kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

岡留安則死去

 岡留安則が死んだ。朝日新聞の訃報記事を以下に引用する。

 

https://www.asahi.com/articles/ASM2254KBM22UCLV004.html

 

岡留安則さん死去 「噂の真相」の編集長を務める

2019年2月2日15時39分

 

 月刊誌「噂(うわさ)の真相」の編集長を務めた岡留安則(おかどめ・やすのり)さんが1月31日、右上葉肺がんのため那覇市内の病院で死去した。71歳だった。葬儀は近親者で行った。後日、お別れの会が開かれる予定。

 政界や芸能界のタブーに斬り込んだ「噂の真相」を1979年に創刊し、25年間にわたって編集長を務めた。99年には、当時の東京高検検事長の女性問題を報じ、後の検事長辞任につながった。2004年の休刊後、沖縄県に移住。飲食店を経営しながら、沖縄の米軍基地問題について積極的に発言し続けてきた。16年に脳梗塞(こうそく)を発症。その後、がんが見つかり、治療を続けていた。

 

 以下は、岡留安則さんの死去について、「噂の真相」の元スタッフたちが公表したメッセージの主な内容。

     ◇

 岡留はいつもわたしたちに「体制が変わろうが、政権がどうなろうが、権力は信用できない。常に疑っていかなくては騙(だま)される。だから、知り得た情報をすべて市民に公開していくんだ」と語っていました。

 そのゆるぎない覚悟、そしていかなる困難も生来の明るさとアイデアで乗りこえていくかろやかな姿勢は、わたしたちスタッフから見ても唯一無二であり、早すぎる死に悔しさを感じるばかりです。

 本人も病床で最後まで安倍政権や辺野古新基地建設について憤りを口にしており、県民投票を前に力尽きたことは、さぞかし心残りだったと思います。

 ただ、救いは、岡留がもっとも思い入れのあった沖縄の地で生涯を終えられたことです。生前は「死んだら沖縄の海に散骨してほしい」と語っており、亡くなる直前には、大好きだった「花」を聴いて、涙していたそうです。

 なお、葬儀はご遺族の意向により近親者のみで執り行われましたが、お世話になった皆さま、ご交友のあった皆さまとともに、岡留の思い出を語り合えるような場をあらためてもつことができたら、と希望しております。

朝日新聞デジタルより)

 

 『噂の真相』は創刊号(1979年3月号)から休刊した2004年4月号まで、25年間ほぼ欠かさず立ち読みしていたが、買ったことは一度もない。

 創刊号から、と書いたが、岡留はその前から『マスコミひょうろん』という、『噂の真相』と同紙型の月刊誌の編集長を務めていて、私はそれを高校生だった1978年から立ち読みし始めていたのだった。しかしそれから間もなく発行元のマスコミ評論社で内紛が起き、岡留が独立して『噂の真相』を立ち上げた。それからしばらくは『マスコミ評論』(ある時期から「ひょうろん」の表記が漢字に変わった)と『噂真』とが並立していた。ちょうど現在の極右月刊誌『WiLL』と『月刊Hanada』みたいな関係だ。以下、Wikipedia岡留安則」から「来歴・人物」を引用する。

 

岡留安則 - Wikipedia

来歴・人物

鹿児島県曽於郡末吉町(現在の曽於市)生まれ。宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校では野球部に所属。法政大学社会学部入学後、学生運動の闘士となり、大学3年のとき構造改革左派のプロレタリア学生同盟に参加。1970年に卒業後、70年安保を境に学生運動から脱落。同法学部学士入学し、在学中は高田馬場土方アルバイトを経験。1972年卒業。

赤石憲彦率いる東京アドエージに入社し、以後2年半、業界紙の編集に携わる。1975年に退社し、新島史と共同で『マスコミ評論』を創刊、編集長となる。しかし、その後編集方針で新島と対立するようになり、1978年、5人のスタッフともども新島に追放された。

周囲に資金援助を仰ぎ、3000万円を集めて東京新宿に事務所を借り、反権力スキャンダル雑誌を売りとする月刊誌『噂の眞相』を1979年3月に創刊。1980年、『噂の眞相』は皇室ポルノ事件で広告の多くを失い危機に陥るが、その後は広告を頼りにしない方針で立ち直り、休刊まで黒字を維持した。ノーテンキを自称し、個人的な知人・友人であっても容赦なく批判や話題の種にする事で知られた。但し、『噂の眞相』に連載中の人物のみはこの限りではない。また、田中康夫宅八郎の対立では、田中に甘すぎるとの宅側の不満が上がった。

2004年4月号限りで噂の眞相を休刊すると[2]沖縄県移住[1]。翌年1月には「『噂の眞相』25年戦記」(集英社新書)を著し、発行から休刊までの総括を発表した。月刊誌『WiLL』にウェブログの内容を連載。『WiLL』は保守色の強い雑誌であり、岡留の思想とは相容れない誌面だが、花田紀凱編集長との個人的な親交から連載していたが、読者からの反発を受けて2008年2月“紙面の都合で休載”とされそのまま連載終了してしまった。

ちなみに噂の眞相はテレビ番組という形で復活しており、タイトルはそのものズバリ「TVウワサの眞相」。雑誌時代のテイストを残し月1回で放送され、メインキャスターを岡留が務めていた(番組はCSデジタルテレビ局の朝日ニュースターで放送され、2007年3月15日放送分で終了した)。

東京スポーツで「マンデー激論」を月に一度担当。那覇市のスナック『酒処 瓦家別館』の店主を務めていた。

2016年に脳梗塞を発症。その後、がんが見つかり、治療を続けていたが、2019年1月31日、右上葉肺がんのため、那覇市内の病院で死去。71歳没

 

 なんと、岡留は『WiLL』に連載を持っていたのだった。花田紀凱が『WiLL』と同じ紙型の『月刊Hanada』を立ち上げたのも、あるいは『噂真』をパクったのだろうか。

 なお、『マスコミ評論』は1975年創刊で、1976年4月号から1979年4月号まで誌名を『マスコミひょうろん』としていた。1984年5月号をもって廃刊。下記「国立国会図書館サーチにて確認した。

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000027487-00

 

  正直言って『マスコミ評論』が1984年春まで続いていたとは意外だった。売れ行きは『噂の真相』の圧勝で、『マスコミ評論』はじきに見かけなくなった印象を持っていたからだ。岡留の編集者としての能力はそれだけ図抜けていたのだろう。

 ただ、現在の目から『噂の真相』を振り返ると、一言で言えば「総括が求められている『リベラル』の象徴」ということになろうか。

 似たような存在としてすぐ思い浮かぶのが、久米宏の『ニュースステーション』だ。こちらは1985年10月に番組が始まったが、終了は2004年3月だった。『噂真』は同年4月号で休刊、ということは2004年3月発売だから、両者は同時期に幕を下ろしたことになる。

 ニュースステーションが90年代の「政治改革」を後押ししたのに呼応するかのように、岡留は田中康夫を親交を深めたり、『噂真』休刊後にはすっかり「小沢信者」になるなどしていた。現在では「小沢信者」といえば、ごく一部の狂信的な連中がネットに細々と生き残っているくらいのものだが(但し相変わらず彼らの声はばかでかい)、10年前の「政権交代」当時には岡留のような「リベラル」の大物が小沢一郎鳩山由紀夫に熱狂していたのだった。下記はネット検索で拾った2009年末のメーリングリストからの引用。送信日時「2009/12/24 21:27」となっている。

 

www.freeml.com

(前略)講演の内容は民主党、鳩山兄弟、小沢一郎をべた褒めする内容と、「記者クラブ制度」に対する批判ばっかりで、正直、全然面白くなかった(無論、岡留氏だけでなくゲスト出演者等も同じ内容で話していたが)。
民主党が政権を取ってからは、かっての反体制左翼メディアである週刊金曜日・創・朝日新聞毎日新聞は与党贔屓で、読売新聞・産経新聞週刊ポストサピオみたいな保守系メディアは体制批判を繰り返している。
岡留氏は、もうそろそろ「噂の真相」を復刊させたいらしいが、新しい噂真も政権与党の提灯記事を載せるようなら復刊させる意味はないだろうな。(後略)

 

 『噂真』の休刊が2004年春で、この日記を「はてなダイアリー」で始めたのが2006年夏だから、2年あまりのすれ違いもあってあまり岡留安則や『噂真』に言及する機会は多くなかったが、それでも何度かは言及していた。そのうち岡留と佐高信の共著『100人のバカ」 (七つ森書館,2007)から2007年の東京都知事選での田中康夫の動きに言及したくだりを孫引きしておく。

 

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佐高 田中康夫説はないの?
岡留 以前はあったんですけどね。慎太郎が再出馬しなければ田中康夫の選択肢は十分にあったんですよ。でも慎太郎が出るって言っちゃったから、田中康夫も慎太郎に勝てる自信はイマイチないんじゃないですか。まだ小沢一郎田中康夫が蜜月の頃だったけど、長野県知事もいいけど東京都知事のほうがいいんじゃないかって話をしたら、色気は示してました。その頃小沢一郎田中康夫を党首にかつぐ勢いもあった時期だったから、うまくいってたんですけどね。その後は田中康夫民主党を見限った感じでしゃべってました。田中康夫が選挙応援に行くと、民主党は交通費も出さないというようなことまで言ってました。礼を尽くさないってことなんでしょう。
岡留安則佐高信編著 「100人のバカ」 (七つ森書館) 62-63頁)

   今となってはややわかりにくいところがあると思うので注釈をつけておくと、田中康夫長野県知事選に立候補して初当選したのは2000年だから、「小沢一郎田中康夫を党首に担ぐ勢いがあった」というのは旧民主党ではなく旧自由党のことだ。民主党浅野史郎を担いで負けた東京都知事選があった2007年当時、民主党代表は小沢一郎だったが、この時期には小沢と田中康夫との関係は必ずしもしっくりいってはいなかったようだ。

 

 また、『噂真』に大槻義彦の連載があったことも、自分が書いた下記記事で思い出した。

 

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(前略)大槻義彦については、昔から(80年代頃から?)タレント教授として知られていたが、私はこの男をずっと嫌っていた。テレビでは「火の玉教授」として宣伝されていたが、何でもかんでもプラズマが原因だと決めつけていて、断定できるとはとても思えない事柄を断定調で語るのは学者にふさわしい態度と言えるのだろうか、テレビ局と視聴者に対する媚態ではないかと感じていたのだ。

案の定、90年代半ば頃から出版された「と学会」の「トンデモ本」で、大槻は「何でもかんでもプラズマのせいにするトンデモ学者」と判定されていた。ところが月刊誌『噂の真相』はそんな大槻に「オカルト批判」の連載を持たせていて、私は「大槻自身がトンデモなのに、こんな男に『トンデモ』批判をさせるとはなにごとか」と憤っていたものだ。(後略)

 

  ところで、『噂真』のウリはなんといっても「一行情報 - 未確認ネタや掲載に間に合わなかったネタを各ページ左側32文字で掲載」だった。これがあったから、25年立ち読みを続けたんだったよなあ、と思い出したものだ。そのスタイルをこの日記のエントリのタイトルでパクってお叱りを受けたこともあった。

 

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(前略)(私は、辛坊らの航海が24時間テレビの企画であるとの噂の裏がとれなかったので、かつての『噂の真相』の「一行情報 - 未確認ネタや掲載に間に合わなかったネタを各ページ左側32文字で掲載」のスタイルをパクって、「救助された辛坊治郎の『冒険』は日テレ『24時間テレビ』の企画だったとの噂」というタイトル(字あまりだが)の記事にした。そのおかげで、

この件で2chソースで適当なことを書いているのは本当に残念です。
これでは上杉隆と同レベルです。

というお叱りを頂戴してしまったわけだが(笑)。(後略)

 

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 そういえば『噂真』のレギュラー執筆陣には本多勝一筒井康隆が名を連ねていた。筒井康隆が先年ヘイトスピーチで批判されたことは記憶に新しい。また、ある時期に岡留安則本多勝一と仲違いしたが、その際にはホンカツ(本多)を含む朝日新聞幹部記者の特権階級ぶりも浮き彫りになった。しかし、そんなホンカツも『週刊金曜日』で小沢一郎と対談して「意気投合」し、「小沢信者」になってしまったのだった。論敵(本多勝一岡留安則)同士がともに「小沢信者」に回収されてしまったところに、今も克服されていない「リベラル」の大きな課題があると私は思う。
 

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http://www.bk1.jp/review/0000435488 に掲載されている「良泉」という人の書評より。

少し古いが,週刊金曜日2005年1月14日号・1月21日号誌上に,“あの”本多勝一同誌編集委員による小沢一郎インタビュー記事が載っている。記事から感じられる印象では,なんと両氏は意気投合。本多勝一氏「いま現実に政権を自公から奪える一番手が民主党だと思います。(略)党首は小沢さんが一番適任ではないかと思いました。」さらに,インタビュー後記でも本多勝一氏は,「かなり基本的な認識で小沢氏と共通するとは意外だった。」「論理の一貫性でも明晰な頭脳が感じられ,(略)」と絶賛に近い。
しかし,やはり,その言葉の豪快さやわかりやすさだけにごまかされてはいけない。小沢一郎を評価するには彼のウェブサイトに示される「日本国憲法改正試案」や「日本一新11基本法案」をじっくり読み解く必要がある。そしてかつて「壊し屋」と言われた政治手法も。 

  

 岡留安則本多勝一らを含む「リベラル」の高揚が頂点に達したのが2009年の「政権交代」だった。成立した民主党政権は3年あまりで瓦解したが、「リベラル・左派」の迷妄は今もって全く解決されておらず、それどころか2015年以降には、日本共産党復権に執念を燃やす小沢一郎と手を組む事態になり今に至っている。

  ともに小沢一郎に魅入られた本多勝一日本共産党の共通点として、「反米愛国」が挙げられる。また、反共ないし非共産系「リベラル」の問題の根っこには「相対主義」や「脱構築主義」の問題もあると思われるが、そういった多くの問題を抱えて未だに安倍政権を倒すきっかけさえ見出せない、あるいはいつか必ず来るであろう安倍政権瓦解後のビジョンをリベラルが何も示せないでいる閉塞感に満ちた時代に、岡留安則はその生涯を閉じた。