kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

百田尚樹『殉愛』と『ショスタコーヴィチの証言』は対極に位置する本では?

昨日(11/22)書いた 「やしきたかじんさんの長女、出版差し止め求め提訴 晩年を百田尚樹が描いた『殉愛』」(産経) - kojitakenの日記 にいただいたコメントにぶっ飛んだ。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20141122/1416616653#c1416670264

deborarabode 2014/11/23 00:31
死んだカリスマ音楽家(苦笑)に関する偽書、と言う点で『ショスタコーヴィッチの証言』を思い出した。今回も、多少の政治色は有るし。。
ただ、どうしようもなくチャチなのは、現在の日本の実情を反映か。


ソロモン・ヴォルコフが1979年に完成させた『ショスタコーヴィチの証言』がアメリカで刊行されたのは1979年で、日本でも1980年に中央公論社から訳本が出た。私が最初にショスタコーヴィチの第5交響曲(昔は『革命』という渾名がついていた)を聴いたのは1977年。夏休みに放送されたNHK-FMクラシック音楽番組においてであった。確かまる1週間、ショスタコーヴィチの音楽を特集していた。ショスタコーヴィチの中期の音楽に当たり、この時期のショスタコの作品は、ソ連政府が推進した「社会主義リアリズム」に沿った、平明でわかりやすい音楽が多いとされていた。しかしその第5交響曲の終楽章は、なんとも奇妙な音楽だなあと思ったのだった。短調の行進曲が続き、それがテンポを上げて熱狂的に進むかと思いきや、テンポを落とした音楽が延々と続く。そして最後に長調に転じるのだが、ベートーヴェンの第5や第9のような、勝利や歓喜の音楽というにはどことなく変な音楽だ、という印象だった。それに一転して「強制された歓喜」という解釈を与えたのがヴォルコフの『証言』だったのだが、その言葉もまた、初めて音楽を聴いた時の私の印象とは若干の違和感があった。そもそもあれが「歓喜」の音楽であるとは私には思えなかったのだった。

のち、ショスタコーヴィチの音楽をいろいろ聴くようになり、これはとんでもない作曲家だなあと思うようになった。ショスタコーヴィチは自らの音楽に暗号を埋め込んでおり、それは研究者による解釈なしでは聴き手には絶対にわからないものなのだが、それにもかかわらずその音楽には、聴き手の心に直接訴えかけるものがある。私が連想するのはバッハの音楽であり、たとえばその『フーガの技法』第8番や第11番の三重フーガだった。ショスタコーヴィチは、1991年に終わりを告げたソ連史上最大の作曲家だったと私は思っている。プロコフィエフや(1917年以降の)ストラヴィンスキーとは比較にならない。

そのショスタコーヴィチソ連政府に対する姿勢は「面従腹背」であった。当たり前である。ソ連とは、人間の内面に干渉して権力者に服従させるという、想像を絶する国家だったのだ。ナチス・ドイツとともに、20世紀の世界が生み出した最大の鬼っ子だったというほかない*1

以下に、吉松隆による『ショスタコーヴィチの証言』評を紹介する。なお吉松隆は、今年初めの佐村河内守事件で私が批判したことのある現代日本の作曲家だが、この書評にはさすがは本職の作曲家とうならされる。原文は非常に長いが、この文章を切り刻む力は私にはないので、以下に全文を引用する。

http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/~data/BOOKS/Thesis/shotakoTES.html

ショスタコーヴィチの証言」は偽書的「聖書」である

 「ショスタコーヴィチの証言」が登場して今年(1994年)で15年になる。以下「証言」と略すこの書物、1944年生まれの音楽学者ソロモン・ヴォルコフによって、「ショスタコーヴィチ自身が語る回想録」という触れ込みで発表された。

 初出は1979年にニューヨークで出版された「Testimony:The Memoirs of Dmitri Shostakovich」。日本では「中央公論」誌にまず抄訳が「ショスタコーヴィチの回想録」として発表された後、1980年10月に中央公論社より全訳が出版されている。
 この書の成立過程について、編者のヴォルコフはこう説明している。「1971年ころから74年までの間に多数回に渡ってショスタコーヴィチと個人的に接触し、その際インタビューした会話をその場で速記し、後に一人称の形に編集して原稿化したものを当人に内容の確認をしてもらい、西側で死後発表するという約束のもとに全権委任されたもの」というのである。
 そして、1974年11月13日(まさに死の1年前である)、ショスタコーヴィチはヴォルコフを自宅に呼び、原稿が西側にあることと、自分が死んでから発表されることを確認してから彼に写真を託し、そこに「グラズノフ、ゾーシチェンコ、メイエルホリドについて語った思い出のために。D・S」と署名したという。

 この「証言」は、ソヴィエト連邦という西側から見れば不思議な国の作曲家ショスタコーヴィチの、隠れていた真実の声(反体制的な心情を秘めていたという一点だけが誇張されたきらいはあるが)として大きな衝撃を与えた。この書によって、今まで国策迎合の音楽と軽蔑されていた作品にも、ヒューマニズムを視点とした新たな光が当たり始め、「音」だけの情報に片寄っていたショスタコーヴィチの音楽について、「文字」の上での議論が始まった記念すべき事件となった。
 しかし、ソヴィエト側はこれを「偽書」と断定し、ショスタコーヴィチの公式発言のみを年代順に集めて並べた「ショスタコーヴィチの自伝」を出版。一方で、新たにショスタコーヴィチ交響曲を録音する西側の指揮者たちは、「証言」のショスタコーヴィチ像を意識した新しい解釈による演奏を志すようになり、批評家たちもこぞって「証言」を引用し始めた。まさに、ショスタコーヴィチの需要史は「証言以前」と「証言以後」という二つの時代に分断されるような騒ぎになったのである。
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 しかし、出版当初からこの「証言」は偽書か否かの論争にさらされた。
 その理由として第一に、この書全体に漂う悲観的で自嘲的なトーンが、英雄的なヒューマズムに満ちた交響曲の作曲家像と矛盾する、と考えられた点が挙げられる。壮大な第5番のフィナーレは強制され鞭打たれての賛歌であり、レニングラード攻防戦を描いたと言われている第7番や戦争を描いたと言われている第8番はスターリン政権の犠牲者への鎮魂曲、などという自作についての解説は、確かにこれらの曲の今までの聴かれ方とはかなり違うものだったのだ。
 そして第二に、グラズノフ、ゾーシチェンコ、メイエルホリドについての回想の間に顔を見せる、スターリンを始めムラヴィンスキープロコフィエフあるいはフレンニコフに対する否定的な発言。独裁者スターリンについての嫌悪は西側ジャーナリズムとしてはむしろ好都合だが、友人あるいは恩人とも言うべき作曲家や指揮者への否定的な感想は、例えそれが本音だとしても、それを口にするということについては疑問を感じざるを得ないし、何故そんなことを証言としてわざわざ語ったのか?という不可解さに連なる。
第三に、この「証言」に登場する雑多なエピソードのすべてが、ほとんど全くと言っていいほど具体的な年月日を伴って語られておらず、前後関係が分からないエピソードがあまりにも多いこと。これは、ショスタコーヴィチという極めて明晰な頭脳と記憶力を持った人物が自己を回想したにしては、あまりにも「文学的」で不自然である。
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 そして、この回想が「質問に対する応答の形式で行なわれた」とヴォルコフ自身が説明しているにもかかわらず全部一人称で語られる形式になっている点も致命的である。これでは全体の何%がショスタコーヴィチ本人の言葉で何%がヴォルコフの質問なのかが分からない。
 例えば、ショスタコーヴィチが「第5交響曲で、私は歓喜の終楽章など書いたつもりは全くなかった」という発言をする。それに対してヴォルコフが「ムラヴィンスキーはその真意を理解していましたか?」と聞き、ショスタコーヴィチは「いや」と答える。そんな会話も、「ムラヴィンスキーが私の音楽を全く理解していないのを知って愕然とした。(中略)この男には、私が歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのも分からないのだ」などという独白(第6章)になることが可能なのである。これを編者の「意図的な改竄」と取るか、「好意的な編集作業」と取るか、評価が分かれるのは当然だ。(この「編集・改竄」、例えばイリーナ夫人とのインタビューの「本会報に掲載されているもの」と「音楽の友誌に掲載されるもの」とを比較してみると実感される。同じ対談の同じテープを使用しても、編集者によって全く違う視点の「証言」が出て来るのである)。

 加えて、日本語訳でも原稿用紙1000枚弱と言う分量。これは、通常のインタビュー(1〜2時間)を一回やって原稿にまとめてせいぜい20〜30枚という経験から考えると、実に述べ30時間から50時間という分量になる。しかもショスタコーヴィチはこれを「言葉少なく」話しているのである。となると、主に1971年から73年ころにかけてモスクワのショスタコーヴィチ自宅アパートの書斎で行なわれたとされるこのインタビューは、回数にして最低でも20回から50回くらい、下手をすると100回近い回数が必要になる。しかし、家族の話ではヴォルコフによる取材はせいぜい3回。しかも、いずれも仲介者が同席していたというのである。双方を話半分と聞いても、この落差は大きすぎる。

 こうなると、ある部分あるいは相当の部分がヴォルコフによって充填されたと考えざるを得ない。しかし、ショスタコーヴィチ本人が亡くなっている以上、「証言」のどこが原文でどこが水増し部分かはもう知るすべもない。なにしろ、テープに録音された生の声を起こした原稿でなく、速記を元にして後に自分が編集した原稿である、とヴォルコフ自身が明言しているのだ。例えその速記原稿があっても、どこまでが実際にショスタコーヴィチ自身の口から出た言葉なのか検証のしようもない。ヴォルコフ本人は唯一それを知っているはずだが、彼が「これは真実だ」と言っても、逆に「これは嘘だ」と言っても、神ならぬ第三者としては、それを信じるか信じないかという空虚な二択に巻き込まれるだけなのである。
 これでは、研究者としてはこの「証言」から「ショスタコーヴィチは自作についてこう語っている」とか、「あの曲はこういう意図で作曲された」という直接の引用が出来なくなる。つまり、この書はそういう意味では紛れもなく「偽書」であり、現在のショスタコーヴィチ研究者たちが必要以上にこの書物を嫌悪する理由はここにあるのである。
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 しかし、その嫌悪から、この「証言」そのものがすべてヴォルコフによって捏造された「全面偽書」である、とすると、今度は全編がすべて真実であるという仮定よりもさらに奇妙な矛盾が出てくる。
 確かに、色々な文献や伝聞や想像から「証言」をでっち上げることも絶対不可能ではない。それには、公式声明ということになっている「自伝」のように、あちこちでの発言や伝聞を年代順に並べ、筋道立てて語ったように編集すればいい。しかし、それが実際の楽曲の内容と明かに矛盾していれば、それは本人の言ではなくその筋の第三者によって装飾を施された作文であるということがすぐ分かってしまう。

 例えば、「自伝」では第8交響曲のフィナーレについて「民謡風で明るい、悦びに満ちた牧歌的な音楽である」などという作曲者自身の解説があるが、そうでないことは耳がある人間なら一目瞭然(一耳瞭然?)である。あるいは、シュニトケの回想のように「スターリンが死んだ同じ日にプロコフィエフが死んだ。その時ショスタコーヴィチスターリンの葬儀に参列せず、プロコフィエフの棺を担いで葬儀の一番前を歩いた」などという証言が混じっていれば、両者の葬儀の日時は異なり、ショスタコーヴィチは両方に参列したという事実の前に「伝聞と想像による事実誤認」が立証される。
 しかし、未だにこの「証言」の中にはそういう「決定的な事実誤認」が確認されないのである。

 そして、もう一つ。この「証言」は理路整然と自分の生涯や音楽について述べたものではなく、全体のほとんどが堂々巡りの繰り言なのである。全8章に分けられていながら章ごとの構成はないに等しく、話はまったく時間軸を考えていない不思議な連想ゲームのように次々と飛び続け、その文脈は敢て言えば支離滅裂で統一感がない。
 それは、ヴォルコフが編者の序として書いた文章と比べてみると、その性格の違いがはっきりする。ヴォルコフの文脈の組立方はジャーナリストあるいは音楽学者らしく、自分の仕事やショスタコーヴィチの聖愚者論を筋道立てて論証している。虚偽なら虚偽で、矛盾しない筋道を組み立てて読む人を説得する文体を「一応は」持っているのだ。
 しかし、本文のショスタコーヴィチの「証言」にはそれがない。少年時代から順を追って年代順にエピソードを語ることさえなく、話はメイエルホリドからプロコフィエフへ、革命の時の回想から映画館でのアルバイトの話へ、そしてソログループ夫妻の話からゾーシチェンコへと散乱する。グラズノフのエピソードも膨大な枝葉末節にまみれ、チェーホフの話がいつの間にかスターリンの話になる。まるで、何も考えずに思い出すことを次から次へととめどもなく話しているような文脈である。
 しかし、(これがおそるべきことなのだが)にもかかわらず、全編に渡って確固たる一人の人間「DS」(その人物がショスタコーヴィチでないという可能性もゼロではないので、ここでは仮にDSと呼ぶ)の意志が貫かれており、その思考が微塵も矛盾していないのである。
 この「DS」には、時代と国家に対する哀しみが渦巻いている。そして、その中で生きざるを得なかった自分と自分がなした行為について、それを美化しようとする偽善はまったくなく、逆に自己の無力と他者の耳への不信によって培われた自嘲に満ちている。
 そして、その「DS」なる人物の思考と、ショスタコーヴィチの残した幾多の音楽の思考とは、矛盾を生ぜず、見事に焦点を結ぶのである。
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 こうなると、この書の成立の胡散臭さにもかかわらず、この「証言」が真実「ショスタコーヴィチの証言」である可能性も出て来てしまいそうだ。
 例えば上記の三者以外のエピソード。チェーホフゴーゴリおよびプーシキンについての彼の私見は他の多くの文献にも見られ、リムスキー・コルサコフやハチャトリアンやプロコフィエフについてのエピソードもこの「証言」が初出ではない。しかし、それらは「伝聞」であるとしても「虚偽」ではない。
 親友ソレルチンスキーあるいはヴァイオリニストになりたかったトハチェフスキー元帥や奔放な女性ピアニストのユージナに関するエピソードについても他の書物に似たような話が見えるのでこれも「虚偽」ではない。
 序から登場する生徒の一人フレイシュマンの書いたオペラ「ロスチャイルドのヴァイオリン」についての話は、ショスタコーヴィチ当人から聞いたか否かは別としてこれも「虚偽」ではなく現実にこのオペラが存在する。オペラ「黒衣の僧」の構想などの話は実証できないが、逆に言えばこれが虚偽である必要はどこにもない。
 しかも、最近グリークマン書簡で明かになったような弦楽四重奏曲第8番の成立(この曲は共産党に強制的に入党することに当たっての個人的な遺書として書かれた、という私信)について、「この曲がファシズムの摘発だなどと感じるには、耳が聞こえないか目が見えないか出なければならない。これは自伝的な弦楽四重奏曲であり、〈苛酷な徒刑に苦しめられて〉という歌も引用されている」と言い切っている。
 また、ジダーノフの形式主義批判事件に触れて「私にはこの主題を描いた作品があり、すべてはそこで語られている」と、暗に当時は誰もその存在を知らなかったはずの「ラヨーク」の存在を匂わす箇所さえあるのだ。
 こうして見ると、ヴォルコフが「すべてショスタコーヴィチの証言である」と言っていることが虚偽だとしても、この「証言」に書かれている事実は虚偽ではない、という結論も可能であることになる。こういう言い方はおかしいだろうか?。つまり、「証言」の成立が「虚偽」だとしても、この書の内容自体は「真実」である可能性もあるのである。
 後は「ショスタコーヴィチがこんなことを言うわけがない」という疑問と、「しかもヴォルコフなどというわけの分からない人物に、本音の奥をさらけ出すわけがない」という二点に絞られる。
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 しかし、その第一の「ショスタコーヴィチがこんなことを言うわけがない」という疑問は、同じ20世紀に生きる作曲家として言わせていただければ、充分「言いそうなこと」なのである。
 例えば、ストラヴィンスキープロコフィエフなどを同じ作曲家として尊敬することと、どこかでその作風を軽蔑することは矛盾しないし、政府や政治家あるいは祝典行事などの依頼に答えて作品を書くことと、内容や魂までは売りたくないと思うことも矛盾しない。
 また、政府主催の園遊会に芸術家として招待されて首相とにこやかに談話することと、その首相の政策を基本的に認めず嫌悪することは矛盾しないし、自分の曲を演奏してくれる指揮者や演奏家に心からの友情を感じることと、にもかかわらず音楽的には100%理解していないと失望していることも矛盾しない。
 むしろ、こういう胸に一物がない可愛らしい正義感と人道主義だけで、あのソヴィエト連邦という巨大で苛酷な条件下で15の交響曲を書けたわけがないのである。

 第二の「ヴォルコフなどというわけの分からない人物に、本音の奥をさらけ出すわけがない」という疑問については、私個人としてはこれも実感として「そういうこともある」と言わざるを得ない。
 というのも、私の周辺にもこのヴォルコフ氏そっくりの人物がいるのである。私より一回り年下のこの人物は、音楽を専門としてはいるが学者とも作曲家とも制作者ともつかぬ男で、私の音楽の信奉者として近づいてきたものの身元も確かではなく、きわめて胡散臭い仕事もやっている。しかし、なぜか奇妙に波長が合うのか他人が聞いたら卒倒しかねないようなキワドイ会話を電話で交わしている。「センセが死んだら(この男は私のことをなぜかセンセという)この会話を全部、証言として出版したら面白いでしょうね」とすら脅すのだが、どんなキワドイ暴露話を出したところで「吉松なら言いかねん」の一言で終わりでしょう、との的確な現状認識も怠らない。
 次は、「平和ボケの日本でならともかく、盗聴や密告が日常茶飯事だったあの時代に胡散臭い男に本音を言うだろうか?」という疑問である。
 しかし、1971年と言えば、あの不思議な幼年期回想のような第15交響曲を書いた年だし、二度目の心臓発作で体力への自信もなくし、その後はミケランジェロ組曲のような死後の栄光を匂わせた題材や、まるで自らへの追悼曲のような第15弦楽四重奏曲を書いたりと、かなり「死」を意識している時期である。40代か50代の「回想」だったら、もう少し口調は力強かったろうし、自己の人生を少しは美化するものになったはずだ。それが、60代も半ばを迎えて健康にも自信がなくなり、死をも意識するようになる。ということは逆に、生を脅かされる恐怖は薄くなり、今まで心に秘めていた本音をこのまま墓まで持ってゆくよりも、何かの方法で「死後」に仕掛けを残せないだろうか、と考えても不思議ではないのではないだろうか?
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 そんな時、目の前に奇妙な「伝書鳩」が来た。しかも、口伝出来る九官鳥のような伝書鳩である。自筆の文字で書くのではないから事実がありのまま伝わるかどうかは定かではないが、逆に、間接的な証言になるために言い逃れ出来ないほどの確たる証拠にはならない。胡散臭い人物ゆえに誰にもマークされることがなく、正当な人物でないがゆえに万一途中で墜落したり捕獲されてもしらばっくれることが出来る。
 純粋な音楽学者や敬虔な研究者なら、回想に登場した人物たちに事実確認をしたり裏付けを取ったりする恐れがあるが、ジャーナリストの性格を持ち西側への亡命を考えている男なのだから、それはない。考えてみれば、ヴォルコフの存在の奇妙さは逆にすべての意味でショスタコーヴィチ側のメリットになるのである。

 そして、一方の伝書鳩の方も、お人好しのままただ利用されるのでも、老作曲家の信奉者としてひたすら遺志を遂行するのでもなく、その「回想」自体が、後に西側に亡命する時に大きな土産物になり、発表することでジャーナリストとしての自己顕示欲を満足させることが出来ると言う実質的なメリットがある。ここに両者の利害は一致するのである。
 そう考えてゆくと、少なくともこの奇妙な共同作業は、ヴォルコフが序で語っているような「ショスタコーヴィチからの全面的な信頼」に因るものでないことは明かだ。むしろ「全面的な信頼」が出来ない人物だったからこそ、ヴォルコフはショスタコーヴィチの「伝書鳩」になりえたのだ。
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 ここで残念なのは、ロシア側のほとんどの人間が、この本を全部は読んでおらず(ロシア語全訳は未だ出版されていない)、「ヴォルコフなる正体不明の人物が亡命先のアメリカでショスタコーヴィチの証言なる本を出版した。そこには悲観的で自嘲的な言葉で自作を語るショスタコーヴィチが描かれていて、しかもスターリンを始めムラヴィンスキーフレンニコフの悪口まで言っている」という説明について、「そんなものはニセモノだ!」と叫んでいることだ。
 今秋(1994年)来日したショスタコーヴィチ夫人イリーナ女史も、この書についてははっきり不快感を露にしていたし、日本に来て「証言」に絡む質問ばかりをされたことについてはうんざり顔だった。
 なにしろこの長大な回想には、イリーナ夫人どころか、息子の指揮者マキシムすらまったく登場しない。イリーナ夫人はともかく息子マキシムは少なくとも、第7交響曲の作曲中に「メリー・ウィドウ」の主題を転用するきっかけ(この歌のリフレインが「マキシムへ行こう!」なのである)になった長男であり、この「証言」の前後に作曲された最新の交響曲(第15番)の初演指揮者なのだから、登場しないのはどうも作為を感じさせる。

 このあたりは、身近なものに対するショスタコーヴィチの配慮だとも言えなくもないが、この「長大な回想に自分のことが一言も触れられていない」ということに関する身近な人間の反応を考える時、彼らが「証言」について好意的になれないのは当然だろう。(この反感からか、イリーナ夫人はさかんに「グリークマン書簡」の正当性を主張しておられたのが印象的だった。近々邦訳でも紹介されるそうだが、あの感じでは、家族公認の一種「家庭的」で「良い夫」的なショスタコーヴィチ像が読めるのに違いない)。
 それでも、感性の鋭い人々は「彼は常に心の秘密を隠し続けており、それゆえに真の彼の姿とは違っているように見えた。(甥ドミトリ・フレデリクスの証言)」、あるいは「彼の精神の崇高さは、常に彼の抑制のかげで認められた。(友人グリークマンの証言)」、などという意見を残している。これは慧眼というべきだろう。
 虎は家族や仲間には牙を見せない。相手を狩るときだけ牙をみせるのである。だから、「証言」について、彼の身近な人ほど否定的に「彼はああいうことを言う人ではありませんでした」と答え、遠い人ほど「彼ならああいうことを言うに違いない」と思うのは、ある意味では当然のことなのである。彼の身近な証言のみが真実なら、凶悪な殺人鬼も家族の証言により温厚で優しい人になってしまう。しかし、殺人鬼には彼が殺した死体が現実に存在する。同じように、ショスタコーヴィチにも彼が書き残した15曲の交響曲が現実に存在するのである。

 そう。確かに「すべては音楽の中で語られている」。しかし、それは裏返してみれば「言葉では語れない」という失望感の表明である。これは、マーラーの「今に私の時代が来る!」という自信の言葉が、逆に「今は私の時代ではない!」という絶望の叫びに聞こえるのと実に良くにている。
 そんな世界に「証言」が突き付けたのは、ショスタコーヴィチが「音楽的な」多面体であるのみならず「言語的な」多面体でもある、という視点である。これは、あの19世紀末的音楽多面体マーラー先生を凌駕する、まさに20世紀的ハイパー多面体としてのショスタコーヴィチ構造主義的な再発見・再構築だったのである。
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 私は(誤解を恐れずに敢えて言うなら)、この書はショスタコーヴィチにおける「新約聖書」のようなものだと思っている。
 言うまでもなく「新約聖書」はキリストの死後、キリストの弟子たちによって編まれた複数の福音書からなっている。そこには、キリストが語ったという言葉と、キリストがしたという行為が記載されている。しかし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネがそれぞれ残した福音書は、同じ時の同じイエスの言動でも必ずしも同じ記載ではない。しかも、マルコとルカの二人はイエスの死後の弟子であり、キリストとは一面識もない人物なのだ。
 この「聖書」によって二千年もの間人類史に刻まれてきたのは、ナザレのイエスという一人の生身の人間の真実の姿ではなく、この人物を神の子ととらえる「キリスト教的世界観」で見たナザレのイエスという人の言動記なのである。

 だから、マタイが信頼に足るべき人物か?とか、キリストを尊敬するあまり美化していないか?とか、どこまでが事実でどこまでが粉飾か?、という問いが研究者の手によって発せられることと、「聖書」によってキリストを信じる信仰心とは矛盾しない。
 同じように、ヴォルコフが信頼に足る人物か?とか、どこかを粉飾していないだろうか?という疑問があることと、この「証言」の真価は矛盾しない。
 ゆえに、この「証言」はいまだに私にとって音楽関係のものとしては戦後もっとも興味深い書物であり、何度読んでも飽きない不思議な含蓄ある言葉に満ちた奇妙な辞典であり続けている。

 歴史上の人物となったキリストが単なる一人の人間ではなくなったように、音楽史上の人物となったショスタコーヴィチもまた、もはや単なる一人の音楽家ではない。ただのソヴィエトの一青年が、交響曲を15ほど発表して作曲家ショスタコーヴィチになったように、死後さらなる研究やデマや想像や証言や粉飾や伝説を施されて真に世界の共有財産である「ショスタコーヴィチ」に昇華する。

 ショスタコーヴィチを形成するのは19年前に亡くなったドミトリ・ドミトリヴィチ氏一人ではない。彼を理解し誤解し、抑圧し擁護した多くの人々、彼の音楽を演奏し研究し、嫌悪し愛した多くの人々。そのすべてが「ショスタコーヴィチ」という音楽文化に組み込まれてゆくのだ。
 だから、ショスタコーヴィチは今も、そしてこれからも作られ続けるのである。

(1994.10.22 ショスタコーヴィチ協会会報に掲載)


この文章が書かれてから20年になる。これは、ショスタコーヴィチについてネット検索をかけると必ず行き当たる文章で、これまで何度となく読んできたし、この文章を読むたびに、そういや『ショスタコーヴィチの証言』(中公文庫に入っているはずだが、どえらく分厚いために買って読むには至ってなかったのだった)をまだ読んでなかったな、読まなくちゃなとは思うのだが、それは未だに実行できずにいる。

一方、百田尚樹の『殉愛』は、東京の書店にさえ平積みで置かれているが、買って読もうとは全く思わない。『殉愛』は、安倍晋三の『美しい国へ』や藤原正彦の『国家の風格』と同様、読まずに批判すべき本だと思う。同じやしきたかじんについて書かれた角岡伸彦の『ゆめいらんかね』は読んでみたいと思うけれども。

そんなわけで、せっかくコメントを下さった id:deborarabodeさんには誠に申し訳ありませんけど、『ショスタコーヴィチの証言』と『殉愛』とは似ても似つかぬ本であって、ある意味対極に位置する本であるとさえ私には思われます。『証言』はショスタコーヴィチの音楽を聴く人にとって(私はまだ読んでませんけど)必読の本であるのに対して、『殉愛』はやしきたかじんのファンにとって唾棄すべき本であるに違いないという意味において。

*1:文化大革命の中国、軍国主義の日本、ポル・ポトカンボジアなど、その他にも悪例はたくさんあるけれども。