kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

野党(立民・共産)や山本太郎に対する支持者たちの批判の言説も絶え果てている

 安倍晋三が「吹かせた」という「解散風」に関して、いわゆる「7条解散」が違憲かどうか、あるいは総理大臣の解散権を縛るべきかどうかという議論は、結局ほとんど聞かれなかった。

 その代わりに散々聞かされたのは、安倍晋三に解散をせよと迫らないのは「本気」でないからだという山本太郎の声高な叫びであり、それに追随する「ヤマシン」(「山本太郎信者」)たちの空しい言葉だった。なぜか、解散権を放恣に行使してやるぞ、と見せかけて脅しをかけ続けた安倍晋三に対する批判の言葉は全然出てこなかった。山本太郎には安倍晋三と同様に権力を放恣に揮いたい欲望があり、「ヤマシン」たちにはそんな独裁者を盲信して陶酔したいという、「信者」と呼ばれるににふさわしい心理があるのではないかと勘繰ってしまった。

 一方、何やら曖昧ではあるのだが、立憲民主党は総理大臣の解散権を縛る「改憲」を考えているらしい。しかし、まともに日本国憲法を読めば7条改憲が「合憲」であるとする解釈の方が不自然であり、総理大臣の解散権を縛るために改憲を行う必要などないのではないかと私は思う。この政党の支持者にも、政党が掲げる「草の根」の看板とは裏腹の「信者」たちが多いように見受けられる。

 共産党は、再三再四指摘してきたように、「民主集中制」の原理を良いことに、党の執行部と党員と支持者たちが一斉に大きく「転向」する。組織の内部から見れば、みんなで一斉に動いているため、自分たちが「ぶれていない」かのように錯覚しているようだが、それは大きな勘違いであり、外部から見れば、「何だ、あの大きく動き回る巨岩は」としか見えない。

 下記『広島瀬戸内新聞ニュース』の記事は、「『安倍ジャパン』という体制に変質した日本」と指摘しているが、それらは、山本太郎立憲民主党共産党の支持集団についても当てはまる。それぞれの集団はいずれも、集団内で「指導者や執行部を批判する言論が絶え果てた『崩壊の時代』」を迎えているようにしか、私には見えない。

 

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今の安倍総理の権力は昭和天皇東條英機を合わせた位あるだろう。
今の日本は「サウジアラビアサウード家のアラビア」よろしく「安倍ジャパン」という「安倍らの集団」の私物と化している。
 
大きいところでは外交の安倍を演出するためにトランプやプーチンらにバラマキ、また、外資系巨大企業に市民の財産や命を売り飛ばす「改革」。そして、総理お友達優遇の「特区」。小さいところでは、「開業の見込みもない居酒屋に3億円の血税貸し出し」。枚挙に暇はない。
現状は、戦後民主主義からの後退であるのはもちろん、第二次世界大戦中よりも、対抗勢力が体制内にも見当たらない(戦中はまだ東条内閣打倒運動が起きる余地があったし、大審院が翼賛選挙に違憲判決を出したりしている)意味では深刻かも知れない。
「戦前に戻すな」というスローガンを見かけるが、ある側面では今は「戦前」よりも「戦中」、いや、部分的には「戦中よりも酷い」状況にあるということだ。
ちなみに第二次世界大戦中も実は、サイパン島硫黄島陥落でバンバン空襲が本土に来るまでは、多くの日本人が、状況を舐めまくっていたから、「戦中」だと本格的に気づいたときは手遅れなのだ。いわゆる海外派兵のみをしている段階では深刻さには気づかなかったというのが本当のところだ。今の日本も実は海外派兵はしているから、「戦中」なのだ。
正直、一度、「日本国は滅亡し、安倍ジャパンという異質な国になってしまった」という認識から出発すると、例え安倍政権をいますぐ打倒したとしても、再建には相当な時間が掛かるだろう。

 

 なお、冒頭に書いた「7条改憲」に絡めて、先月公開した記事2本へのリンクを改めて張っておく。但し、今読み返すといずれの記事でも7条解散に関する突っ込んだ議論はしていなかった。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

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 1本目の記事で「君側の奸」なる用語にクレームをつけたが、前の元号の「平成」の時代に、天皇及び天皇制への盲信が「リベラル・左派」側にまで広がったことは本当に痛恨事だった。なぜなら、天皇(制)への盲信が広がったことと、政府や政党の指導者・執行部に対する批判がためらわれる風潮が強まったこととは明らかに同根だと思われるからだ。

 昨日も書いたが、山本太郎が主宰する政治団体名に元号を冠したり、立憲民主党が自党が掲げる「デモクラシー」の頭に元号を冠したりしていることは、まことに象徴的だ。