kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

高市早苗に見る「『信者』に媚びる政治家」の害毒と、安倍晋三・小沢一郎に見る「多数の『信者』を抱える政治家」のもっとひどい害毒

 自民党総裁選で安倍晋三が「電話魔」と化し、もともと高市早苗に投票する気などなかった人たちを次々に寝返らせているらしい。決選投票での逆転選出を狙っているに違いない岸田文雄は、初回の投票で2位以内に入れるかどうか気が気でないだろうが、そうなったところで地元で一の子分(溝手顕正)の首を獲られてまで安倍の靴を舐め続けた岸田の自業自得としか言いようがない。とはいえ、万一河野太郎高市の決選投票になったとしたら目も当てられない。どちらが総理総裁になっても、この国に住む人間にとっては安倍・菅時代と同等か、おそらくはもっと苛酷な政治に苦しめられる羽目になってしまう。下記ツイートが言う通りだ。

 

 

 高市早苗の応援団のコアは、一部の界隈で「限界系」と呼ばれる、弊ブログの言葉で言えば「信者」的な連中だ。どうやら彼らの行状は高市本人にとっても迷惑であるらしい。

 

 

 上記ツイートに載っている画像は、弊ブログで記事を更新した時にも現れた。弊ブログは「はてなダイアリー」時代に開設した2006年に、早くもネトウヨに「反日」のレッテルを貼られたものだ。だから、なめとんのか、と不愉快な気分になった(笑)。彼らの制御は、彼らに支持されている高市にもできないらしい。

 しかし高市に対する同情は一切無用だ。なぜなら、彼らを育てたのは高市自身だからだ。「わしが育てた」ならぬ「わたしが育てた」というやつだ。下記黒川滋(くろかわしげる)氏のツイートが指摘する通りである。

 

 

 「左」で「限界系」あるいは「信者」*1を焚きつけたのは、自身は「保守ど真ん中」であるはずの山本太郎だ。さすがの山本も、自民党が生き残りのために総裁選を利用したなりふり構わぬ人気浮揚策に賭けているのを見て立民との内ゲバにかまけている場合ではないと察知し、「野党共闘」入りの道を選んだ*2が、最低限下記ツイートを削除しなければ、山本を信用することなど一切できない。

 

 

 一時期街宣で「リッケンカルト」という俗語を用いていた山本ほどではないが、「信者」を野放しにしていた小沢一郎も同罪だ。鳩山由紀夫も「信者」たちをずいぶん焚きつけたが、鳩山の場合は愚かにも自らが「陰謀論」にはまり込んだ節がある。しかし小沢の場合は「信者」たちが妄想を膨らませるに任せる一方、小沢自身は陰謀論など一切信じなかった。小沢は目的のためには手段を選ばないだけだ。だが小沢のようなモラルの低い政治家はそもそも論外なのだ。

 高市早苗は彼らの「極右バージョン」といえる。その高市のバックにいるのが安倍晋三だが、結局安倍がやりたいことは自分の影響力の強さを誇示したいだけだろう。だが、万万一高市が総理大臣になってしまった場合は安倍よりも極右イデオロギーの害毒はもっと強く出る。というのは、一般則として、エピゴーネンは本家本元よりも過激に走るものだからだ。ことに高市自民党議員の多くのような世襲議員ではないので、過激な極右イデオロギーで支持を集める戦略をとり続けた。その結果、2002年にテレビ朝日が日曜午前にやっていた「サンデープロジェクト」で田原総一朗に「無知で下品」と罵倒されて悔し涙を流し、その印象があまりにも悪かったためか、2003年衆院選奈良1区で、同じ右翼仲間の馬淵澄夫に比例復活もできない惨敗を喫した。当時私は高市の落選に快哉を叫んだものだが、高市はあの忌まわしい郵政総選挙で選挙区を奈良2区に替え、国政に戻ってきやがった。なお高市はずっと自民党にいたわけではなく、初当選時は無所属で、のち柿沢弘治自由党(「柿沢自由党」)を経て小沢一郎新進党に属していた。柿沢弘治*3小沢一郎も、いずれも大嫌いな政治家だから、早くから極右イデオロギーで売り出していたこともあって、私は昔から高市を激しく憎悪し続けてきた。

 今回の自民党総裁選であらわになったのは、前記安倍晋三だの「行動制限に意味はあったのか」とほざいている麻生太郎だの、総裁選では河野太郎を推している菅義偉だのといった無知蒙昧な阿呆たちに壟断され続ける日本の政治の貧困ぶりだ。この事態を招いた要因はいくつかあるだろうが、その中でも最大のものはやはり1990年代の「政治改革」だろう。安倍晋三が政権に返り咲く直前の2012年にも「決められる政治」を求める意見が、「リベラル」系とされるメディアを含めて多く出されたが、そもそも衆院選への小選挙区制導入を最大の目玉とした90年代の「政治改革」こそ「決められる政治」を目指す方向性を持つものだった。

 「政治改革」が無知蒙昧な阿呆たちによる寡頭政治を生み出した。無知蒙昧な阿呆たちのカテゴリに属する安倍晋三小沢一郎も、ともに多くの「信者」を抱える政治家だ。現在では2006〜12年の全盛期と比較して小沢一郎の「信者」(いわゆるオザシン)は激減しているが、かつては現在の安倍晋三と同じくらい多数の「信者」を抱えていた。安倍も小沢も世襲政治家だから、高市早苗のように無理して「『信者』に媚びる」必要などなかった。何もしなくても「信者」たちが勝手についてきたからである。

 だが安倍や小沢の「害毒」は高市の「害毒」よりずっと悪質だといえる。なぜなら、高市は安倍の肩入れがなければ「3人の争い」とやらに食い込むことなど絶対にできなかったからだ。高市に対する批評は、下記ツイートがもっとも的確だろう。

 

 

 そういうことだ。「過大評価」の一語に尽きる。

 高市に対する的確な評価は、19年前に田原総一朗が既に下している。「無知で下品」という評価が、今も高市に見事に当てはまっている。

*1:この場合の「信者」は何も教義を心底から信じている人たちに限らない。ただ、彼らは願望と現状分析との区別がつかず、願望イコール現状認識と化してしまい、自らの思考が極端に走ってしまうことを止められない。その結果彼らの「現状認識」と合致しない現実を「陰謀によるもの」と決めつける「陰謀論思考」に陥る。彼らの思考が限界にまで振り切れてしまうことを指して「限界系」というのだろう。「限界系」も「信者」も、ともに蔑称であるためこれらの用語を嫌う人が少なくないようだが、どちらの表現を用いるにせよ、このカテゴリーを指す言葉はどうしても必要だというのが私の認識だ。個人的趣味から弊ブログでは「信者」という言葉を用いる。

*2:これには「信者」たちは内心大いに不満であろう。「内心」というのは「信者」集団内の同調圧力によって自らの意見を明言あるいは明記できないと思われるからである。

*3:私が柿沢未途を激しく嫌っているのも、半分は親父の柿沢弘治が大嫌いだったからだ。もちろん未途本人によるところも大きい。