;(下)32歳のナベツネによる「小選挙区制」論

復刊された渡邉恒雄『派閥 - 保守党の解剖』(1958)を読む;(上)戦後保守政治とマルクス経済学者 - kojitakenの日記の続き。意に反して日をまたいでしまったのは、疲れが出てしまったからだ。この3連休は、2週間前に引いた夏風邪の後始末をすべく、休養に充てるほかなさそうだ。

さて、このエントリのテーマは小選挙区制。1958年に当時32歳のナベツネ渡辺恒雄)が書いた小選挙区制論を紹介するが、例によって小沢一郎批判に脱線するのはもちろんのことである。


派閥―保守党の解剖

派閥―保守党の解剖


まず、上記書籍から引用する。

 同選挙区内で喰うか喰われるかの選挙戦を演じて当選して来た二人の代議士が、再び次期の総選挙までの半日常的な選挙工作を通じてお互いに憎み合い、いがみあうであろうことはむしろ当然のことであり、そのように憎み合っている二人の代議士が中央政界で仲良く政治活動をやっていけるわけがなかろう。
 そうしたどうしようもない利害的対立からこの二人は必然的に党内の別々のグループすなわち派閥に属し、相対立した立場の親分の下につくということになる。ここに党内派閥発生の大きな原因があるのである。

小選挙区制の狙い

 そこで現行中選挙区制小選挙区制に改正することによって党内派閥を解消しようという主張が生れてくる。岸首相はこの主張の強い提唱者で、岸氏が自民党幹事長時代に小選挙区法案の国会での成立を通行させようとし社会党の猛反対はもとより、党内からもさらに一般世論の強い反対を受け、失敗に帰したことは周知のとおりである。
 岸氏らの小選挙区制の主張は(1)党内派閥の解消のほかに(2)中間的小政党の発生を防ぎ、キャスチングボウトによる国会運営をなくすこと、(3)小政党の存立を不可能にすることにより、合同した保守党が再分裂することが出来なくすること、(4)一人一区制となれば党の公認が候補者の当落を大きく左右することから、候補の公認件を持つ党首及び党内の少数実力者の党内に対する指導力を飛躍的に強化することなどを狙っており、このような狙いを持った小選挙区制は、党内派閥解消にきわめて有効であると同時に党内独裁制の出現に道を開く恐れが多分にある。さらに岸氏の狙いには(5)小選挙区化により革新票の死票を増大させることにより一挙に革新系議席を減らし、国会で与党の議席を三分の二を越させ憲法改正を断行しようとの意図もある。

渡辺恒雄『派閥―保守党の解剖』(弘文堂,1958)2014復刊版 42-43頁)

ナベツネが書いているのは、鳩山政権時代に「ハトマンダー」と呼ばれた小選挙区制法案が廃案になったことだろうが、ナベツネ岸信介がその提唱者であったと書いている。さすがは、あの「トンデモ本」の著者・孫崎享が英雄的な政治家と持ち上げるだけのことはあったといえようか。

いうまでもなく、上記のうち(4)は小泉純一郎が2005年の郵政総選挙で、その恐るべきパワーを存分に利用した。そして(5)は、今後安倍晋三によって利用される可能性が高い。現在、「安倍首相は『解釈改憲』などという姑息なことをやらずに、正々堂々と憲法改正を訴えるべきだ」と主張する「護憲派」は少なくないが、今後解散総選挙で、自民党と次世代の党などを合わせて3分の2以上の議席を占めれば、安倍晋三が明文改憲を訴えてくる可能性がある。

(前略)去る(昭和*1)三十三年五月の、保守合同後最初の総選挙で、地方遊説に廻った岸首相は、各地で論ぜられた保守党内のはげしい同士討をみて、小選挙区制実施の必要を痛感したということから、次の総選挙までには小選挙区制法案を成立させるとの談話を発表した。
 事実この総選挙での党内抗争は、まれにみるはげしさがあった。どの選挙区でも、自民党の各候補は、社会党を攻撃するより先に、同じ自民党の同一選挙区内の候補の個人攻撃に勢力を集中した。このような同士討ちの結果が、総体的にみて保守票をへらす結果になることは想像に難くない。

小選挙区化の困難な理由

 では岸首相の言明したように小選挙区法案の成立は出来るだろうか。理想的な内容での小選挙区制の実施はほとんど不可能ではないかと筆者は考える。

(中略)

党首独裁の強化

 私見はさておき、仮りに小選挙区制が実施された場合の政党内の事情はどうなるだろうか。
 まず中小政党の存立が不可能になり、党内で党幹部の意見や、党機関の決定した政策に反対であっても、脱党することが出来なくなる。もし党から除名されれば、余程強力な固有の選挙地盤を持つ者でもない限り、落選は確実である。一人一区を原則とする小選挙区制下では、保守・革新二大政党以外の小党の立候補者や無所属候補は、中選挙区制に比し、まず決定的といってよいほど、当選は困難になるからである。従って党中央に反対の意見を持っても、これを政治に反映させることを断念して、党内多数勢力、すなわち主流派、そして結局は党首の意向に従わねばならなくなる。
 次に、党の公認決定が、その党の候補者の当落をまず八分通り決定することになる。候補者数が絞られれば絞られるほど、この傾向が強くなる。しかもこの公認決定に関しては、通常党首及び党首流派の領袖が圧倒的に強い発言権を持つ。これらのことは、小選挙区制を通じ、党首がその独裁権力を集中、強化する可能性がきわめて強いことを意味する。
 小選挙区制は、このようにして党首の権力を強め、党首に反対の立場をとる派閥の議員を急速に消滅させ、反主流派の領袖を弱体化させる上にもっとも有効な方法である。しかし日本の政党が、現段階でこのような党首独裁下の方向をおし進めることは。日本の民主主義政治を健全に発展させるものとは思われない。

渡辺恒雄『派閥―保守党の解剖』(弘文堂,1958)2014復刊版 44-47頁)

引用文中の末尾におかれたナベツネの主張は正論である。保守のナベツネでさえこのようにとらえていた小選挙区制は、その後1973年に田中角栄が再度チャレンジしたがやはり導入に失敗した。角栄の失敗から20年後にこの難事業をなしとげた最大の「功労者」は、自民党における独裁者的指導者と目された小沢一郎だった。これには自民党内から野中広務小泉純一郎らを含む多数の反対者が出たが、小沢はマスコミ(特にテレビ朝日で番組を持っていた田原総一朗久米宏)及び学者(山口二郎後房雄ら)それに野党の政治家(社民連菅直人社会党山花貞夫ら)を巻き込み、自民党内の反対者に「守旧派」とのレッテルを貼るやり方で多数派を形成し、不可能を可能にしてしまったのだった。小沢は自民党を倒しての政権交代を目指して自民党を飛び出し、新生党を経て新進党を結成したが、1996年の衆院選に敗れて小沢の野望はいったん潰えたかに見えた。

のち小沢一郎民主党入りしたが、民主党というのは「小選挙区制下で自民党を倒して『政権交代』を成し遂げる」ことのみを目標にした政党だった。2009年の総選挙における民主党の圧勝は華々しかったが、今にして思えばこれこそ「超新星の大爆発」だった。そして、その気になれば小選挙区制がもたらす独裁政治を行うことができたはずの小沢一郎は、なぜか鳩山由紀夫の代表辞任とともに幹事長を辞めてしまい、小選挙区制下では上記ナベツネの引用文からもわかるように明らかな自殺行為というほかない新党(「国民の生活が第一」を経て「日本未来の党」)結成に走ったあげく国政選挙(2012年衆院選と2013年参院選)に立て続けに惨敗し、事実上政治生命を失ってしまった。そしてそれと同時に待ち構えていたのは二大政党の片割れ・自民党政治の復活、しかもその中でも特に悪質な極右政治家・安倍晋三による独裁政治だった。

特定秘密保護法成立や集団的自衛権の政府解釈変更をゴリ押しした安倍晋三の政治は、小沢一郎がなした負の「成果」なのである。その責任はあまりにも重く、小沢の罪は万死に値する。もちろん田原・久米・山口・後・菅・山花らや、「政治改革」を支持した人々もその罪を負わなければならないが、その誰をとっても罪の重さで小沢に及ぶ人間はいないだろう。

*1:「(昭和)」は引用者による補足。昭和時代に書かれた本や新聞記事は、「昭和」という年号を省略して「去る三十三年五月」などと表記するのが通例だった。内政のニュースを伝えるのに西暦が用いられることはほとんどなかった。