kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

リベラル・左派の間にも、1960〜80年代への郷愁は根強いようだが、それで良いのか?

恥を忍んで書くと、こういう議論って、何も「政治に詳しい」人たちばかりではなく、もっと多くの人に議論してもらいたいと思って、明らかに私よりも数段政治や経済に詳しい方のコメントにあえて反論したのだった。その心は、やはり私より数等政治や経済に詳しいさとうしゅういちさんが書かれた*1

安倍総理国家社会主義に対する対抗軸を!

にある。これが打ち出せずにいるから、野党は何度選挙をやっても安倍晋三率いる自民党に勝てず、安倍が「無双」を誇るという悪夢のような現実に陥ってしまっているのだ。

一部コメンテーターが言うように、民進党に無批判で屈従したところで(「小泉信者」や「小沢信者」は昔からいるけど、最近は「民進党信者」もいるようだね)、あるいは長谷川豊なんかの批判を適当に切り上げて、安倍晋三や安倍政権や自民党の批判に専念したところで、対抗軸が打ち出せていない以上、無駄なことなのだ。対抗軸を打ち出せないのは、明らかに野党や野党支持者や反自民の括弧の有無を問わないリベラルやその他の人々が、現状を的確に把握できていないことに起因していると思う。正しい現状把握がなければ望ましい解決が得られるはずのないのは、当たり前のことだ)。

その意図を持って書いた記事が下記。

池田勇人的「小さな政府」論自体が間違っていた - kojitakenの日記(2016年10月6日)

記事についたコメントを、到着順に紹介する。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20161006/1475711996#c1475743337

id:axfxzo 2016/10/06 17:42

この種の話で昔からムカつくことがある。それは「自民党社会民主主義的な政党だった」「昔の日本は実は社会民主主義路線で云々」という説をさも当たり前のように語り始める奴等。田原総一朗あたりもそのようなことを言っていたかな?
なんでよ(怒)って、これを聞くといつもムカつく。
池田はニューライトと松下圭一さんなどがよく指摘されていた。まあ、コジタサンの解説が的を射ている。
前があまりにもオールドライトなだけのことで、池田の修正的なもうかりまっか路線が…公害なる言葉を英語にまでしてしまった面もあるが…
いかにも『そのように』思わせてしまっているだけだろう。
総花的な言葉の羅列といびられるのを覚悟で言えば(笑)、同時期に江田ビジョンなるものが(結果は継子苛めのように…正村公宏さんの言葉だったかな?)出て、曲がりなりにも左派からの社民路線への挑戦が始まろうとしていた時代でもあった。
因みに江田三郎自身も『社民』という言葉を嫌っていたのは有名な話でもある。
うまく書けないが(笑)、要するに当時の自民党が社民路線なんてバカを広めるのもたいがいにせよって話!
池田の路線などをこうした話の論拠にするのがいるから、言葉足らずながら釘をさしておきたくもなったまでだ。
そう言えば池田の弟子だった宮澤さんが、まああれですよね、この国で保守と新自由主義路線と、社民路線これら三つで主義主張をやり合えばよいなどと述べていたはず。
これもお笑いで、前者の二つは厳然と存在し(しかも、保守をヤング自民党と言いたくもなるが、安倍晋三などが駆逐しているようなノリになっている。いやさ、レベルアップしてゼニゲバ極右路線か!)、社民なんてものは、ついぞ台頭すらしなかった。
この国が新自由主義花盛りなのにはそれなりの遠因がある。
池田路線を疑似社民路線とかと目眩ましをやる右翼と、赤い社会主義マントラとしてきた左翼どものツケってことだろう。


江田三郎右派社会党ではなく左派社会党の人であって、終生「社会主義」という言葉にこだわっていたことはよく知られていますよね。
「赤い社会主義マントラとしてきた左翼ども」っていうのは、江田三郎が死去した1977年の1〜3月頃でしたか、社会党内で江田と激しい党内抗争を繰り広げた社会主義協会あたりを指すんでしょうけど、そのボスだった向坂逸郎は、弟子の岡崎次郎に『資本論』を翻訳させて、それを自分の翻訳にしてしまった人でしたっけ。すごい豪邸に住んでいたことでも有名な向坂は、「ソ連は間違いを犯さない」とかなんとか言っていたらしいです。私が1977年の設立当初から社市連(のちの社民連)を支持するようになったきっかけは、社会主義協会というか向坂一派への反発からでした。当時の社会党内の抗争は、家で購読していた毎日新聞で知りました。だから、中学生から高校生当時の私の意見には、毎日新聞の記者たちからの刷り込みもあったかもしれません。

江田三郎が掲げた「構造改革」路線は、その後の小泉純一郎のパクリによって今では新自由主義用語と誤解されていますが、まだ有料ブログになる前の『世に倦む日日』が2005年に書いた記事によると、

社会主義の思想には三つの立場があって、一つは穏健な社会民主主義、二つ目が構造改革主義、三つ目がマルクス・レーニン主義の路線ということになる。この三つの潮流は変則的ながら日本でも存在して、第三の立場が正統を誇った日本共産党であり、社会民主主義構造改革は錯綜しつつ社会党右派や共産党内の反主流派が担っていた。日本の構造改革主義の代表的論者を上げるとすれば、現在民主党左派の幹部である江田五月の父親の江田三郎だったのではないかと私は思うが、それでいいだろうか。

ということになります*2。つまり江田三郎社民主義より左で、かつマルクス・レーニン主義より右に位置していたということですね(上記「世に倦む大先生」の解説からは、1977年当時「共産党より左」と評された社会党左派=社会主義協会=向坂一派への言及が抜けていますが)。ただ、江田三郎が志向し、のちに社会党委員長になった飛鳥田一雄石橋政嗣が推進した「社公民路線」は有害だったとも思いますが(1980年1月の「社交合意」当時の委員長は飛鳥田一雄)。

現実に政治についていえば、社会党共産党自民党政権に「減税」を要求する政治勢力でした。このことについて以前議論した時に、当時の高度成長経済においては、社共などの野党の減税の要求にはそれなりに理はあったとのご意見もいただきましたけど。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20161006/1475711996#c1475745845

id:mtcedar 2016/10/06 18:24

id:urinarazuke氏のお説通りなら、戦後の旧・西ドイツはどうなんだ?って反論ができますよね。

戦後の旧・西ドイツで相次いで首相を務めたアデナウアーとエアハルトって日本の吉田茂池田勇人の様な役割を果たしたことからよく対比されますけど、その真っ先のボン基本法で「社会国家」を規定してますし年金・老人福祉ばかりか住宅や職業訓練・移民受け入れなどかなり広範囲に「公助」を導入しているところがあるんですよね。日本では企業での労使共同決定とか均衡財政とか兎角日本的な「小さな政府」に親和的なとこだけが注目されがちですけど、ワイマール共和国があまりに保守的な経済観念で政治をやったが故にナチスの台頭を招いた反省から「公助」を徹底して社会的安定を目指すことはもっと注目されて良い筈なんですけどね。

そのドイツも統合後には東ドイツの経済的劣勢に悩まされ、EUによる欧州統合後は一躍欧州一の強国にはなったものの今度はガチガチの均衡財政で内外に不満を残し・・・・・と岐路に立たされている現実がありますけど。


http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20161006/1475711996#c1475766887

id:urinarazuke 2016/10/07 00:14

まずは拙論をわざわざ俎上に載せて頂き、深く感謝致す次第。

以下に筆者からの反論。
まず、大前提として念頭に置かねばならないことは、一般論として経済政策というものは、意のまま、自由自在に選択できるものではなくて、その国がその時点で置かれている外生的条件の制約の下で、限られた選択肢の中から決定するしかないということ。

製造業大国にして万年経常黒字である近年の日本の姿からは想像もできないが、池田政権当時の日本経済は、まだ供給力が貧弱で、有力な輸出産業もなく、少しでも総需要が増加すれば直ちに経常収支赤字に転落して外貨準備が払底する有様で、いわゆる「国際収支の天井」に束縛されていた事実を忘れてはならない。
こんな状況で、バラマキ福祉政策を大々的に展開して総需要を見境なく増大させる経済政策を遂行すればどうなるか、想像に難くなかろう。
それを実際にやってしまったのが、アルゼンチンであり、ギリシャである。

ドイツ(西独)が日本と違ったのは、ドイツは当時から自動車産業など製造業が強く、戦後早々と経常黒字を実現しており、「国際収支の天井」の制約がなかったから。

だから、
> 池田勇人が総理大臣になった時点で、違った政策(社会保障・福祉により多くの政府支出を行う政策)をとる選択肢はあったにもかかわらず
というのは間違いで、この時点では違った政策をとる選択肢は「なかった」。

但し、1965年以降には、ベトナム戦争特需の助けもあって、日本も「国際収支の天井」を脱し、経常黒字を保ったまま「いざなぎ景気」の長期間持続的景気拡大が可能になっていたのだから、この時点で本格的な福祉国家に舵を切ることは不可能ではなかったわけで、それをしなかった不作為の責任は、既に鬼籍に入っていた池田勇人よりもむしろ、当時長期政権を担っていた佐藤栄作にあるといえよう。
とはいえ、福祉に冷淡であったのは確かながら、公害対策には尽力したのは事実だから、佐藤も全くの無為無策であったわけではないが。


http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20161006/1475711996#c1475786115

axfxzo 2016/10/07 05:35

は?佐藤が??
…事実とすれば大変だ。直ちに急いで善処するとかだっけ?
公害の問題などでそれなりに奮闘したのは革新側ではなかろうか?
あの時代、国政では勝てないが社共側が地方で奮闘できたのは、一に福祉で二に公害みたいなものだろう。
一方で大盤振る舞いの無駄遣いで都政は真っ赤っ赤!なんて悪口を保守側から攻撃される機会を作ってしまった。そしてそれが土光のメザシなり、バーコード頭などによる小さな政府作りの喧伝材料にされていったわけでもあるが。
いずれにせよ、自民党が福祉も環境もへっちゃらでもうかりまっか一直線でやってきたことの不満が、地域問題と重なって(本音ではともかくも)左翼側に勝たせるという補完的な関係を構築してきたのでは?ゆるく捉えてもだ。自民党は革新自治体の登場などに押されて、環境や福祉にしぶしぶ対応せざるを得なくなったってのが答えだろう。
書きながらまた腹も立ち始めたけれども(笑)、そこにこれまたあぐらをかいて、輝かしい70年代とかほざく共産党などの左翼、少しでも気にくわないと俺たちが下支えをやっているのだと…そこは事実でもあるが…全国大会で喚き散らかす社会党支持者たち。はあ~。


70年代の公害は本当にひどかったですからね。

今でも工業地帯では悪臭がひどいですし(川崎とか四日市とか水島とか、あるいは製紙工場のある四国中央市とか)、東京東部でも南風が強い日にはなんともいえない悪臭が漂ってくることが珍しくありませんけど、70年代の神崎川の悪臭は、想像を絶するほどでした(よく阪急電車で三国〜庄内間を通りましたが、冗談ではなく本当にそこを通前に思いっ切り息を吸い込んで、通過する時には鼻をつまみながら息を止めてましたもんね。本当にひどかった。ググったら、昭和の匂い :: Hikaru’s BLOG(2014年8月8日)という記事が引っかかりました)。東京東部でも、荒川(放水路)の悪臭はひどかったそうです。

当時父親に買ってもらった『少年朝日年鑑』*3に載っていたのは「三大(四大)公害病」。しょっちゅう光化学スモッグ注意報が発令されてました(今でもたまに発令されるが、昔は今の比ではなく頻繁だった)。

そんな時代でしたから、いくら佐藤栄作でも公害対策に重い腰を上げないわけにはいかなかったってことでしょう。但し、三木武夫環境大臣になって、その活動が毎日新聞あたりに好意的に報じられていたのはいつだったっけ、と思ってググってみたら、1972年の第2次田中角栄内閣の時でした。田中は一方で日本列島改造論の印象が強いですし、三木といえば田中を逮捕させながら、政治思想的にものちの日本政治への悪影響に関しても田中よりずっと罪の重い中曽根康弘と組むという悪行もやらかしてますけど。もっとも中曽根と組んだという点にかけては「田中曽根内閣」で知られる田中角栄本人も同じで、権力の強大さを考慮すると田中の方が三木よりも罪は重いわけですが。話は逸れましたが、佐藤栄作が公害対策に力を入れたという実感は私にはありませんし(もちろん政策を立ててから庶民に実感できるような効果が出るまでにはタイムラグがありますが)、世にいわれる60年代だの70年代への郷愁で、私にもっとも強い違和感を感じさせることの一つが、当時の日本のひどい公害でした(あと、プロ野球で読売が9連覇した時代になんて戻らされてたまるか、というのもありますw)。

以上、いただいたコメントには、あえて江田派、じゃなかった枝葉の部分について個人的な感慨を記すにとどめました。それは、浅学非才な身にはその程度のこと書く能力しかないせいもありますが、さとうしゅういちさんが書かれた

左派・リベラルの中にも、1980年代や1960年体制への郷愁は根強いが、それでいいのでしょうか?
貧困を拡大させたのは、新自由主義とともに、1960年体制そのものの問題もあったのではないか?
また、1960年体制そのものが、国内的には沖縄に犠牲を強いていたのではないか?

安倍総理国家社会主義に対する対抗軸を!

という檄を受けて、「もっと議論を!」と読者の皆さまに議論を促したかったからです。

だから、元記事では少しハードルを下げた反論をして、議論を呼び込もうと意図した次第(この記事で、構造改革だとか社会主義協会云々の話をしてしまったのは逆効果になってしまうかも知れませんが、私の個人的な昔話など無視して下さい)。

本記事にも皆さまからのコメントをお待ちしています。

*1:http://hiroseto.exblog.jp/24701413/

*2:http://critic.exblog.jp/3396715/

*3:父は右翼的な思想を持っていたのに朝日新聞を取っていたし、小学生の息子に『少年朝日年鑑』(中身は今の朝日新聞のぬるい紙面からは想像もつかないくらい、思いっ切り左寄りだった)を買い与えるという変人だった。家には『重要紙面でみる朝日新聞90年』(1969)という縮刷版集があって、あれで小学生当時の私は日本の近代史を勉強したものだ。のち父の購読紙は毎日新聞→読売新聞→読売と日経の併読→産経新聞(「最近の日経は赤い」と言って日経の購読は打ち切りw)と変わっていったけれども。