立憲主義の話は、結局リンクを張って引用した水島朝穂氏の一昨年の記事中に張られていたリンクを引用文に反映させる作業をしたところでいったん記事を終えることにして、昨日の記事はシリーズ第1回として一時中断した。早いうちに第2回を書くつもり。
中断したのは例によって他に言及したい件が出てきたからであって、それは昨日(7/7)の朝日新聞文化・文芸欄*1に掲載された「政治と芸術 結びつく先は」と題された守真弓記者の署名記事だ。ネットにも上がっており、なんとかデジタル無登録者でも記事の途中までは読める。
http://www.asahi.com/articles/ASH754DQRH75UCVL003.html
政治と芸術、結びつく先は 自民党の「文化芸術懇話会」
守真弓
自民党議員の勉強会「文化芸術懇話会」は、メディアを威圧する発言が出席者から相次ぎ、厳しい批判を浴びた。だが、そもそもは、文化人や芸術家を自陣営に引き込み「政策を芸術の域に引き上げる」ための勉強会だったという。文化や芸術が政治と結びつくことに、どのような「価値」があるのか。今回の懇話会で講師を務めたのは、放送作家としてバラエティー番組「探偵!ナイトスクープ」を手がけた作家の百田尚樹氏だった。同会の関係者は「シナリオライターとして画面の向こうの視聴者に働きかけるテクニック」を学ぶために招いたという。設立趣意書によると、「心を打つ『政策芸術』を立案し実行する知恵と力を習得する」ことが会の目的だ。
「この政策芸術という言葉を聞いた瞬間に、アウトだと思った」と言うのは、文化批評にも定評のある千葉雅也・立命館大学准教授(哲学・表象文化論)。国が特定の価値観に基づく芸術文化を推進してはいけないことは「文化史の常識」だが、「政権側の人たちは、そうした常識に抵抗したいのではないか。ナチス・ドイツがモダンなものを『退廃芸術』と呼んで排除し、保守的でわかりやすいものを推進したことを想起させる」と話す。
ナチスは国民の支持を得やすい政策的主張や政治手法を徹底的にマーケティングした。そして、その調査の「成果」を、文化・芸術の観点から、言葉の選択や演説方法、旗や制服のデザインなどにまで反映した。「『ユダヤ人が悪い』といった極端に単純化された政治的スローガンもそうした手法から生まれた」。音楽や文学に造詣(ぞうけい)が深い片山杜秀慶応大学教授(政治思想史)は言う。
戦後は価値観が多様化し、多くの情報が手に入るようになった。成熟した民主主義社会では、宣伝技術で政治を単純化する手法は通用しないと考えられてきた。だが21世紀になって、再び力を得ようとしているのではないかと片山氏はみる。
経済や自然科学など多くの分野で学問は細分化し、誰もが専門分野以外の領域を理解することが難しくなった。「過剰な情報の中で人の判断力は相対的に落ち、誰もがわかりやすさを求めている。『政策芸術』はそんな時代にはぴったりだ」
では、文化人や芸術家は、どのように政治とつきあうべきなのか。
(朝日新聞デジタル 2015年7月6日20時45分)
紙媒体の記事ではこの部分のあとは識者へのインタビューのまとめなのだが、インタビューの詳細な内容は、「なんとかデジタル」に登録していないと読めない仕掛けになっている。つまり、新聞の紙媒体の読者にもインタビューの全文は読めない。このあたりが朝日商法のきわめて嫌らしいところだ。朝日もせめて毎日と同じように、紙媒体の読者には追加料金なしで「なんとかデジタル」にアクセスできるようにしてほしいものだ(それなら登録を考えてやっても良いが、それを行わない限りは無料登録もしてやらないと心に決めている)。
それはともかく、無料で読める識者のインタビューを引用しておく。
http://www.asahi.com/articles/ASH754FDTH75UCVL007.html
「芸術は国家に奉仕するものではない」千葉雅也氏
メディアを威圧する発言が出席者から相次いだことで批判を招いた自民党議員の勉強会「文化芸術懇話会」。本来は、文化人や芸術家を自陣営に引き込むための会だったという。文化・芸術と政治の関係のあり方について、文化批評にも定評のある千葉雅也・立命館大学准教授(哲学・表象文化論)に聞いた。「政策芸術」という言葉を聞いた瞬間にアウトだと思いました。芸術というのは多様性であって、国家に奉仕するものではない。ナチスが「退廃芸術」と呼んでモダンなものを排除して、保守的でわかりやすいものを推進したことを想起させるし、国がプロパガンダとして特定の価値観の芸術文化を推進するということは、歴史的にナシだというのが文化史の常識です。国民がそれを知らないとでも思って言っているのか、それとも政権の人が知らないのか。文化史の常識に抵抗したいのでしょう。
言わずもがなのことが言わずもがなでなくなっている。「政策芸術」などだめだといちいち言わなければいけないというヤボさにうんざりです。一方で、ヤボに批判することが必要であると同時に、斜めからおちょくることも大事なのではないか。せっかくだから、美術界も「政策芸術」を皮肉る企画をどんどんやったらいいでしょう。国立新美術館あたりで、国民的アイドルの像を3Dプリンターで作って蔡國強に爆破させる美術展とかね。
人は一定の時間がたつときわめて深刻なことも忘れてしまうので、文化史を語り継ぐことは重要ですね。(聞き手・守真弓)
(朝日新聞デジタル 2015年7月6日20時46分)
http://www.asahi.com/articles/ASH754DVXH75UCVL004.html
「ナチレベルの宣伝技術の時代に戻っている」片山杜秀氏
聞き手・守真弓
メディアを威圧する発言が出席者から相次いだことで批判を招いた自民党議員の勉強会「文化芸術懇話会」。本来は、文化人や芸術家を自陣営に引き込むための会だったという。文化・芸術と政治の関係のあり方について、音楽や文学に造詣(ぞうけい)が深い片山杜秀慶応大学教授(政治思想史)に聞いた。今回の懇話会の設立趣意にある「政策芸術」という言葉をみると、「政権のやろうということを国民にかみくだいて説明して、理屈で全部わかるように努力しましょう」という趣旨には読めない。むしろ、よく分からない人を都合の良い方向に誘導し、反対している人を言いくるめるためのイメージ戦略のためのトーク術、「宣伝」を学ぼうという趣旨に見えます。
(以降は登録者のみ読める=引用者註)
(朝日新聞デジタル 2015年7月6日20時46分)
http://www.asahi.com/articles/ASH754F99H75UCVL006.html
「政治とのつき合い、否定すべきではない」平田オリザ氏
聞き手・守真弓
メディアを威圧する発言が出席者から相次いだことで批判を招いた自民党議員の勉強会「文化芸術懇話会」。本来は、文化人や芸術家を自陣営に引き込むための会だったという。文化・芸術と政治の関係のあり方について、鳩山由紀夫政権などで内閣官房参与を務めた劇作家の平田オリザ氏に聞いた。文化・芸術と政治がつきあうことにはもちろん、危険性がある。しかし、科学の基礎研究や先端研究と似ていて、特に先端的な芸術などが、経済的に自立することは難しい。かつては王侯貴族がパトロンをしていたわけですが、民主主義国家で文化を支えるためには、きちんとした文化政策が必要です。
日本では、戦前に演劇人の大多数は戦争協力をした。食べるためにやむなくというのもあって、プロパガンダ劇に多くの人が参加して、岸田國士は大政翼賛会の文化部長にもなった。敗戦後は、そうしたものに抵抗していた人が牢屋から出て主導権を握った。そして、長く本格的な政権交代がなかったために、左翼陣営=演劇人=反体制になってしまった。だから芸術文化に携わる人に、あんまり現実的な施策に関わるという習慣がない。
(以降は登録者のみ読める=引用者註)
(朝日新聞デジタル 2015年7月6日20時47分)
http://www.asahi.com/articles/ASH754F4NH75UCVL005.html
「感動と一体感、受け手側は警戒を」会田誠氏
聞き手・守真弓
メディアを威圧する発言が出席者から相次いだことで批判を招いた自民党議員の勉強会「文化芸術懇話会」。本来は、文化人や芸術家を自陣営に引き込むための会だったという。文化・芸術と政治の関係のあり方について、共著『戦争画とニッポン』を先月刊行した現代美術家の会田誠氏に聞いた。僕は、特定の政党に声をかけられたら、それはどこの政党でも断ります。自分のホームグラウンドは民間だというのは、わりとはっきり決めていることです。
でも、「国家プロジェクトの誘惑」というのは、僕にもある。過去になるほど、奈良の大仏やピラミッドなど歴史に残るものは、時の権力とタッグを組んでいる。それに対する憧れはあって、でも、それを抑えなきゃいけない。その誘惑との戦いが「戦争画RETURNS」や「MONUMENT FOR NOTHING」を作った時の僕のモチベーションだったりして、複雑に屈折した思いがあります。
(以降は登録者のみ読める=引用者註)
(朝日新聞デジタル 2015年7月6日20時47分)
無法者が行う政治に芸術が協力させられた例といえば、ナチスもそうだけれど戦時中の日本にもあったし、ソ連にもあった。ソ連の場合、スターリン時代に特に苛酷を極めたが、スターリンの死後にも残っていたとみられる。
ソ連のものは「社会主義リアリズム」だが、70年代あたりの日本にもそのイデオロギーの「信者」が多数いた。これまでにも何度か書いたが、NHK-FMでクラシック音楽の番組を解説していた音楽評論家の中には、ソ連・東欧びいきの左翼が多く、クラシック音楽界では彼らが「社会主義リアリズム」を宣伝する中心的な勢力だった。彼らの解説に導かれてショスタコーヴィチのオラトリオ『森の歌』などを聴いたのは、確か1981年のことだった。もっともその頃には既にヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』(偽書ともされる)が出ていて、ショスタコーヴィチが面従腹背の作曲家であったことは私も知っていた。しかしそれより早い70年代から「社会主義リアリズム」という言葉を私は知っていて(確か少年向きの百科事典か何かに書いてあったのだと思う)、それに疑問を抱くことはなかった。それがとんでもないものであることを知ったのは後年のことである。
また今でも北朝鮮や中国はそうだろう。立憲主義をないがしろにする自民党の改憲案が北朝鮮や中国の憲法に酷似していることを指摘したのは毎日新聞の「夕刊ワイド」(6/30)である。
http://mainichi.jp/shimen/news/20150630dde012010003000c.html(2015年6月30日)
この毎日新聞記事は、立憲主義のシリーズで改めてとりあげたい。
朝日がとりあげた4人のインタビューの中では、唯一なんとかデジタル無登録者でも全文が読める千葉雅也氏にもっとも共感する。最低なのは平田オリザであって、鳩山由紀夫なんかと結びつく人間はやはりその程度か、と思わされた。
千葉氏が語る、
「政策芸術」という言葉を聞いた瞬間にアウトだと思いました。芸術というのは多様性であって、国家に奉仕するものではない。ナチスが「退廃芸術」と呼んでモダンなものを排除して、保守的でわかりやすいものを推進したことを想起させるし、国がプロパガンダとして特定の価値観の芸術文化を推進するということは、歴史的にナシだというのが文化史の常識です。
という言葉は本当にその通りであって、モダニズムはナチスドイツでもスターリン時代のソ連でも弾圧された。「保守的でわかりやすいもの」に徹した音楽として、ショスタコーヴィチの『祝典序曲』がある。ソ連が崩壊する直前の1991年の春に、ショスタコーヴィチの『交響曲第9番』、『カテリーナ・イズマイロヴァ組曲』、『祝典序曲』、『二人でお茶を(タヒチ・トロット)』の4曲を組み合わせたCD(ネーメ・ヤルヴィ指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の演奏)をよく聴いていたものだ。このCDには、ソ連共産党に批判された『交響曲第9番』、同じくスターリンに批判されたオペラをスターリンの死後に改作し、改作完成から7年後(スターリンの死からは10年後)にようやく上演が認められたオペラに基づく『カテリーナ・イズマイロヴァ組曲』、それにスターリンと共産党に迎合して書いた『祝典序曲』、最後にショスタコーヴィチが若い頃に流行歌をアレンジした『二人でお茶を(タヒチ・トロット)』の4曲が収められている。これを聴きながらスターリンとソ連共産党の許し難い無法に思いを致すこともあった。
また、会田誠氏のインタビューはなんとかデジタル無登録者には途中までしか読めないが、紙面を参照すると下記のように書かれている。
大衆にわかりにくい最先端の芸術は「政治家や国家から呼ばれない」が、「エンターテインメント性の高い芸術、人を感動させる作品には『精神的な詐欺』のような危うさがある」
(朝日新聞 2015年7月7日付文化・文芸面掲載記事「政治と芸術 結びつく先は」(守真弓記者署名記事)より会田誠氏の発言の引用=括弧で囲われた部分)
後半はその通りだろうが、前半については認識が甘い。前述の千葉雅也氏が指摘するように、ナチス(やスターリンのソ連)は「モダンなもの」すなわち「大衆にわかりにくい最先端の芸術」を迫害、弾圧した。このまま放置しておくと、安倍晋三もヒトラーやスターリンと同じことをやらかす可能性があるのではないかと懸念する今日この頃である。